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捨てられた転生者、金色の竜と旅に出る〜時空間チートで巡る、帰る場所のある旅路〜  作者: mizu
第五章 竜の谷

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谷の奥の霧と、迷い穴と同じ匂い

シルトの月になっても、谷は雪が残っていた。


 川だけが黒く見えた。両側の斜面も、岩棚も白い。竜たちは背中へ雪を載せ、ときどき首を動かしていた。


 ルーチェが人の姿で火のそばへ来たのは、この月に入って三度目だった。


 椀を二つ出し、一つ戻し、夜になってまた出す。そんな日が続いていた。今夜も冷めたスープを少し食べたところで、この子はさじを止めた。


「レイ、明日は、谷の奥へ行きたい」


「霧のあるところか?」


「うん。レイも、乗せていく」


 初めて谷へ来た日から、奥には霧が見えていた。近くまで行ったことはない。


「行って、どうするんだ?」


「まず、見る。……見てから、決めたい」


 何を決めるのかまでは言わなかった。長老から話を聞いたあの日から、月がいくつも過ぎていた。


「霧の中へは、入らずに見る。それでいいか?」


 ルーチェは少し考えて、うなずいた。


「うん」


*


 翌朝、この子の背に乗った。


 馬ほどの体だった。ティオと谷を飛ぶ日が続いて、翼の動きは秋より大きく、迷いがなくなっていた。


 首の付け根へ手を置いた。鱗の下の温かさが、手に伝わった。


 ——寒い?


「少しな」


 ——しっかりつかまってて。


 翼が開き、雪が舞った。


 上がると、風が顔へ来た。俺たちの岩棚と川原が下へ遠ざかる。ルーチェは川に沿って、上流へ向かった。


 谷が狭くなっていった。両側の斜面が迫り、腹をつけられる棚も減った。竜の姿が見えなくなった先に、白いものがあった。


 霧だった。


 遠くから見るより厚い。川も、向こうの岩も隠れている。風は吹いているのに、その霧は同じところにとどまっていた。


 ルーチェが手前へ降りた。


 俺は背中から下り、雪に足を沈めた。ルーチェは翼をたたみ、首を霧の方へ向けた。


 俺は、それ以上近づかなかった。


*


 匂いがしたように思った。


 鼻でかいだものとは違った。濡れた土でも、草でもない。霧の白いものを見ていると、胸の奥が落ち着かなくなった。


 迷い穴を思い出した。


 霧の中で岩陰に座り、晴れるのを待っていた。座り直そうとしただけで、地面が崩れた。落ちた先ではルームが開かず、集めた魔力が何度も散った。


 暗い壁を指で探した感触まで戻ってきた。


 同じ匂いだと思った。けれど、なぜそう思うのかは、説明できなかった。


 あの穴からどう出たかは覚えている。二本の柱のあいだを通ると、斜面の土へ膝をついた。振り返っても柱はなく、落ち葉の上には地下へ置いてきたはずの斧があった。


 何が起きたのかは、今も分からない。


 この霧へ入れば、何か分かるかもしれない。そう考える自分もいた。だが、また戻れると考える根拠はなかった。


 隣で、ルーチェの足元の雪がきしんだ。


 ルーチェが俺を見ていた。


「ここまでにしよう。……あの穴を、思い出す」


 この子はすぐには答えなかった。俺の手元を見てから、霧へ顔を戻した。


 ——ここが、あの大きな竜の言ってたところ。


「長老が?」


 ——うん。奥へは、われらもいかぬ、って。


 ヴォルドの月に、長老が来た朝を思い出した。ルーチェは「ここに残れ」とだけ伝え、ほかのことはまだ言えないと言った。


 ——ヴォルドの月に、言われたの。あのとき、全部は話さなかった。


「ああ」


 ——ふるきひかりのものは、あちらへいった、って。


 俺は白い霧を見た。


 この子の親のことなのかと、思った。森で卵を拾ってからずっと分からなかったことに、ようやく近づいた気がした。


 口に出す前に、ルーチェの声が来た。


 ——でも、親だとは言わなかった。


「お前と同じ、古き光の者だと?」


 ——うん。あちらへいったって。それだけ。


 行ったというのは、いつのことなのだろう。今も向こうにいるのか、もう別の場所へ行ったのか。そもそも、ルーチェの親と呼べる相手なのか。


 分からないところばかりだった。


「ほかには、聞かなかったのか?」


 ——聞けなかった。何から聞けばいいのか、分からなかった。


 ルーチェは雪へ腹をつけた。俺も隣に立ち、しばらく霧を見ていた。


*


 風で、足元の雪が少し動いた。


 霧の向こうには何も見えなかった。川の流れる音はするが、どこまで続いているのか分からない。


 ——レイ、わたし、呼ばれてない。


「呼ばれてない?」


 ——森の人に話しかけられたときや、あの大きな竜の声を聞いたときは、わたしに呼んでるって分かった。ここは、何も来ない。


 この子は首を伸ばした。少し待ち、それから俺を見た。


 ——でも、何も来ないから、誰もいないとは、分かんないね。


「……そうだな」


 ——分かんないけど、今は、入りたくない。


 俺はうなずいた。


「ああ。俺も、入りたくない」


 ルーチェの鼻先が近づいた。手を置くと、息が指にかかった。


 探してきた先に霧があり、その向こうを見られなかった。親のことが分かったわけでもない。


 それでも、この子が今は入りたくないと言った。俺も、そう思っていた。それを曲げてまで進む気にはならなかった。


「岩棚へ戻ろうか?」


 ——うん。


 ルーチェが体を起こした。俺は背に乗り、首の付け根をつかんだ。


 飛び立つ前に、この子はもう一度霧を見た。長く見てから、川下へ顔を向けた。


 霧は後ろになった。


*


 岩棚へ戻ったのは、昼過ぎだった。


 ティオが川原で雪を押していた。ルーチェが降りると首を上げ、短く鳴いた。この子も同じような音を返した。


 俺は火をおこし、豆入りのスープを煮始めた。


 椀を二つ出した。ルーチェが人の姿へ戻って服を着るのを見ながら、二つともそのまま置いておいた。


「食べるだろ?」


「うん」


 隣へ座り、湯気の立つ椀を受け取った。久しぶりに、煮えたばかりのものを二人で食べた。


 少し食べてから、ルーチェがこちらを向いた。


「レイ、わたし、決めた」


 俺はさじを持ったまま、この子を見た。


「……何を?」


「あの大きな竜に、話す。レイにも、聞いててほしい」


「分かった。そこにいる」


 ルーチェはうなずいた。


 まだ、決めたことは言わなかった。霧を見ていたときより、繋がりの向こうが静かに感じられた。


 俺は次の言葉を待ちながら、スープをすくった。


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