風の悪い二十日と、腐りかけの樽
風が変わった日の午後、海が荒れてきた。帆がたたまれた。
船乗りたちが横木へ登り、白い布を縄でまとめた。足を置いている細い木まで、船と一緒に揺れていた。
「下がれ。荷の方へ行け」
腕に青い模様のある船乗りに言われ、ルーチェの手を取った。
樽の間へ戻ると、体が持ち上がり、すぐに落とされた。最初の三日に腹を揺すられたのとは違う。座っていても、板から離れそうになった。
男は荷の縄を確かめ、俺たちにも一本渡した。
「ここをつかんでいろ。立つな」
示された縄を握った。ルーチェも俺の隣で膝を抱えた。
*
夜には雨が来た。
荷を覆う布が鳴り、端から水が流れ込んだ。革の上着にも雨が染みた。胸の内側の鱗を押さえ、ルーチェへ毛布の乾いたところを寄せた。
「冷たいな」
「うん。……この風、嫌い」
繋がりから届く感じも、声と同じだった。
船乗りが何度も荷を見に来た。足音が離れても、すぐ別の声がする。甲板では帆布を張り、雨を桶に受けているらしかった。だが船が傾くたびに桶は鳴り、波のしぶきも混じる。たまったのはわずかだと、男がぼやいていた。俺は毛布を引き上げ、二人で待った。
夜が深くなって、ようやく荷の陰に人のいない間ができた。周りを確かめ、毛布の内側でルームを開いた。
ルーチェを先に入れ、俺も濡れた服を替えた。大きな犬ほどの竜が、寝床で長く息を吐く。俺は毛布を広げ、その隣へ腰を下ろした。
朝にはまた船へ戻り、荷の縄と水袋を確かめた。
雨がやんだのは、四日目だった。船の揺れも、荒れていた日ほどではなくなった。
*
帆は半分だけ広げられた。
船は進んでいる。それでも、船乗りが指す方角は、前とは違っていた。来た方へ戻される日もあるという。
「六十日は、かかるかもしれん」
男は空を見てから、俺に言った。
出る前に聞いた、風が悪いときの日数だった。
その朝から、配られる水が一日一杯になった。
船乗りたちは、椀の水に麦酒を混ぜるのをやめた。昼に飲んでいた麦酒は、そのまま飲むようになった。水は、飲むしかない者へ回すためだという。
四日の雨で桶にたまった水は、樽の半分にもならなかった。六つあった水の樽は、すでに三つが空いている。まだ残っている、と昨日までは見ていた同じ三つが、急に少なく感じられた。
俺は受け取った椀を、ゆっくり口へ運んだ。
*
二十五日目の朝、水の樽の前で手が止まった。
木の匂いの下に、別の匂いがある。こけの生えた水場を思い出すような、青い匂いだった。
蓋をもう少し開けた。
水面に薄い膜が見えた。光の当たる角度を変えても、そこだけ違って見える。
鑑定を通した。飲めるという表示はなく、傷みを示す文字が出た。
「この樽、配るのを待ってください」
男が隣へしゃがんだ。俺の指したところを見て、匂いをかぐ。
「水が、腐ってるな」
「昨日と違う匂いがします。膜もあります。飲ませない方がいいと思います」
男は主を呼びに行った。
船の主も蓋の上へ顔を寄せた。しばらく見てから、俺に聞いた。
「全部、駄目なのか」
「上だけなら大丈夫とは言えません」
主の目が、残りの樽へ向いた。
俺もそちらを見た。別の樽を開ければ、この匂いがしないかもしれない。だが、それで今見つけた膜を、なかったことにはできなかった。
「これは配らない。印をつけておけ」
主が言った。
船乗りが蓋へ印をつけ、飲み水を汲む列から外した。ほかの樽も、一つずつ確かめ直す。
俺はその横へしゃがんだ。
見つけたからといって、水が増えるわけではなかった。
昼、腕に青い模様のある船乗りが、椀を二つ持ってきた。
「今日は、これを飲め。薄めてある」
中は水で薄めた麦酒だった。匂いだけで、港の酒場の前を通ったときを思い出す。
一口飲んだ。喉を通ったあとで、頬が熱くなった。椀を膝の上に置き、息を吐いた。
