四十日の前半と、読めない字の練習
船に乗って三日、船酔いで吐いた。
桟橋を離れて半日で、足の裏に来ていた揺れが腹へ上がった。樽の間に横になっても、目を閉じても、船は動いている。固いパンを口へ入れかけるだけで、また喉が詰まった。
俺は、船はダメみたいだが、ルーチェは平気みたいだ。
頭の布を押さえ、船べりから戻ってくる。揺れに合わせて足を置くところを変え、俺の横へしゃがんだ。
「レイ、水だよ」
背中を支えられ、椀へ口をつけた。
船の水は、朝と夕方に椀で一杯ずつ配られる。これはルーチェが受け取ってきた分だった。
「……お前のだろ?」
「わたしは水袋のを飲む。レイは、椀の方が飲みやすいでしょ?」
少しずつ飲んだ。ルーチェは急かさず、俺が顔を離すまで椀を持っていた。
「どうして、平気なんだ」
「分かんない。揺れても、気持ち悪くならないよ」
「うらやましいな……」
「レイは、今は寝てていいよ」
昼は荷の間で休み、夜は人目を避けてルームを開けた。中に入るといくぶんかましだが、横になっても、腹に残った気持ち悪さはすぐには消えなかった。
四日目の朝、ようやく空腹で起きた。
*
船の主へ、仕事を休んだことをわびた。
主は俺の顔を見て、腹を指した。
「もう、平気か?」
「はい。今日から見ます」
「途中で駄目なら、言え」
俺はうなずいた。張り切ってまた吐いても、役には立たない。
先に持ってきたパンを少し食べた。船乗りに教わった固いパンは、水で湿らせても端が硬い。干し魚をかむと、塩の味が口いっぱいに広がった。
「シチューの方がおいしいね」
ルーチェが隣で言った。
笑うと、まだ少し腹が痛かった。
「だよなあ」
「レイも、そう思う?」
「思う。今なら、なおさら」
旅に出た最初の夜も、同じようなものを並べて、この子にそう言われた。
今は三年目の春で、足の下には海がある。
「豆入りのスープなら、取ってある。夜に食べよう」
「うん。レイも食べられそう?」
「少しならな」
ルーチェはパンを小さく割り、俺へ渡した。
*
朝の仕事は、樽を見て回ることだった。
腕に青い模様のある船乗りが、俺を案内した。水の樽が六つ、塩漬けの魚が八つ。並ぶ位置と印を確かめ、どこから使っているのか聞く。
麦酒の樽が三つと、ワインが一つあったが、こちらは見なくていいと言われた。船乗りたちが昼に少しずつ飲むもので、水に混ぜると腐りにくいのだという。成人前の俺とルーチェには出ない。水が悪くなれば薄めたものを水代わりに飲ませる、とも聞いた。
蓋を開け、匂いをかいだ。水面も、蓋の裏も見る。魚の樽では、上に見えるものだけで決めず、船乗りに手を借りて確かめた。
港の七つ目の樽で気づいた匂いは、今日はなかった。
けれど、知らない匂いなら、俺が見過ごすこともある。
「昨日と違ったら、教えてください。俺からも言います」
船乗りはうなずいた。
「坊主、鼻がいいな」
「肉屋で教わりました。傷んだものは、混ぜる前に見つけろって」
「肉屋?」
「獣をさばく店です」
男は分かったというように、手を動かした。
塩漬けの詰め直し方は、この人の方が詳しかった。俺は邪魔にならないところで見て、次の樽では同じように手を添えた。
*
その夜、ルームで短剣の手入れをした。
ガレスさんにもらった方をふき、鞘へ戻す。それから、トーマが仕上げた短剣を取った。薄いあめ色の曲がった刃に、明かりが滑った。
杭の芯の鱗は、印を保っている。この刃も、この子の体の一部だ。同じことができるかもしれない、と前から思っていた。
刃の根元へ指を置き、印を残してみた。
手を離しても、そこにあると分かった。鱗へ置いたときに似た手応えだった。
もう一度触れてから、鞘へ収めた。
寝床で丸くなっていたルーチェが、首を上げた。
——レイ、ルームの中から海は見えないの?
