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《2》

「おはようございます」


 翌日。

 午前七時三十分手前のフロアには、もう同僚が何人かいた。


 どんなに早く出勤しても誰かしらいる。

 忙しい職場だからと言ってしまえばそれまでだけれど、皆ちゃんと寝てるのかな、と自分を棚に上げて心配になる。


 世梨奈には、昨日の夜のうちに『電話に出られなくてごめんね』という謝罪と、メッセージへのお礼を伝えた。

 返信はなく、正直ほっとした。

 謝ったりお礼を言ったりと、私が下《した》手《て》に出ていれば、あの子からの粘着やマウントも長引かずに済む。


 多賀部さんがフロアに入ってきたのは、八時を少し過ぎた頃だった。


「おはようございます先輩! 昨日は本当にありがとうございました、助かりました!」

「あっはい、おはようございます。送付前の最終チェックだけはよろしくお願いします」


 何度も頭を下げられ、そこまでされると居心地が悪いな、と落ち着かなくなる。

 給湯室の茶葉に関しては当たり前に誰からも触れられず、八時十五分には朝礼が始まった。終わるや否や、内線も外線もひっきりなしに電話が鳴り響き始めた。


 パソコンには五十件近い未読メール、うち二十件近くのタイトルに〝至急〟の文字が刻まれている。

 この忙しさが我が総務係の日常だ。バタバタとさまざまな業務に追われるまま、時間はどんどん過ぎていく。


 昼休憩は、予定よりも一時間近く遅くなった。

 午後もやることは山積みだ。唇を引き結び、気合を入れてフロアへ戻ると、梶《かじ》係長が電話に応じているさまが目に留まった。


 係長の腰の低さは、他部署にも知れ渡っているレベルの筋金入りだ。

 今も電話越しの相手に見えているわけもないのに、ひたすらペコペコと頭を下げながら喋っている。いつも通りの光景のはずが、なぜか私の胸には奇妙な緊張が走った。


 そんな係長と目が合った、その瞬間。


「あっ、ちょうど今戻ってきました! このまま少し! お待ちください!」


 急に声を張り上げたと同時に、梶係長は一転、深刻な表情で私に手招きしてくる。


 なんだろう。私宛ての電話なのか。

 また官公庁用の書類のリテイクとかかな、とこちらも表情を引き締めつつ、急ぎ足で係長の席へ寄っていく。


「なんでしょう?」


 小声で係長へ尋ねると、丁寧に保留ボタンを押した係長が、困ったぞと言わんばかりに眉尻を下げて受話器を指差した。


「八坂先生」

「えっ」


 派手に心臓が跳ねた。


「八坂先生、ですか? 脳外の?」

「うん。思い当たる節とかある?」


 用件が見えない焦りからか、梶係長の額にはうっすらと汗が浮いて見えた。


「い、いえ。ご本人に伺ってみないことには、なんとも」


 返事をしながら、思い当たる節、という係長の言葉を反芻する。

 なくはない。それどころかおおよそ察しはつく。ただ、現時点ではそう答えるより他にない。


 慌てて自席へ戻り、係長が保留にした内線電話に応じる。


「お待たせいたしました。お電話代わりました、由良でございます」

『どうも。脳外の八坂です』

「は、はい。お疲れ様でございます」


 応答している間も、梶係長の視線がギラギラと私を貫いてくる。

 非常にやりにくい。


「その、このたびはどういったご用件で……」

『時間をもらえますか。今日中に』


 言葉を選んだ問いかけはあっさり遮られ、ひゅる、と不穏に喉が鳴った。

 断られる想定は、はなからしていなそうだ。どう答えたものか返事に詰まる。


「ええと、今日中、ですか?」


 しどろもどろに返事をひねり出した頃には、係長は自席を離れ、いつの間にか私の隣に立っていた。

 化け物でも見るような目で私を凝視してくる。怖い。


「そうですね、七時、頃でもよろしければ」


 細い声で告げた途端、トントンと指でデスクをタップされ、ぎょっとする。

 はっと顔を上げると、鋭く目を光らせた係長と視線がかち合った。「先生のご都合に合わせなさい」と小声で告げられ、慌てて口を開き直す。


「いえ失礼しました、お合わせします。先生のご都合はいかがでしょうか」

『では今から来てもらえますか。話自体は十分もあれば終わります』

「い、今から、ですか?」


 話の内容よりも、隣からの圧に気を取られる。

 係長の顔色を窺うような口調になった途端、係長の指が強引に視界に入り込んできた。親指と人差し指で作った指の輪がOKを意味していると、相手の指と顔を交互に見てから思い至る。