ルーチェは同じものを飲み、何も変わらない顔で俺を見た。
「レイ、顔、赤い」
「……そうか」
船乗りが笑った。
「坊主は弱いな。少しずつ飲め」
男が離れてから、残りの椀をルーチェへ寄せた。
「俺は、いいよ」
この子は少し見てから、両手で受け取った。
*
夜、ルームで予備の水を出した。
港町で汲み、革の袋に分けてボックスへしまっておいたものだ。八十日分と数えて買い、さらに余るほど足した。ボックスの中では時間が止まるから、汲んだ日のまま腐らない。日中に使う袋だけは鞄に入れ、減れば人目のないところで足していた。
残っている袋を並べた。これまで使った分を引いても、二人なら百日は困らない量だった。
俺たち二人の分なら、持ってきた水へ切り替えても、まだ余る。
ルーチェへ一つ渡すと、この子は口を開けかけて止めた。
「水はみんな、一日椀一杯だけだよ」
「ああ。知ってる」
「わたしたちだけ、飲むの?」
俺は並べた袋を見た。
二人には余るほどだ。船にいる全員に配っても、一月はもつ。だが、何日も前に買った荷から、汲んだばかりのような水が次々に出てくれば、その訳を聞かれるだろう。
それが気になっている自分もいた。
まだ、樽は残っている。本当に足りなくなったときに出せばいい。
「ルーチェ、明日から、俺たちの分は断ろう」
ルーチェが顔を上げた。
「その分は、他の人たちに渡るの?」
「ああ。こっちの水を使えば、二人分がみんなに回る」
この子は少し考え、うなずいた。
「じゃあ、そうしよう」
水を飲んでから、袋を俺へ返してくれた。
*
翌朝、水を配る前に船の主へ話した。
「俺と妹の分は、しばらく受け取らなくて大丈夫です。予備に持っていた水を使います」
主は、俺の持つ革袋を見た。
「二人分、足りるのか?」
「はい。残りも確かめました」
しばらく返事がなかった。
主は帳面を開き、何かを書いた。それから顔を上げた。
「どこから出したかは聞かん。だが、覚えておく」
「……はい」
朝の列から外れると、ルーチェが俺の隣へ来た。
水を配る椀が、今日は俺たちの前を通らず、次の人へ渡った。
*
四十日目の朝、風が戻った。
帆が大きく広がった。船乗りたちが上げる声に、久しぶりに笑いが混じった。
「良い風が吹いてきたな」
樽を見終えたところで、男が言った。
「あと、どれくらいですか?」
「このままなら、二十日だ」
二十日。
港で船を待った半月より、まだ長い。俺はうなずき、紙に残りの日数を書き直した。
夜、ルームでルーチェが翼を伸ばした。
——レイ。海の上で飛べないの、変な感じ。
「人目があるからな」
——それもあるけど、違うの。
広げた翼を、ゆっくり畳んだ。
——飛んだら、どこかに降りるでしょ。谷では岩も川原もあった。ここは、船しかない。
「……そうだな」
——船も狭いし、動いてる。誰にも見られなくても、降りられるか分からないよ。
俺は昼に見た海を思い出した。
船の周りには、水しかなかった。谷でこの子の背に乗ったときは、下を見ればどこかに岩があった。
——だから、今は飛ばない。
「ああ」
ルーチェは前脚を伸ばし、俺の膝へ鼻を寄せた。背中をなでると、目を閉じた。
*
六十日目の朝、陸が見えた。
ヒンメルの月を海の上で過ごし、ハイラの月になっていた。
船首から声がした。言葉は分からなかったが、船乗りたちが同じ方を向いたので、俺も顔を上げた。
水平線に黒い線があった。
近づくにつれて山になり、その手前に白いものが見え始めた。家が並んでいる。その上に、細く高い塔が突き出していた。
「レイ、あれ、何?」
「まだ分からない」
「高いね」
この子は船べりを握り、目を離さなかった。
俺も見ていた。町の形が分かるほど近づいてから、ようやく船の揺れが小さくなったことに気づいた。
鞄の杭が樽へ当たる音も、少なくなっていた。




