残した杭と、山を下りる朝
ヴェークの月になり、出発の朝、俺は針を持っていた。
峠の道が開き始めていた。谷の底の雪は、川の縁に少し残っている。ルーチェが上から見た山道にも、土の見えるところが増えていた。あとは歩きながら確かめる。
ボックスの奥から、布包みを出した。
鱗が二枚ある。夏に岩棚で拾い、この子から預かった一枚。それから、クヴェラの月の終わり、犬ほどの大きさに戻った翌朝に、川原で見つけた一枚。こちらも拾っていいか聞くと、俺にくれた。
夏のは手のひらの半分ほどある。新しい方は親指の爪ほどで、並べるとずいぶん違った。落としたときの体の大きさが、そのまま出ている。
拾った日に、一度いろいろ比べてみた。爪で弾いた音は同じで、短剣の先を当てても、どちらにも傷はつかなかった。重さだけは、見たとおりに違う。小さくても、硬さは変わらないらしい。
トーマが作った革の上着を膝に広げた。内側には鱗を入れる袋があり、縁に糸を通す穴が空いている。
大きな一枚を胸の側へ、小さな一枚を背中の側へ入れた。
「縫っておくぞ」
隣で靴を履いていたルーチェが、顔を上げた。
「うん。今度は、着ていくんだね」
「せっかくトーマが作ってくれたからな」
冬には針を持てなかった。今も、この小さな二枚で体じゅうを守れるわけではない。それでも、入れる場所は作ってもらってある。
袋の口へ針を通した。糸を引き、次の穴へ通す。ルーチェは靴を履き終えてからも、手元を見ていた。
「そこ、もう一つあるよ」
「見えてる」
最後の穴を縫い、糸を切った。
革の上着を着て、上から旅の上着を羽織る。腕を回しても、鱗はずれなかった。外から見れば、いつもの旅装だった。
*
岩棚の裏で、杭の頭に手を置いた。
中の鱗に残した印は、まだ分かる。この杭は置いていく。遠くから飛べるかは分からないが、また来るつもりで残す目印だった。
ルーチェがティオにした約束を、俺も覚えておく。
手を離し、岩棚へ戻った。
鍋も椀も片づけた。ルームに置いた日付の紙を畳み、旅の途中でも出せるようにした。しまう物はボックスへ、道で使う物は鞄へ入れ直す。火の始末をして立ち上がると、岩棚の下が広く見えた。
ルーチェは人の姿で待っていた。まだ頭に布はない。朝の光が髪に当たっていた。
「忘れ物はないか?」
「ないよ。行こう」
俺は鞄を背負った。
*
ティオは川原にいた。
馬ほどの赤茶の体が、雪解けの川の縁に立っている。右の前脚はもう引きずっていない。傷のあったところだけ、周りの鱗と色が違っていた。
俺たちが歩き出すと、ティオもついてきた。少し後ろで石を鳴らし、川のよどみを過ぎ、谷が狭まるところまで歩いた。
川が山道の脇へそれるところで、石の音が止まった。
振り向くと、ティオは前脚をそろえて立っていた。俺たちとの間が空いても、そこから動かなかった。
ルーチェが戻っていった。
赤茶の首が下りてくる。この子はその鼻先に額を当て、押した。竜の姿で、よくそうしていたときと同じように。
ティオが少し顔を引いた。短い声がした。
「……変な竜、って」
ルーチェが俺を見た。
「まだ言うのか?」
「まだ言うんだって」
笑って、もう一度鼻先へ手を添えた。何か短く声をかけたが、川の音に重なり、俺には聞き取れなかった。
ティオは、その手のそばへ鼻を寄せていた。
やがてルーチェが戻ってきた。
「また来るって、もう一度言った」
「ああ」
「レイ、布を出して」
鞄から渡すと、この子は自分で頭に巻いた。髪を中へ入れ、端を押さえる。
「後ろ、少し出てる」
「ここ?」
「もう少し下だ」
指でしまい直してから、俺を見た。金色の目は布では隠れない。それでも、この子は布を巻き終え、山道の方へ体を向けた。
俺の手を取った。
「行こう」
歩き始めてしばらく、後ろから石の音はしなかった。やがて翼が空気を打つ音がした。ルーチェは少し耳を傾け、それからまた足を進めた。
長老は、見送りには来なかった。
*
道の陰には雪が残っていた。柔らかいところを避け、崩れた土の縁を回りながら下りた。
夜は人目のない場所でルームを開けた。竜に戻ったルーチェが寝床に丸くなる。俺も毛布を広げ、その隣で眠った。
二日目の朝、尾根から北を見た。