 早く行きなさい、一体なにをしたんだよ君は、と顔に書いてある。


 けど午後は至急の作業が、と喉まで出かかった声をなんとか呑み込んだ。

 確かに、多忙なドクターをこちらの都合で待たせるなんて言語道断だ。意を決して係長に頷き返し、私は返事を口にした。


「かしこまりました。すぐに向かいます」



     *



 指定された研究室へ、小走りに急ぐ。

 大学の研究室棟は遠い。届け物などで足を運ぶ機会はそれなりにあるけれど、毎回、自分が場違いすぎてすさまじく緊張する。


 ようやく辿り着いた目的地のドアの前で、一度深呼吸してから、私はインターホンのボタンに触れた。


『はい』

「総務課の由良と申します。八坂先生はおいででしょ……」


 質問の途中でキーが解錠される音がした。

 間を置かずにガチャリとドアが開き、思わず首ごと視線を上げる。


「あ」


 長い前髪、分厚い丸眼鏡、ひょろっとした印象の長身。

 間違いなく八坂先生だ。


 総務係唯一の男性である梶係長よりも遥かに背が高い。

 しっかり見上げないと目が合わない。いや、見上げても目は合わない。彼自身の無造作に伸びた前髪に、特徴的な丸眼鏡ごと遮られているせいだ。

 眼鏡も前髪も相変わらず分厚くて、表情がまったく読み取れない。


「どうも。すみません、わざわざ」

「い、いえ」

「中にどうぞ」


 促されて緊張が走る。

 どの研究室へ向かう場合でも、今まではドアの前で用件が済んでいた。室内に招かれるのは初めてだ。


 こうして呼び出してまで、八坂先生が私に話したいこと。

 想像するだけで胃が痛む。私の予想が合っているなら、呼び出しの理由は私用だ。


 これから私は、他人の目を遮れる場所でなければ聞かせられないような話をされる。多分。


「先生。それでその、ご用件は」

「全然似てませんね」


 おずおずと尋ねた私への返事は予想外のもので、呆気に取られてしまう。


「はい?」

「これ、本当に君の妹?」


 困惑を隠せない私の、これ、という鸚鵡返しをスルーした八坂先生が差し出してきたのは、一枚の名刺だった。


「あ」


 息が詰まる。

 長方形の紙片に刻まれている名前は、案の定〝由良世梨奈〟だ。


 ざあ、と一瞬で血の気が引いていく。


 不機嫌を隠しもしない先生の顔は、もう見上げていられなかった。

 八坂先生は、やはり世梨奈にいい感情を抱いていない。そう思い至るや否や、自然と腰が直角に折れた。


「申し訳ありません。先日は、妹が大変な失礼を」

「まったくです。術前で気が張ってる中、こちらの都合も考えずに馴れ馴れしく声をかけてくるわベタベタ触ってくるわで大迷惑でした」


 深々と頭を下げたまま、背筋が凍りつく。

 そんな振る舞いをしていたとは……想像以上にひどい。製薬会社の社員として訪れたのなら相応の態度を取るべきだ。下手を打てば、専務を務める父にだって迷惑が及ぶだろうに。


