南へ下る道と、また来た町
エンデの町を出て、南へ歩いた。
ヴェークの月も、もう終わりに近かった。一昨年の秋に北へ向かった道は、草の色が違っていた。森の木々は右手にある。行きは左に見ていた。それだけで、曲がり角まで知らない場所に見える。
四日目の昼、ルーチェが足を止めた。
「レイ、煙が見える」
木の上へ細い煙が上がっていた。少し離れて、もう一本。屋根は隠れているが、道の曲がりには覚えがあった。
冬を越した集落だ。
「寄っていく?」
「ああ。顔を見せよう」
ルーチェはうなずき、頭の布を確かめた。
*
ハンナ婆さんは、戸口で葉を広げていた。
声をかけると顔を上げ、俺が近づくのを待った。目の前まで来て、ようやく口元が動いた。
「……坊主か。背が伸びたね」
「北から戻ってきました」
「見りゃ分かる。怪我は?」
「大丈夫です」
「そうかい」
婆さんは鼻を鳴らし、隣のルーチェへ顔を向けた。
「あんたも、元気だったかい?」
「うん。山でも冬を越したよ。今度は二人で南へ行くの」
「そうかい、寒いところにいたんだね」
「寒かった。でも、行ってよかった。友達もできたんだよ」
婆さんはうなずいた。ルーチェは広げてあった葉を見て、袖をまくった。
「これ、運ぶ?」
「そこの空いたところへ置いとくれ。混ぜるんじゃないよ」
「分かってる。こっちの束だけね」
葉を載せた板を持つ。婆さんが指した場所まで運び、そっと下ろした。その手つきを見て、棚の前で二人並んでいた冬を思い出した。
俺も荷を下ろして、空いた板を運んだ。
長居はしなかった。洗い場の人たちに挨拶し、ヨルクさんにも礼を言った。婆さんの戸口へ戻ると、ルーチェが先に頭を下げた。
「ハンナ婆さん、今日はちょっとしか手伝えなかった。またね」
「顔が見られりゃ十分だよ。気をつけな」
今度は二人で、南の道へ出た。
木の陰で煙が見えなくなるまで、ルーチェはときどき振り返っていた。
*
デメテスの月に入り、道端の畑に人が増えた。
森の縁の道が街道へ合流し、さらに二日歩くと、潮の匂いが来た。北へ向かったときは薄くなっていった匂いが、今は足を進めるたびに濃くなる。
坂の上に出た。
屋根が海へ向かって段になっている。その先には水が広がり、空との境まで続いていた。
「レイ、海だ」
「ああ」
「やっぱり、向こうは見えないね」
ルーチェは背伸びをしかけ、途中でやめた。俺を見て、少し笑った。
「前も、見えなかった」
「そうだな」
今度は、あちらへ渡る船を探しに来た。
二人で坂を下りた。
*
宿の女将さんは、戸口で俺たちをしばらく見ていた。
鞄から靴へ、靴から顔へと目が動く。エプロンの前で腕を組み、それから眉を上げた。
「あんたたち……」
「一昨年の秋に泊まりました」
「あのとき、魚を生で食った子だね?」
覚えられ方が、それだった。
「北へ行ったんじゃなかったのかい?」
「はい。戻ってきました」
「大きくなったね。妹も」
ルーチェが隣で頭を下げた。
「前と同じ部屋が空いてるよ。飯は別だ」
「お願いします」
階段を上がると、窓の鳴る音まで覚えていた。屋根の向こうに細く海が見える。大きな船の柱は、まだ見当たらなかった。
*
翌朝、舟着き場へ下りた。
籠を持った人たちの横を、魚の箱が運ばれていく。銀色の腹が跳ねた。ルーチェが、俺の袖を引く。
銀ハダだった。
売り場へ近づくと、男がこちらを見た。
「……また来たのか?」
「お久しぶりです」
「今度は焼くんだろうな?」
まだ買うとも言っていなかった。ルーチェが横で笑う。
見せてもらった魚は、前の秋より小さかった。目とえらを確かめ、鑑定も通す。一度食べられたからといって、今日の魚まで同じとは限らない。
今朝揚がったものを選び、代金を渡した。
宿では女将さんに断って、裏の水場を借りた。まず内臓を抜く。水揚げから一刻以内という条件は、今度も変わっていなかった。
身を取ろうとしたところで、ルーチェが言った。
「レイ、わたしもやりたい」
「魚をか?」
「うん。前に来たときも、見てたもん」
