《1》
「終わった……」
「人生が、ですか?」
「とっ、届の提出が、ですよもちろん。滅相もない」
思わず零れた独り言に物騒な返事をされ、慌てて手を横に振る。
シンプルに冗談の性質が悪い。ぎょっとするからやめてほしい。ふたり並んで区役所を後にしながら、私はそっと額を押さえた。
そう。
済んでしまったのだ。
本日、婚姻届の提出が。
お見合い後の正式な結婚申し込みからなにから、とんとん拍子に話が進み、あれよあれよと今日である。
研究室に呼び出された例の縁談事前相談から一週間、お見合い当日からはまだたったの四日しか経っていない。
スピード感がおかしい。
私の感覚は完全に麻痺している。
『式は追々として、取り急ぎ婚姻届を提出しましょう』
結局ゴリゴリに押し切られっぱなしで今、というわけだ。
結婚ってこんなに簡単に済んじゃうものなんだ、とさっきからずっと目が回っている。私はもう戸籍上〝八坂心春〟らしい。まったく実感が湧かなくて不安になる。
今日は今月の残業分を相殺する形で午後三時過ぎに退勤し、先生と待ち合わせをして、一緒に区役所を訪れた。
婚姻届そのものは、お見合いの当日にすでに先生が用意していた。
いくらこの機を逃したくないからとはいえ、思いきりが良すぎる。そういうことをするタイプの人だと思っていなかっただけに、驚きは大きかった。
送りますよ、と厚意で切り出してくれた隣の八坂先生を、歩みを止めずに見上げる。
今の先生は眼鏡をかけていないし、髪も上げている。退勤前に院内で見かけたときはいつものモサ男モードだったのにいつの間に、と眩暈がした。もちろん今は白衣も着ていないし、まるで別人だ。
「良かったです。逃げられる前に既成事実を作ってしまえて」
「既成……はい……」
淡々と告げられ、なんとか返事をひねり出す。
オブラートに包むという概念を無視した喋り方を聞きながら、ああ、見た目が変わっても八坂先生は八坂先生なんだな、とむしろ安堵を覚えてしまう始末だ。
一方的に、そして強引に推し進めている自覚は一応あるらしい。
『この内面まで踏まえた上で結婚を望んでくれる女性は相当限られる、というかおそらく存在しないと考えています』
先日そう言いきった先生の声が、ふっと頭を掠める。
条件が合致した〝私〟という物件をよほど逃がしたくなかったのかもしれない。
ただ、変なところだけ自己評価が低くて驚く。前髪と眼鏡の奥にはあんなに綺麗な顔が隠れているのに、先生自身は彼の美貌をむしろデメリットとして捉えている節がある。
あの日、この人は自分の容姿について、弱点だとも口にしていた。
「ええと、なんといいますか」
「はい」
「役所の方、結構あっさりでしたね。もっと『おめでとうございます!』みたいな雰囲気があると思っていたのですが」
沈黙をなんとかしたくて慌てて口を開いたせいか、かなりどうでもいい感想を口走ってしまう。
呆れられるかと思いきや、意外にも八坂先生は「ああ」と振り返るような素振りを見せつつ話に乗ってきてくれた。
「僕もそれは思いました。まぁ我々の立ち居振る舞いに契約感が滲みすぎていたせいもあるかもしれません」
「契約感……確かに」
頷くしかない。私たちの関係において、それは事実でありすべてだ。
履き違えてはならない。先生は私との結婚を望んだわけではなく、結婚できる可能性のある女性とそういう契約を結びたかっただけだ。
もちろん、私だってどうしても先生と結婚したかったわけではない。
だとしても、どのみち今日から私たちは夫婦だ。気を引き締めていかなければならない。
決意を胸に秘めたと同時に、ふと隣の先生が足を止めた。
「では改めて、今日からよろしくお願いします。奥さん」
衝撃的な言葉が続き、私はぽかんと間抜けに口を開けて先生の顔を見つめるしかできなくなる。
奥さん。奥さん。奥さん。
頭の中で無駄にエコーがかかる。
気を引き締めなければ、と決心した矢先にこれだ。
私の中の契約感を薄めかねない発言を、今頃になってから気まぐれで投下しないでほしい。
「かっ、かしこまりました。誠心誠意、契約の義務を果たしてまいる所存です」
「ふふ。頼もしいですね」
再び歩き始める。
なににも隠されていない綺麗な顔を見ていたら、もっともっと挙動不審になりそうで、意識して視線を足元に落とす。