 女性からのそうした対応を喜ぶ医師が皆無だとは言わないけれど、八坂先生は絶対に嫌がる。この病院に勤めるスタッフなら当たり前に察しがつく。

 なにせ相手は、医療のこと以外に一切の関心を持たない八坂先生だ。

 それでなくても、数多の患者を救っている名医の腕に、不特定多数の目がある院内で馴れ馴れしく触るなんて――ぐら、と足がもつれそうになる。


「本当に申し訳ございません。とんでもないご迷惑をおかけしたこと、妹に代わってお詫びいたします」


 さらに深く頭を下げて謝罪を重ねた私へ、ほどなく「へぇ」と挑発めいた声が降りかかってくる。


「とっくに成人してる身内の尻拭いまでやるんですか、便利屋さんは」


 淡々とした語り口ではあったけれど、嫌味にしか聞こえない。

 唇を噛み締める。便利屋なる不名誉な私のあだ名を、医師のこの人まで知っているのか、と苦い気分が胸に広がっていく。


 なんと返せば角が立たないか、口の中で懸命に返事を吟味する。


 そうしていると、八坂先生は世梨奈の名刺をすっと取り下げた。

 私に頭を下げさせて溜飲が下がったのだろうか。意図を察しあぐねていると、淡々とした口調で、先生はがらりと話題を変えた。


「今週末、よろしくお願いしますね」


 急に変わった話についていけず、一瞬、目が点になる。


 はっと顔を上げて先生の目元を凝視したけれど、目が合ったかどうかはやはり分からなかった。

 丸眼鏡にいたずらに光が反射するばかりで、表情までは見抜けない。


 父は当院の青柳《あおやぎ》病院長と懇意だ。そして八坂先生は、病院長の自慢の教え子。今回の縁談は、おそらくその関係で持ちかけられている。

 失礼がないように、と念じながら、言葉を選んで返事を口にする。


「こちらこそよろしくお願いいたします。恐縮です、貴重なお時間を頂戴して……」

「今の話ですか? それとも今週末の話?」

「両方ともです。あの、当日は手短に済ませていただいて構いませんので」


 必死に喋り続ける途中、ふ、と間が空いた。

 わずかに首を傾げた先生は、表情こそ不明瞭ではあるものの、少し怪訝そうに見えた。


「手短?」

「はい。お断りになりますよね、縁談」

「いや断りませんけど」

「えっ」


 目を見開き、視線が合わないと分かっていながら先生の顔を凝視してしまう。

 もしかしたら目は合っていたのかもしれない。自分の髪に指をかけた先生は、おもむろに髪を掻き上げ、眼鏡を外してみせた。


 こくりと生唾を飲み込む。


 普段は髪と分厚い丸眼鏡に隠された、思いもよらないほど端整な目鼻立ち。院内スタッフの大半が知らないだろうその素顔を、私は知っている。

 偶然とはいえ、過去に一度、見たことがあるからだ。


「君は見たことありますもんね。僕の顔」


 形の良い目を細めた彼に淡々と訊かれ、返答に詰まった。「はい」という細い返事が、渇いた喉からかろうじて零れる。


 かれこれ一年近く前になる。

 完全に事故だった。急ぎで向かった備品倉庫で、本当にたまたま鉢合わせただけ。


 驚いたのは確かだ。誰このイケメン、初めて見る先生なんだけど、とひと息に頭が混乱して、それが顔に出てしまった自覚はあった。

 彼の正体に気づいたのは、彼が光の速さで眼鏡をかけ直したからだ。トレードマークの分厚い丸眼鏡を見て、ああ、八坂先生か、とやっと閃いた。


『内密にお願いします』


 途端に不機嫌そうに告げられ、ぎくりと背が震えたことを覚えている。

 反射的に目を逸らして『承知しました』と返しながら、内密に、という言葉の意味を一拍遅れて理解した。〝顔を見たことを周囲にバラすな〟という意味か、と。


 自分は、見てはいけないものを見てしまったのだ。

 そんな気持ちが一気に増し、先生が倉庫を立ち去るまで、もう顔を上げられなかった。


 今思えば、先生はあのとき目元を押さえていたし、目にゴミでも入って眼鏡を外していたのかもしれない。そんなところに急に湧いて出た私を見て、八坂先生もさぞ驚いたことだろう。


 あの件以来、八坂先生から個別にその件を尋ねられたり念を押されたりなどは一度もされていない。

 顔を見られたことを心底嫌がっているように見えた。それまでに先生の外見に関する噂を聞いたこともなかったし、本当に見られたくないのだろう、ならばなおさら迂闊に口外するべきではないと、私は口止めされた通りに秘密を守ってきた。