「窓がないからな」
——そっか。夜の海も見たかった。
「いつか、作れるかもしれない。今は、やり方が分からない」
「朝、また一緒に見よう」
——うん。
大きな犬ほどの体が、寝床の上で動いた。翼を少し広げ、畳み直して、鼻先を前脚へ載せる。
俺は背中をなでた。谷で並んでいた赤茶の体は、今はない。
ルーチェの目が閉じてから、船へ戻った。
荷の間に掛けた毛布をめくる前に、足音が近くにないか確かめた。夜も見張りは起きている。誰も来ないと決めてかかれる場所ではなかった。
ルームを閉じ、革の上着の上から毛布をかぶった。胸の内側で、縫い込んだ鱗の縁が少し当たった。
*
六日目の午後、トーマ製の短剣を落とした。
潮をかぶったので、仕事が済んでからふいていた。荷の陰に腰を下ろし、鞘へ戻そうとしたところで船が傾いた。
樽へ肩が当たり、指から柄が滑った。
短剣が板を打ち、船べりの隙間へ動いた。海へ落ちる。
手を伸ばしたが、届かなかった。
それでも、印はすぐそこにあった。
こっちへ。
つかもうとした瞬間、伸ばした手の中に柄があった。
俺は指を閉じた。短剣を膝の上へ戻してから、息が詰まっていたことに気づいた。肩から力が抜け、樽へ背を預けた。
船べりと、手元を見比べた。
俺は動いていない。
短剣だけが、戻っていた。
「レイ、どうしたの?」
ルーチェが荷の間を通ってきた。俺は声を落とした。
「短剣を海に落としかけたが……それが今、手に戻った」
この子は短剣を見て、それから俺を見た。
「レイ、顔が変だよ」
「悪い、少し休む」
周りを見た。船乗りたちは反対側で縄を引いていた。こちらを見ている顔はなかった。
息が落ち着くまで待ち、短剣を鞘へ収めた。留め紐も確かめる。
もう一度落としてみる気には、ならなかった。
*
十日目、荷札の字を習った。
船乗りが仕事を終え、空いた樽の蓋へ木炭で字を書いた。丸い形と、小さな点。四つ並べて、荷札の一部を指す。
「船の主の名前だ」
名前を口にしてもらったが、うまく繰り返せなかった。まず形を写す。丸がつぶれ、点を置くところがずれた。
男は首を横に振り、俺の字の脇へ、もう一度書いた。
俺も書き直した。
紙には、手元を見ながら写す。蓋に書いた分は布で消し、次に書く場所を空けた。
その夜、ルームの食卓で、紙を広げ直した。
鞄からリーナの手紙も出した。折り目を開くと、「私は急ぎません」という一行が見えた。その先には、帰ってくるまで待つと書いてある。
油紙に包んだ写しを、その隣へ置いた。
リーナの母親が遺した一行。森から返された紙にも、俺が書き足した「星」「還る」「待っている」が残っている。
今日習った丸い字とは違う。
俺は写しへ指を添え、読めない部分を目で追った。新しい訳を書き込めるところは、まだなかった。
別の紙へ戻り、昼にずれた点を打ち直した。
手紙の続きを急かさない人が、家にいる。それを読み終えると、もう一列だけ書く気になった。
*
習い始めて三日目の夕方、船乗りが俺の書いた字を見てうなずいた。
「読めるぞ」
「これで、読めますか?」
「読める。坊主、お前の名前は?」
「レイです」
男は、今度は二つの字を書いた。俺を指し、声に出して名を呼ぶ。
その二つを、ゆっくり写した。
「レイ、わたしのも聞いて」
隣からルーチェがのぞいた。男が顔を向けると、この子は自分で名乗った。
「ルーチェです」
男は一度繰り返し、首を傾けた。ルーチェがもう一度、ゆっくり言う。
蓋の上に、三つの字が並んだ。
この子は木炭を受け取り、俺の名の隣へ写した。丸はつぶれず、点もずれなかった。
男が少し目を大きくした。
「妹の方が、うまいな」
「……なんで、一度でできるんだ」
「見てたもん。レイが三日、間違えるの」
ルーチェが木炭を返した。
俺は二人の名を紙にも写した。海の向こうの字で書いた、レイとルーチェ。下へこの国の字で読みを添えようとして、手を止めた。
二つとも、もう分かった。
ルーチェが、自分の名を指でなぞる。指先が黒くなり、それを見て笑った。
*
二十日目の朝、帆の鳴り方が変わった。
俺には、その程度しか分からなかった。けれど、水を配っていた船乗りが空を見上げ、しばらく動かなかった。
船首へ短く声をかけた。返事が来て、別の男が縄へ手を伸ばす。
椀を受け取るとき、聞いた。
「風が悪いんですか?」
男はうなずき、空を指した。
「風が変わる。荷を締めておけ」
「はい」
鞄へ戻ると、ルーチェも空を見ていた。
「レイ、この風、嫌い」
「飛ぶときもか?」
「うん。翼を持っていかれる感じがする」
俺は荷の紐を締め直し、紙の包みが濡れないよう、鞄の奥へ入れた。
四十日。風が悪ければ六十日。
岸で聞いたときより、あとに続く二十日が長く思えた。