俺は小刀を置き、板の上の魚を向け直した。
「ここに骨がある。指を刃の前へ出すなよ」
「分かった」
握り方を確かめてから渡した。ルーチェは顔を近づけ、ゆっくり刃を進めた。途中で止まり、骨の位置を見直す。
身は取れた。けれど皮を引くところで力が入りすぎ、端が少し崩れた。
「……崩れちゃった」
「食えるよ。俺は最初、もっと骨に残した」
「そうだね、覚えてる」
「そこまで覚えてなくていい」
ルーチェは笑い、崩れた方を自分の皿へ載せた。
俺は一切れ取って、自分の皿へ移した。
「こっちも貰うぞ」
「うん。味は同じだよね?」
「ああ」
塩を少しつけて食べた。冷たい身が歯の間でほどけ、あとから甘みが来る。
うまかった。それでも、醤油が欲しくなった。作り方が分からないまま、森と谷で二度、冬を越していた。
「おいしい」
ルーチェは、自分で切った魚を見ていた。
「家で作るときも、わたしがやる」
「じゃあ、帰るまでに練習だな」
「レイもね」
俺はうなずいて、もう一切れ取った。
*
片づけを終えてから、塩屋へ行った。
主人は樽に手を置き、俺たちを見た。
「北の森へ行った子か?」
「はい」
「戻ったんだな」
俺はうなずいた。店の奥には、前と同じように樽が並んでいる。
その並びの端に、小さな壺が三つあった。前に来たときには、目に入っていなかった。あのころは橋のことと、北への道のことで頭がいっぱいだった。
「それは、何ですか」
「魚の塩汁だ。漁師が魚を塩に漬けると、汁が出る。それをこしたもんだ。煮物に少し入れる」
主人は蓋を取り、さじの先に少しすくって俺へ寄こした。なめると、塩のあとに魚の匂いと、うまみが残った。
醤油ではない。だが、前の世で知っていた味に、どこか近かった。
小さな瓶に一つ分、分けてもらった。
「南の旧道の橋は、どうなりましたか?」
主人の手が、樽の蓋をなぞった。
「この春、役所が見に来たと聞いた。橋の工事はまだ始まっとらん」
「そうですか」
「前にあんたと話したころは、まだ先だとしか言わんかった。今度は、見には来た」
主人は少し笑った。
ヨナスという村長の名を、ここで教わった。水を汲んで荷馬車を迎えるという話も、覚えている。あの樽がまた村へ届くまでには、まだかかるみたいだ。
塩を買い足し、もう一つ聞いた。
「海の向こうの船は、いつ来ますか?」
「……乗るのか?」
「乗せてもらえるなら」
主人は、袋の口を結ぶ手を止めた。
「年に二度だ。春と秋。春の船なら、そろそろだな。いつもなら、ひと月のうちには入る」
「ひと月ですか」
「来る日は風次第だ。それに、あれは荷の船だぞ。人を乗せるかどうかは知らん」
「船の人に、聞いてみます」
礼を言って袋を受け取った。
ひと月待つなら、その間の宿代が要る。薬草を売れるところも探そう。船賃まで払えるように、残っている銅貨と銀貨を確かめなければならなかった。
*
夜、宿の部屋の戸を閉めた。
窓は閉めたまま、二人で港の方を見た。大きな船が来れば、屋根の上に柱が見える。今はその場所に、暗い空だけがあった。
ルーチェは窓から離れてから布をほどき、金色の髪を指ですいた。
「レイ、前は船が出るところも見たかったんだよね」
「ああ。今度は乗れるかもしれない」
「四十日。風が悪ければ六十日でしょ?」
「そう聞いたな」
「じゃあ、食料は六十日分、必要だね」
前にも同じようなことを言っていた。あのときは、先に北だと答えた。
俺は卓へ紙を広げ、食べ物の名前を書き始めた。
「まだ乗れるとは決まってないぞ」
「分かってる。でも、何がいるかは考えていいでしょ?」
「いいよ」
ルーチェが隣へ座った。
「魚もいる」
「今日も食ったのにか?」
「今日もおいしかったから」
書き足してから、俺は鞄を見た。
孤児院に一本、谷に一本。そして鞄に一本。持ってきた杭をどこへ打つかは、まだ決めていない。
窓の留め具が鳴った。紙の端を押さえると、ルーチェも反対側へ手を置いた。
船を待つ間に、書くことはまだありそうだった。