足元をじっと見つめながら、私の短い歩幅に先生が絶妙に合わせてくれていると気づいて、案外律儀なんだな、と思う。
律儀。先日の研究室では私自身が彼にそう評されたことを思い出し、なんとなくくすぐったい気分になった。
駅までで大丈夫だと伝えたのに『アパートまで送ります』と言ってくれて、やっぱり律儀だな、と同じ感想をまた抱いてしまった。
間もなく夕方だ。退勤ラッシュ前の空き気味の電車に揺られ、最寄り駅で降りる。
ここからアパートまでも結構歩くから、わざわざ本当に申し訳ないな、という罪悪感がどうしても募る。
「……仕事は」
駅を出て間もなく声をかけられ、はっとする。
「はい?」
「本当に続けるんですか? 辞めてもらっても構いませんが」
思わず見上げた先で視線がかち合った。
髪にも眼鏡にも遮られていない以上、まっすぐに目が合ってしまう。
仕事に関しては、研究室での最初の相談のときにも言われた。
あのときは私の利点をつらつらと羅列する彼にゴリ押しされただけだったけれど、今は配慮を感じる。きちんと顔を見て訊かれているからかもしれない。
「大丈夫ですよ。私、今のお仕事が好きなので」
「……ならいいんですが」
「ええと、でももし私が働き続けるせいで契約に支障が出そうなら退職も検討しますので、そのときは遠慮なくおっしゃってくださ」
「いえ結構。好きにしてください、そういう条件です」
ばっさりと切り返され、それきり話は終わった。
余計なことを言ったかも、と気落ちしそうになる。せっかく配慮してもらえていたのに、私からもなにか返せるものがないかとつい欲張ってしまった。
以降は特に言葉を交わすことなく、やがてアパートの前に到着した。
後半の沈黙、だいぶ苦しかったな、と住み慣れた建物の前で安堵の息をついたそのとき、先生がげんなりと呟いた。
「話には聞いていましたが」
「はい?」
「かなり不安を煽られる外観ですね、君のアパートは」
思わず隣を見上げる。
声に限らず、表情も結構げんなりなさっていて、噴き出しそうになる。
「いえ、普通だと思いますよ。先生のお住まいがご立派すぎるだけかと」
返しながら、『不安を煽られる外観』という言葉選びにじわじわ笑いを煽られる。
実際、昭和の時代に建てられた古い木造アパートではある。
二階建てで、エレベーターもオートロックももちろんない。とはいっても住み心地は悪くない。そこまで言われると、腹が立つとかムッとするとかよりも先に面白さがくる。
「こんなセキュリティの緩そうなアパートに岩永製薬の専務のご令嬢が……あのお父上がよく許してますね、意外です」
独り言のようにぶつぶつと零す先生の隣で、中途半端に口角を上げて話を聞き流す。
オブラートに包む、という概念が本当にない人だ。私はあらかじめ先生のそうした面を知っているから受け身を取れるだけで、初対面の人が一から関係を構築するとしたら、確かに大変に違いない。
先生の言う通り、先生のことをなにも知らない女性は、外見と経歴の印象だけで過剰な期待を寄せてしまうケースも多いだろう。容易に想像がつく。
「引越の準備は進んでますか?」
「は、はい。段ボールにも少しずつ詰め始めており」
淡々と訊かれて慌てて返事をする。
完全に業務連絡の趣だな、とこっそり思う。
引越は今週末に控えている。
彼の自宅に空き部屋があるからそこを私室に、と伝えられている。
当初こそためらったけれど、結婚したのに別居している、となれば確かに悪目立ちしかねない。それでは先生がこの結婚によって得た利点が霞むだろうし、と早々に頷いた。
父と実母もお見合い婚だったと聞いているし、それと大して変わらないかも、と抵抗なく受け入れたつもりだ。
でも、先生自身はそれでいいのかな、と今も気懸かりではある。
愛のある結婚ではない以上、例えば二世帯住宅みたいにとか、そこまでできなくても近くの物件の別室にとか、プライバシーを開け放たない方法を模索したほうがいいのではないかと気を揉んでしまう。
「あの」
切り出す声は、自然と遠慮がちな調子になる。
「先生はよろしいんですか? その、私のような者と同居なんて」
「駄目でしたか? このアパートよりは快適に暮らせると思いますが」
「いえ、駄目とかではなく、逆に先生はお嫌ではないのかなと」