 意外だ。

 あんなたった数秒のできごとを、先生が、わざわざ私の顔ごとしっかり記憶していたなんて。


「覚えてらしたんですね。本当に一瞬だったと思うのですが」

「まぁ意外でしたので」


 意外、と直前に思い浮かべていた言葉が不意に返ってきたせいで、つい眉が寄る。


「意外、ですか?」

「ええ。あれからなにも変わらず一年が過ぎました、つまりこの一年、君は僕の口止めを律儀に守ってくれていたわけですよね」


 それはまぁそうだけど、と生唾を飲み込む。

 内線電話では〝私〟だった一人称が〝僕〟に変わっている。先生はきっと今、本当にプライベートの延長としてこの話を切り出している。


「誰もなにも言ってこないし、妙な噂が回ったりもしなかった。噂とかあだ名とか、普通ならそういうものって簡単に広まるでしょうに……ねぇ便利屋さん?」


 君のあだ名もそうでしょう、と言いたいのかも、とピンとくる。


 事実、私のあだ名は事務部の壁をあっさりと越え、医局スタッフの間でも囁かれている始末だ。

 人の口に戸は立てられない。声に乗った言葉というものは誰かしら聞いているし、聞きたくないのに聞こえてきてしまうケースだって珍しくない。


 私の口の堅さに信頼を寄せていただけていることは理解した。でも。


「で、ですが先生」


 手を振りかざし、私はにわかに語調を強める。


「縁談に関してはそういった話は別と申しますか、結婚とは生涯に関わる選択であるわけでして、その、なんといいますか、もう少し真面目に検討されたほうがよろしいのでは」

「そんなに適当に見えます?」

「いっ、いえ、そこまでは申しませんが、しかし」


 必死に食い下がる。

 だっておかしい。冷静に考えてみてほしい。我々が今しているのは、縁談の話なのに。


「君も知ってると思いますが、僕はなにに代えても職務と研究を最優先する人間です。医療以外には興味もなく、まぁ言ってしまえばオタク気質といいますか」

「オタ……」


 オタク気質。そうですね、とつい深々と頷きそうになる。

 案外ちゃんと自己分析ができているんだな、と密かに感心しつつ、失礼のないようにと頭をフル回転させて返事をひねり出す。


「はい。医療に対する先生の情熱、もちろん存じております」

「どうも。院内のスタッフはその理解がある時点でかなりありがたいんですよね、これが外部の女性となると本当に……面倒なんです、例えば君の妹さんのように」

「ほっ、本当に申し訳ありませんでした、身内が大変なご迷惑を」

「ああ、謝罪はもう結構。実際、妹さんは嫌がったんでしょう? 縁談を引き受けたのが君、ってことはそういうことですよね」


 その通りだ。息が詰まる。

 世梨奈の名刺を突きつけてきたときは露骨に嫌そうにしていたけれど、今の先生は、声も表情も極めて冷静に見えた。


「僕自身、性格の難は自覚しているつもりです。この内面まで踏まえた上で結婚を望んでくれる女性は相当限られる、というかおそらく存在しないと考えています」

「どっ、どうでしょうか、ゼロとは言いきれないのでは」

「いえ、これは謙遜などではなく経験によってすでに判明している事実です」


 どうしよう。どういう顔をしていればいいか分からない。

 謙遜ではなく事実。そこはもう揺らがないんだな、これまでの人生でよほどろくでもない目に遭ってきたのかもしれない、とうっすら同情が滲む。


「ええと、それでは院内スタッフの前でお顔を隠さずにいらしたらどうでしょうか? 端的に申し上げまして、先生のお顔立ちは非常に……」

「は?」


 名案とばかりに切り出した途中、先生が片眉を釣り上げた。

 声のトーンもあからさまに低くなる。


 ひゅる、と喉が鳴る。

 しまった。逆鱗に触れた可能性が高い。


「あ、あのっ、今のはその」

「隠さなかったら最初の期待値が無駄に高まるだけでしょう、知ってるんですよそこからすごい落差で弾かれるだけなんですそれこそ君の妹さんと同じように」

「あっあ、は、あの」

「一日の大半を過ごす職場でわざわざ自分から弱点を晒してそんな目に遭うなんて正気の沙汰ではないと思いませんか、思いますよね」


 一気にしどろもどろになった私の耳に、怨嗟の滲んだ低い声が注ぎ込まれてくる。

 いけない。完全に間違えた。黒いオーラが白衣越しに滲み出ている。噴き出した冷や汗が、ど、と背筋を伝い落ちていく。


「すすすすみませんすみません、知ったふうな口を利いてしまい本当に申し訳……っ」

「はぁ。まぁ構いませんが」


 咳払いをした後、先生は大仰に溜息をついてみせた。

 直角に折って平謝りしていた腰の傾きを、私はほんの少しだけ元に戻す。


「さっき君が言った通りで、結婚って生涯に関わる選択でしょう?」

「ええ、はい、おっしゃる通りかと」

「であれば僕はリスクを抑えてそれを成立させたい。縁談は結婚が成立するまで延々と湧き続けるわけですし、どのみち結婚しなければならないなら、仕事における僕の姿勢を実際に見知っている相手のほうが手っ取り早……より理想的です。加えて」


