囲めない食卓と、よくわからぬという答え
クヴェラの月が、終わりに近づいていた。
川の音が大きくなった。岸の雪が薄くなり、その下から黒い石が出ている。棚の上では、竜たちが背中の雪を落として翼を広げていた。
ルーチェは、この月に入ってから毎朝、火のそばへ来た。
冬のあいだは四日に一度だった椀を、今は温かいうちに受け取る。その朝も人の姿で隣に座り、スープを食べていた。
「レイ、今日、話すね」
「長老にか?」
「うん。呼んだの。こっちへ来る」
俺は谷の奥を見た。まだ大きな影は見えなかった。
「レイも、そばにいてね」
「ああ」
「竜の言葉で話すから、すぐには伝えられないかもしれない」
「分かった」
ルーチェは椀を空にし、俺へ渡した。立ち上がって服を脱ぎ、重ねて差し出した。
「これ、たたんでおいて」
俺は受け取った。
*
棚の上の竜たちが、谷の奥へ首を向けた。
川沿いに、大きな体が現れた。こけのような色の背中には、もうほとんど雪がない。薄い色の目が川原を通り、ルーチェのところで止まった。
この子は竜の姿で立っていた。馬ほどの体に、少し大きな翼。谷で過ごすときの姿だった。
長老は頭を下げなかった。
ルーチェが声を出した。
低い音が続き、途切れ、また続いた。ティオへ話しかけるときより長い。俺は川原の脇で、服を抱えたまま聞いていた。
その途中から、別の声が届いた。
——ここでは、大きいままでいられた。
頭の中に来る、ルーチェの声だった。耳には、今も竜の言葉が聞こえている。
——昼に空を飛んで、ティオと一緒に寝た。布も巻かなくてよかった。生の肉も、少しなら食べられた。
長老を向いた首は、そのままだった。
——嬉しかったよ。ここに来て、よかった。
俺は動かずに聞いていた。竜の言葉は分からない。だが、この子が今、俺にも伝えようとしているのは分かった。
——でも、みんなで囲む食卓はないの。
胸の前で、服を持つ手が止まった。
——レイとわたしの椀は、あるよ。レイは、いつも出してくれる。でも、みんなの椀がない。
ルーチェの声が、少し遅くなった。
——アシェンの家では、みんないる。アリア姉が鍋を持ってきて、みんなで待つの。わたしも、あそこに座りたい。
火の前へ来ない夜にも、俺は二つの椀を出していた。この子が欲しかったのは、それよりずっと多くの人で囲む食卓だった。
——嬉しいのに、寂しかった。どうしてだろうって、思ってた。
低い音が一度途切れた。雪解けの水が石に当たる音が聞こえた。
——わたしは、外へ行くと狙われる。隠さなきゃいけない。それでも、帰りたい。
ルーチェが首を少し上げた。
——残れって言われたけど、わたしは、レイと行く。みんなのところへ帰る。わたしは、レイの従魔で家族だから。
竜の声がやんだ。
俺は、口を開かなかった。長老も、しばらく動かなかった。
*
返ってきた音は短かった。
腹に響くほど低い声が、一度。ルーチェはそれを聞き、俺の方へ顔を向けた。
——よくわからぬ、って。
この子が、人の言葉にして渡してくれた。
「……そうか」
何が分からなかったのか、長老の顔を見ても読み取れなかった。食卓なのか、帰りたいという気持ちなのか、それ以外なのか。
ルーチェは長老へ向き直った。また竜の声が始まり、俺にも言葉が届いた。
——わたしも、最初は分からなかった。頭を下げられて、ふるきひかりのけいふって言われても、どうしたらいいのか分からなかった。
風が川原を通った。金色の翼の端が少し揺れた。
長老は、ルーチェを見ていた。頭を下げることも、近づくこともなかった。やがて、低い声がもう一度響いた。さっきより長かった。
ルーチェが俺の方へ顔を向けた。
——今も、よくわからぬ。だが、そなたが帰りたいところがあるのは、分かった。そなたの好きにするがいい、って。
ルーチェが俺に伝え終わるころ、長老は上流へ首を向け、ゆっくり歩き出した。
大きな足跡が、残った雪と泥に続いていく。棚の上の竜たちも、少しずつ顔を戻した。
俺は、抱えていた服へ目を落とした。
残るのかと聞かずに待っていた。けれど、平気なふりをしていただけだった。この子が家の食卓を口にしたとき、俺はほっとしていた。
ルーチェは自分で話し終えた。俺が言葉を足すところは、なかった。
*
長老の姿が遠ざかると、ルーチェが体を縮め始めた。
馬ほどの背中が下がっていく。翼も小さくなり、前脚の幅が狭くなる。
途中で一度止まった。息を吐き、また少し縮んだ。
大きな犬ほどになったところで、顔を上げた。旅の道を歩いていたときの大きさだった。
——……できた。
「できたな」
——これなら、レイと一緒に道を歩ける。
「ああ」
——わたし、これで行く。
俺はうなずいた。小さくなれとは、今日は言っていない。
近くで石が鳴った。ティオが歩いてきて、ルーチェへ鼻先を下ろした。匂いをかぎ、短く鳴いた。
——……変な竜、って。
「まだ言うか」
——まだ言う。
ルーチェも短い声を返した。それから俺を見た。
——変でも、いいって言った。
ティオは少し首を傾け、隣へ腹をつけた。赤茶の体が金色より大きい。ルーチェはその鼻先へ顔を寄せ、もう一度何か言った。
俺には意味は分からなかった。二頭がしばらくそうしているのを待ち、それから岩棚へ戻った。
*
火をおこし、鍋をかけた。
ルーチェも人の姿で来た。服を受け取り、袖へ腕を通したところで言った。
「ティオに、また来るって言ったよ」
「そうか」
「杭を、ここに残しておける?」
岩棚の裏に、鱗を入れた杭がある。
置いておけば、帰ってくるときの目印になる。ただ、遠くから二人で飛ぶ力が足りるかは別だった。町へ一人で行くにも、宿で休まなければならなかった。
「残しておこう。すぐ飛んで戻れるとは言えないけど、また来るつもりで」
「うん。……二度目も、ある?」
「また旅に出よう。そのとき、寄ろう」
ルーチェは少し笑った。
「じゃあ、いい」
椀を二つ出した。一つを渡すと、この子はさじを取った。
「俺も、みんなのところへ帰りたい」
ルーチェが顔を上げた。
「うん。一緒に帰ろう」
うなずいて、俺もさじを取った。
今、並んでいるのは二本だった。家へ帰れば、その両側にまだたくさん並ぶ。
ルーチェはスープを、ひと口食べた。