必死に言葉を選ぶ。
なんだか最近ずっとこれである。
「先生、職場で何年もお顔を隠してらっしゃいますよね? なのにそれよりも重大なプライバシーであるお住まいを……ほ、本当によろしいのかと」
「別にプライバシー保護のために顔を隠してるわけじゃないですけどね」
懸命に言葉を絞り出す私の隣で、ふふ、と笑う声がした。
笑われてしまった。「笑いごとではないですよ」と咄嗟に相手を見上げる。
「今の時代、住んでいる場所を他人に明かすだけだってリスキーなのに、いきなり同居だなんて……」
「なにを言ってるんですか、君は他人じゃない。今日から僕の奥さんでしょ」
奥さん。奥さん。奥さん。
頭の中でまたエコーがかかり、二の句が継げなくなる。
さっきも言われたけれど衝撃の強さは変わらない。しかも当たり前のように言われた。
確かに事実ではあるけれど、私でなければ勘違いされてしまいますよ、もう少し気をつけてください、とたしなめたくなる。
「一度提示した約束を反故にする気はありません。だいたい、全部呑んでも十分僕に利が残る、僕らの結婚はそうした契約であって……あ」
流暢に続いていた言葉を不意に途絶えさせ、先生ははっと指で口元を押さえた。
なにかに気づいた様子だ。なんだろう次は、と受け身を取るために身構える。
「もしかしてそういう心配ですか?」
「はい?」
どういう心配のことを言っているのか分からない。
今度はなんだ。私を置き去りにしてひとりで納得しないでほしい。話についていけず焦っていると、極めて真剣な表情で切り出される。
「もちろん寝室は分けます。僕、人の気配があると寝つけませんし」
「あっ、それは助かります……」
寝室。その手の話か、とようやく理解が届いてほっとする。
先生って人の気配があると寝つけないんだ、と笑いそうになったものの、唇を噛んで堪えた。意外な理由を面白いと感じてしまって申し訳ない。一周回ってそういう気遣いの可能性もあるけれど。
つまるところ、貞操に傷のつかない結婚、ということだ。お互いに。
ほっとする。
確かに、今までその点に言及する機会もされる機会もなかった。どこまでも淡々とした契約結婚に、そんなプライベートな内容が盛り込まれるわけはないだろう、と勝手に思い込んでいた。
とはいえ、お互いに誤解なく快適な契約結婚生活を送るには、不明点をひとつずつ擦り合わせて詳らかにする過程は欠かせないのかもしれない。
というか、私は私で迂闊だった。
ひとりの女性として、もう少し真面目に自分の心身に気を配ったほうがいい。
「ではまた週末に」
「あっ、はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
アパートの前で会釈をして別れる。
週末には同居開始か、とぼんやり考える。荷造りを始めているにもかかわらず、さっぱり実感が湧かない。
ドアの前で振り返ると、先生はまださっきの場所に立っていた。早く入りなさい帰れないでしょ、みたいな顔に見えた。慌てて頭を下げ、玄関の鍵を開ける。
狭い玄関に足を踏み入れるや否や、急速に緊張が解けていく。
「はぁ~……」
もう気を抜いて大丈夫だと思ったら、間抜けな溜息が口をついて出た。
八坂先生は決して悪い人ではない。ただ、対面している間の緊張感がどうしても拭えない。
仕方がない。私たちの立ち位置は懸け離れている。片やエリートドクター、片やしがない事務員だ。
まったく、なんという夫婦が誕生してしまったんだ。本当に。
ぎし、と派手に軋む床を踏み締めて部屋に入る。ところ狭しと物の並ぶキッチンを見渡しながら、悪くない物件だと思うんだけどな私は、と改めて苦笑が零れた。
先生の言う通り、古い物件ではある。ギシギシとうるさいかもしれないし、防犯面でも不安がないかと訊かれれば一切ないとは言いきれない。
でも、変に自分の基準を上げてしまいたくなかった。収入に見合った、地に足のついた生活を送ることが、私の長年の最優先事項だったから。
顔をしかめそうになったそのとき、通話の着信音が響いた。
びく、と背筋が強張る。
父からだった。ただでさえ忙しい人なのに、私がお見合いを引き受けて以降、以前よりも頻繁に連絡が入っている。
「もしもし?」
『ああ、心春。私だ』
うん、と返事をしながら、心配をかけているなぁ、と肩身が狭くなる。