 今〝手っ取り早い〟って言おうとしましたよね、と挟みたくなった口を、私はぎりぎりで噤んだ。

 唇を噛んで耐えた私を、先生の視線がまっすぐに射抜いてくる。


「君のその謙虚な姿勢と口の堅さ、正直かなりいい」

「えっ」


 意外な褒め言葉のせいで、思わず間抜けな声が漏れた。

 私を見つめてくる相手の顔を、穴が空くほどまじまじと凝視する。綺麗な顔だな、などと呑気に感想を抱いている余裕はすでになかった。


 もしかして私は、先生が結婚相手に求める条件を、知らないうちに満たしてしまっているのでは。

 さっきまでとは種類の違う緊張が、ざら、と不穏に背筋をなぞる。


「そう……でしょうか……?」

「だいぶ嫌そうですね」


 ものすごく懐疑的な訊き方になった。

 しかも先生の返事を鑑みるに、今の私は、顔にも思いきり内心が滲み出てしまっているらしい。


「うーん、駄目かな。君にもそれなりに利のある話だと思うんだけど」


 口調を崩し、八坂先生はこめかみを指でとんとんと叩き始めた。

 そんな彼から視線を逸らせないまま、私は大きく目を見開く。


「利、ですか? 私に?」


 自然と、なんですかそれは、と訝しむような声音になった。

 父の面子を守ること自体は、結婚が成立しなくてもぎりぎり可能ではある。眉を寄せた私とは対照的に、八坂先生はどこか楽しげに表情を緩めてみせる。


「そうです。例えば、結婚を機にあの癖の強い妹の尻拭いをしなくて良くなる、とか? どうせ無理やり押しつけられたんでしょ、この縁談も」


 はっとする。

 ようやく話の輪郭が見えてきた。


「君は妹の便利屋役を終わりにできて、僕はリスクの低い結婚を実現できる。つまり我々の結婚には」


 私の背丈に合わせて軽く身を屈めた先生に顔を覗き込まれ、真正面から視線がかち合った。


「お互いに利があると言えますよね。契約として十分に成立するだけの利が」


 目が離せない。

 先生の唇は弧を描いていた。笑っている。そういう顔もできるのか、と不躾なほどじっと見つめてしまう。


「どうです? お願いできませんか?」

「ど、どう、と言われましても」


 強引すぎる。返事に詰まる。

 困惑する私へ、先生の言葉は畳みかけるようにして続く。


「割り切ってしまえばそう悪い話ではないと思いませんか? 経済的に不自由をさせるつもりは一切ありませんし、仕事も続けるなり辞めるなり自由に選んでもらって結構ですよ、あぁ家事に関しても外注前提で考えていますのでご心配なく、それから……」

