谷の奥の霧と、迷い穴と同じ匂い
シルトの月になっても、谷は雪が残っていた。
川だけが黒く見えた。両側の斜面も、岩棚も白い。竜たちは背中へ雪を載せ、ときどき首を動かしていた。
ルーチェが人の姿で火のそばへ来たのは、この月に入って三度目だった。
椀を二つ出し、一つ戻し、夜になってまた出す。そんな日が続いていた。今夜も冷めたスープを少し食べたところで、この子はさじを止めた。
「レイ、明日は、谷の奥へ行きたい」
「霧のあるところか?」
「うん。レイも、乗せていく」
初めて谷へ来た日から、奥には霧が見えていた。近くまで行ったことはない。
「行って、どうするんだ?」
「まず、見る。……見てから、決めたい」
何を決めるのかまでは言わなかった。長老から話を聞いたあの日から、月がいくつも過ぎていた。
「霧の中へは、入らずに見る。それでいいか?」
ルーチェは少し考えて、うなずいた。
「うん」
*
翌朝、この子の背に乗った。
馬ほどの体だった。ティオと谷を飛ぶ日が続いて、翼の動きは秋より大きく、迷いがなくなっていた。
首の付け根へ手を置いた。鱗の下の温かさが、手に伝わった。
——寒い?
「少しな」
——しっかりつかまってて。
翼が開き、雪が舞った。
上がると、風が顔へ来た。俺たちの岩棚と川原が下へ遠ざかる。ルーチェは川に沿って、上流へ向かった。
谷が狭くなっていった。両側の斜面が迫り、腹をつけられる棚も減った。竜の姿が見えなくなった先に、白いものがあった。
霧だった。
遠くから見るより厚い。川も、向こうの岩も隠れている。風は吹いているのに、その霧は同じところにとどまっていた。
ルーチェが手前へ降りた。
俺は背中から下り、雪に足を沈めた。ルーチェは翼をたたみ、首を霧の方へ向けた。
俺は、それ以上近づかなかった。
*
匂いがしたように思った。
鼻でかいだものとは違った。濡れた土でも、草でもない。霧の白いものを見ていると、胸の奥が落ち着かなくなった。
迷い穴を思い出した。
霧の中で岩陰に座り、晴れるのを待っていた。座り直そうとしただけで、地面が崩れた。落ちた先ではルームが開かず、集めた魔力が何度も散った。
暗い壁を指で探した感触まで戻ってきた。
同じ匂いだと思った。けれど、なぜそう思うのかは、説明できなかった。
あの穴からどう出たかは覚えている。二本の柱のあいだを通ると、斜面の土へ膝をついた。振り返っても柱はなく、落ち葉の上には地下へ置いてきたはずの斧があった。
何が起きたのかは、今も分からない。
この霧へ入れば、何か分かるかもしれない。そう考える自分もいた。だが、また戻れると考える根拠はなかった。
隣で、ルーチェの足元の雪がきしんだ。
ルーチェが俺を見ていた。
「ここまでにしよう。……あの穴を、思い出す」
この子はすぐには答えなかった。俺の手元を見てから、霧へ顔を戻した。
——ここが、あの大きな竜の言ってたところ。
「長老が?」
——うん。奥へは、われらもいかぬ、って。
ヴォルドの月に、長老が来た朝を思い出した。ルーチェは「ここに残れ」とだけ伝え、ほかのことはまだ言えないと言った。
——ヴォルドの月に、言われたの。あのとき、全部は話さなかった。
「ああ」
——ふるきひかりのものは、あちらへいった、って。
俺は白い霧を見た。
この子の親のことなのかと、思った。森で卵を拾ってからずっと分からなかったことに、ようやく近づいた気がした。
口に出す前に、ルーチェの声が来た。
——でも、親だとは言わなかった。
「お前と同じ、古き光の者だと?」
——うん。あちらへいったって。それだけ。
行ったというのは、いつのことなのだろう。今も向こうにいるのか、もう別の場所へ行ったのか。そもそも、ルーチェの親と呼べる相手なのか。
分からないところばかりだった。
「ほかには、聞かなかったのか?」
——聞けなかった。何から聞けばいいのか、分からなかった。
ルーチェは雪へ腹をつけた。俺も隣に立ち、しばらく霧を見ていた。
*
風で、足元の雪が少し動いた。
霧の向こうには何も見えなかった。川の流れる音はするが、どこまで続いているのか分からない。
——レイ、わたし、呼ばれてない。
「呼ばれてない?」
——森の人に話しかけられたときや、あの大きな竜の声を聞いたときは、わたしに呼んでるって分かった。ここは、何も来ない。
この子は首を伸ばした。少し待ち、それから俺を見た。
——でも、何も来ないから、誰もいないとは、分かんないね。
「……そうだな」
——分かんないけど、今は、入りたくない。
俺はうなずいた。
「ああ。俺も、入りたくない」
ルーチェの鼻先が近づいた。手を置くと、息が指にかかった。
探してきた先に霧があり、その向こうを見られなかった。親のことが分かったわけでもない。
それでも、この子が今は入りたくないと言った。俺も、そう思っていた。それを曲げてまで進む気にはならなかった。
「岩棚へ戻ろうか?」
——うん。
ルーチェが体を起こした。俺は背に乗り、首の付け根をつかんだ。
飛び立つ前に、この子はもう一度霧を見た。長く見てから、川下へ顔を向けた。
霧は後ろになった。
*
岩棚へ戻ったのは、昼過ぎだった。
ティオが川原で雪を押していた。ルーチェが降りると首を上げ、短く鳴いた。この子も同じような音を返した。
俺は火をおこし、豆入りのスープを煮始めた。
椀を二つ出した。ルーチェが人の姿へ戻って服を着るのを見ながら、二つともそのまま置いておいた。
「食べるだろ?」
「うん」
隣へ座り、湯気の立つ椀を受け取った。久しぶりに、煮えたばかりのものを二人で食べた。
少し食べてから、ルーチェがこちらを向いた。
「レイ、わたし、決めた」
俺はさじを持ったまま、この子を見た。
「……何を?」
「あの大きな竜に、話す。レイにも、聞いててほしい」
「分かった。そこにいる」
ルーチェはうなずいた。
まだ、決めたことは言わなかった。霧を見ていたときより、繋がりの向こうが静かに感じられた。
俺は次の言葉を待ちながら、スープをすくった。