これまでだって、進路も就職先も全部ひとりで決めてきた。
大丈夫だよ、と真っ向から伝えればそれで済むのだけれど、今回ばかりは私もなかなか虚勢を張りきれない。
『仕事は? 終わったか?』
「うん。今帰ってきたとこ」
『そうか。どうだ、これから一緒に食事でも』
普段と同じで、父の口調は淡々としている。でも配慮も感じる。
つくづく心配をかけているなぁ、とまた思う。父の気遣いを受けるたび申し訳なくなってしまう。
少し迷った。
いいよ、と返事をする気だったのに、結局、私は首を横に振った。
「ごめん。今日は、ちょっと疲れてて」
ごめんね、と重ねて謝る。
この齢になっても、私は心のどこかでまだ世梨奈の反応を怖がっている。
父に、私だけ食事に連れていってもらうことが怖い。私も世梨奈もとっくに大人なのに、昔、世梨奈に大声で泣き喚かれたときの苦い記憶が頭に焼きついたきり離れない。
なにより、今は状況が状況だ。
実はさっき婚姻届を提出してきたんだよ、なんて、食事の席で顔を突き合わせて呑気に報告できる気はとてもしなかった。
『先方になにか弱みでも握られているのか?』
婚姻届の証人欄への記載をお願いしたとき、父から言われた言葉だ。
真剣な顔だった。父はあのとき、気圧されそうになるくらいの視線を私に向けていた。
そもそもお父さんの面子のためのお見合いだったのにお父さんがそこまで狼狽えてどうするの、と笑いたくなって、でも気持ちは痛いほど分かって、『ううん』と首を横に振って否定するだけで精一杯だった。
海外帰りのエリート医師に握られる弱みが私なんかにあるわけないでしょ、と冗談交じりに返すつもりだったのに、そんな軽口を叩ける雰囲気ではなかった。
父の困惑を思い出したら、自然と、お見合い当日の席の記憶も蘇ってくる。
私の隣には父、八坂先生の隣には父と懇意にしている青柳病院長――あの日、振袖の帯の中、私の胃はひたすら悲鳴をあげていた。
いつもの冴えない丸眼鏡モードで現れると勝手に思い込んでいた分、いつもとは違うシャープな眼鏡と高級ブランドのスーツに身を包んだ八坂先生は、普段とはまるで別人に見えた。
父は明らかに狼狽していた。世梨奈の話と違う、と混乱したのだろう。
しかもその場でお返事まで頂戴してしまったわけで、さすがに態度には表さなかったものの、内心では意味が分からず困惑していたはずだ。
「……はぁ」
思わず溜息が漏れた。
言ってはなんだけれど、八坂先生のスペックなら本気を出せばそれこそ引く手あまただろうに、どうして私なのか。
もう何度も同じ疑問を繰り返している。でも。
『隠さなかったら最初の期待値が無駄に高まる』
『そこからすごい落差で弾かれるだけ』
うんざりと零していた先生の言葉が脳裏をよぎる。
先生自身が口にしていた通りだ。まさしく世梨奈がいい例なのだ。
それにあの口ぶりから考えるなら、世梨奈とのひと悶着以前にも、彼はきっと何度も同じような経験を重ねてきたのだろう。
先生の仕事への向き合い方、人となり、加えて院内での評判も評価も噂もおおよそ知っていて、その上で一方的な口約束を守り続ける程度には口が堅い。
先生にとって、私はきっと、本当に〝ちょうどいい〟のだ。
すべては研究室での事前相談の通りに運んでいる。
けれど、それを知っているのは私と先生だけだ。それこそ今この瞬間に至るまで、父はずっと度肝を抜かされ続けているのかもしれない。騙しているみたいで申し訳なくなる。
ピロン、と今度はメッセージの通知音が響いた。
スマホに視線を落とすと、また父からだった。通知と一緒に表示された短い文章が、ステータスバーに吸収されるぎりぎり手前で読み取れた。
『なにかあったら必ずお父さんに相談しなさい』
スマホを片手に持ったまま、ふ、と唇が緩んだ。
父が自分のことを〝お父さん〟と呼んでいるところを見るのはいつぶりだろう。幼少期以来かもしれなかった。
婚姻届、今日出しちゃったよ、お父さん。
ごめんね、いつも相談しろって言ってくれてるのに、またひとりで全部決めて。
『大丈夫 ありがと』
心の中で謝りながら、短い返信を打ち込んだ。
縁談を引き受けた後にも電話で『大丈夫』と言った、あのときと同じテンションの返事に見えてくれたらいいな、と思った。