「あっ、待っ、あの」


 急につらつらと、私の利点らしきものをあれこれと切り出してきた先生を、私は両手を胸の前に広げて制止する。


「そ、そんなに一気にいろいろ言われましても、こ、困りま……」

「さっさといい返事をもらいたいので他の利点も並べ立てて早急に丸め込もうとしているだけですが」

「もうちょっとオブラートに包んだほうが良くないですか!?」


 遠慮のない物言いのせいで、堪らず声を張り上げてしまう。

 困った。相手が誰であったとしても、お願い、と頼み込まれるとうまく断れない。それ自体は私自身の残念な性《さが》でしかない。


 さっさと。早急に。

 先生の言葉選びも私を焦らせる。多忙な相手を私が待たせている、という焦燥と罪悪感がひと息に膨らむ。


「まぁ……分かりました、前向きに検討させていただきたく……」


 結局、細い声とともに頷いた。

 私がそうするとあらかじめ分かっていたかのように、先生の唇がさらに深く弧を描く。


「ありがとうございます。ふふ、さすがは頼まれたら断れない便利屋さんだ」


 今度の便利屋呼ばわりには少しムッとしたけれど、軽やかな笑い声のせいか、苛立ちはすぐに霧散した。


 先生ってそんなふうに笑えたんだな、と思う。思ったら最後、途端に挙動が不審になりそうで怖くなった。

 調子が狂う。今すぐ眼鏡をかけ直して、早く通常の冴えないモサ男モードに戻ってくれないか、と困惑のまま強く願う。


「では決まりですね。どうか当日までそのまま心変わりしないでください」

「あの、私はまだ検討としか申し上げておりませんが」

「心変わりしないでください」

「ええ……」


 念を押され、弱々しい私の抗議の声はあっさりと掻き消えた。

 とそのとき、PHSの着信音が鳴り響いた。先生の端末だ。着信を知らせる単調な電子音が、室内に流れる空気を一瞬で硬くする。


「はい、八坂です」


 即座に通話に応じた八坂先生の、「すぐ向かいます」という低い声の後、通話はほどなく終わった。

 緊急の連絡かな、と緊張が走る。


「戻ってもらって結構ですよ。私も出ます」


 話している間は〝僕〟だった一人称が、〝私〟に戻っている。

 眼鏡を再装着する先生の指をぼうっと見つめてから、ようやく空気の変化を呑み込めた私は、はっと我に返って背筋を伸ばした。


「し、承知しました。それでは失礼します」

「今話せて良かったです。七時だったら多分こっちが無理でした」


 七時ってなんの話だっけ、と怪訝に感じてから、さっきの内線電話で最初に私が提示してしまった時間の話か、と気づいて恥ずかしくなる。

 この人は、私が自分の予定を優先できるような相手ではない。当然だ。


「先ほどは軽率でした。大変失礼しました」

「いいえ、構いませんよ」


 電話での非礼を謝ったものの、返事をしてくれた先生とはもう目が合わなかった。

 開いたドアを先に跨ぎ、研究室を後にする。


「ではまた週末に」

「は、はい。失礼します」


 私が戻る側とは反対の方向へ颯爽と背を向け、先生は足早に廊下を進んでいく。

 私も早く戻らなければ、と来た道を戻ってフロアへ向かう。


 眼鏡をかけ直した八坂先生は、いつも通りの冴えない外見に戻っていた。

 不思議だ。眼鏡ひとつ装着するだけで、全身をまとう雰囲気までがらりと変わるなんて。


 でも、なんだろう。今までとはなにかが違う。

 呼び出しに応じる背中が格好良く見えた。素顔を知っているからとか、契約とはいえ結婚の約束をしたからとか、そういうことではなく、もっと純粋にそう感じた。


 実際のところ、激務の隙間を縫って私と話す時間を作ってくれたのだろう。

 ずっと忙しそうで身の縮む思いがする。忙しいのは私も同じだけれど、先生と私では、圧しかかっているものの重さも大きさも違う。


 ――なんにしても、だ。


 なかなかとんでもない話になってきた。

 大変だ。


「ただいま戻りました」


 事務部のフロアへ戻り、扉を開いたと同時に、係長と真っ先に目が合った。

 ハラハラと落ち着かない様子で顔色を窺ってきた梶係長は、他のスタッフの怪訝そうな視線も気に懸けず、慌てて立ち上がって私の元までやってくる。


「おかえり。なんだったの、用件?」

「ええと……先日、私の身内が先生に失礼を働いたようで、その件をお詫びしてまいりました」


 ごく一部の話をかいつまんで伝える。

 嘘はついていない。


 父と妹の勤め先を知る係長は、それ以上問い詰めてくるでもなく納得してくれた。

 総務係の業務ミスではないと判明したからか、「そっかぁ、お疲れ様」と分かりやすく胸を撫で下ろしてみせた後、「じゃあさっそくなんだけど」と午前の業務の修正を指示してきた。そこに新たな業務も追加され、普段通りの流れだな、と苦笑が浮かんだ。


 ……それにしても〝契約結婚〟か。

 修正指示を受けたファイルを開きながら、私は溜息を噛み殺す。


 実感が湧かない。

 週末のお見合いの席を迎えたらきちんと湧いてくれるだろうか。今はただ、目の前に積まれた仕事のことしかうまく考えられない。


 妹のお下がりの、断られる前提だったはずの縁談が、まさかこんな形で成立してしまうとは。


 世梨奈の反応が気に懸かる。また不機嫌に私を責めたり怒ったりしないかな、となかなか不安が抜けない。

 とはいえ、元は妹が願い下げして私に押しつけてきた縁談だ。それに、八坂先生が偏屈で無愛想なのは事実で、あの子が機嫌を損ねる理由はない。きっと大丈夫だ。


 大丈夫ってなにが、と一拍遅れて失笑しそうになった。


 結婚という、人生に関わる選択が目の前に迫っている状態で、自分の心配より妹の機嫌を優先して考えている。

 そんな自分を、かなり変だな、と心底思った。

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