白い山が重なっている。あの間に谷があるが、岩棚も川原も、ここからは見えない。
「レイ、ティオはもう飛んでるかな?」
「どうだろうな」
「朝は、あの川のところにいることが多いんだよ」
ルーチェはしばらく山を見ていた。俺が水袋をしまうと、こちらへ顔を戻した。
「もう歩けるよ」
「じゃあ、行くか」
三日目の昼、エンデの町が見えた。
隣で、ルーチェが頭の布を確かめた。端を指で押さえ、俺と一緒に坂を下りた。
*
町へ入る前に、石積みの裏へ回った。
通る人がいないのを確かめて、しゃがむ。杭の頭が、雪解けの泥から少し出ていた。
ヴァーガの月に打った杭だ。
杭の周りの土を、ひとすくいぶんだけボックスへしまった。支えを失った杭は、両手で引くとすぐに抜けた。膝ほどの長さの鉄が、泥の中から手元へ戻ってきた。
芯には、この子の鱗が一枚入っている。抜いた後も、印は分かった。
しまった土を穴へ戻し、足で踏んで均した。森で罠の穴を掘ったときから、土の出し入れだけは手慣れている。泥を落とした杭は、布で包んで鞄へしまった。ここを毎月の下山先にする暮らしは、もう終わる。次に使う場所は、これから決めればいい。
最初は一本を庭に残し、二本を持って歩くつもりだった。そのうち一本は、谷に置いてきた。
孤児院に一本、谷に一本。今、鞄に一本。
荷を背負い直して、宿へ向かった。
*
戸を開けると、主人が顔を上げた。
白いひげの顔が俺を見て、それから隣の子を見た。
「……戻ったか」
「はい。今度は二人で」
「道が開いたな」
「雪は残ってますけど、歩けました」
主人はうなずき、帳場へ戻った。近道のことも、冬の夜のことも聞かなかった。
「泊まるか?」
「はい。それと、手紙を一通お願いします」
鞄から封をした手紙を出した。ヴェークの月のぶんだ。二人で山を下りること、これから南へ向かうことを書いた。
家に帰る日は、まだ書けない。だが、二人で帰るつもりだとは書けた。
主人は代金を数え、手紙を預かった。
「あの四人組は、この春は見とらん」
「……そうですか」
俺はうなずいた。どこへ行ったのかまでは、この人にも分からない。
主人は帳面を閉じ、ルーチェへ目を向けた。
「妹も、怪我はないか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか。長かったな」
ルーチェは俺を見て、それから主人へうなずいた。
*
宿の裏で豆入りのスープを煮た。
椀を二つ出し、そのまま並べた。ルーチェは頭に布を巻いたまま、火の脇へ座った。
「レイ、次はどこへ行くの?」
「港町だ。南へ下りよう」
「ザルツハーフェン?」
「ああ」
潮の匂いと、坂の下の町を思い出した。魚を並べた市場。塩の袋。桟橋につながれていた、大きな船。
「今度は、船のことを聞きたい」
ルーチェがさじを止めた。
「乗るの?」
「乗れるなら。海の向こうも、見てみたい」
口にすると、まだ見ていない海の広さが気になった。船乗りは四十日と言っていた。風が悪ければ、六十日。乗せてもらえるのか、いくらかかるのかも聞いていない。
「三年で帰る約束には、間に合うようにする。日数を聞いてから決めよう」
「どのくらい、遠いの?」
「前に聞いたときは、船で四十日。風が悪ければ、もっとかかるって」
「山を下りる三日より、ずっと長いね」
「ずっと長い」
ルーチェは少し考えた。
「そんなにずっと、海を見ていられるんだ」
「見飽きるかもしれないぞ」
「それは、わからないけど、わたしも、船に乗ってみたい」
俺は笑い、椀を持ち直した。まずは港まで歩く。二人ぶんの船賃のことは、それからだった。
食べ終わると、ルーチェが椀を重ねて渡してくれた。
夜は借りた一室の戸を閉めてから、ルームを開けた。この子は竜に戻り、寝床へ上がった。俺は鞄を置き、毛布を広げる。
鞄には、抜いてきた杭が一本入っている。
谷に置いた一本を思い出していると、ルーチェが顔を上げた。
——レイ、明日も歩くんでしょ?
「ああ。もう寝る」
明かりを消した。隣で翼を畳む音がして、やがて寝息に変わった。
帰ったら、トーマに上着を見せよう。鱗を入れた場所も、残してきた杭のことも話す。
その前に、まだ見たいものがある。




