夜の杭と、山で冬を越す子
名なしの月になり、一段と寒くなってきた。今夜は月が出ていない夜だった。
岩棚の裏の杭から雪を払い、頭へ手を置いた。中の鱗に残した印は、まだ感じられた。
鞄には手紙を一通と、買い物用の空の袋を入れてある。水と食べ物、体に掛けられる布も、すぐ取り出せるところへ入れた。飛んだあと、ボックスを開く力が残るかは分からない。
町の方にある杭を使うのは、あの往復以来だった。
ルーチェが雪の上で首を上げた。ティオは隣で眠っている。
——行くの?
「ああ。今夜は下りるだけにする。宿で休んでから帰る」
前もって話していたことを、もう一度言った。
「明日、まだ動くのがつらかったら、もう一晩泊まる。戻る日を決めて、無理に飛ばない」
——遅くなっても、休んでね。
「うん。食べるものは、さっき出したところだ」
金色の鼻先が近づいた。手を置くと、温かかった。
——繋がりは、離さない。
川原へ呼ばれたとき、この子は自分の方へ繋がりを引いたと言った。今日は、この子のところへ行くのではない。町の杭へ飛ぶ。それでも同じことができるとは思えなかった。
「ずっと起きて待たなくていい。俺も、向こうで寝るから」
ルーチェは少し黙ってから、首を下げた。
——レイ、行ってらっしゃい。
「行ってきます」
俺は杭へ手を戻し、目を閉じた。
石積みの裏。土へ打った鉄の杭。その中にある印を探した。
遠くに、印の感覚があった。
それをつかんだ。
*
足の下が雪になった。
石積みが目の前にあった。雪をかぶり、上の形が丸くなっている。杭は足元の雪に埋もれかけていた。
手をついた。
膝が曲がり、そのまま座り込んだ。石に預けた肩を離せない。息を吸っても、胸の奥まで入ってこない感じがした。
ルーチェとの繋がりが細くなっていた。
向こうにいることは分かる。だが、何を感じているのか、はっきり受け取れなかった。
ヴァーガの月に初めて飛んだときは、顔も上げられなかった。今は鞄へ手を伸ばせた。布を引き出して肩へ掛け、それだけでまた動けなくなった。
雪の上に座ったまま、宿の明かりを見ていた。
すぐそこなのに、立てない。
何度も息を整え、指を握って開いた。ようやく石に手をついて立ち上がれたときには、体の芯まで冷えていた。
山へ帰ろうとは思わなかった。
宿の明かりへ向かい、足を運んだ。
*
戸を叩くと、主人が出てきた。
白いひげの顔が、俺を見た。それから後ろの雪道へ目をやった。
「……お前か」
「夜分に、すみません」
「山で冬を越すと言っとったな」
「はい」
「道は閉じとるぞ。どうやって下りてきた?」
用意していた言葉が、なかなか出なかった。俺は戸口の木へ手をついた。
「……近道が、あります」
主人の眉が動いた。すぐには何も言わず、俺の手を見た。
「入れ。凍える」
戸が広く開いた。
中へ入っても、脚は震えていた。帳場の脇へ座らせてもらい、鞄から手紙を出した。
「これを、お願いします」
「次の隊商は十日後の予定だ。それまで預かる」
主人は運び賃を数え、手紙を箱へ入れた。
「泊まるな?」
「はい。まず、一晩。明日もお願いするかもしれません」
「一晩、銅貨三枚だ。今から飯は出んぞ」
「持ってます」
銅貨を置いた。指を離すと、一枚が倒れた。主人が拾い、ほかの二枚と重ねた。
その夜は、炊事場へも行かなかった。戸を閉め、寝床に座って持ってきたものを少し食べた。靴を脱ぐのにも時間がかかった。
横になると、もう起き上がれなかった。
*
翌朝は、日が高くなってから目を覚ました。
宿の下で人が話していた。鍋の触れ合う音もする。立ち上がろうとすると膝が揺れ、寝床へ手を戻した。
買い物は、あとでいい。
俺は水を飲み、もう一度横になった。
昼を過ぎてから、裏の炊事場へ行った。スープを煮て、椀を一つ出す。ここでは二つ出しかけなかった。ルーチェが谷にいることを、手も分かっているみたいだった。
主人が薪を取りに来た。
「妹は、どうしとる?」
「上にいます」
「一人か?」
「一人ではないです。食べ物も置いてきました」
主人は俺を見た。誰といるのかまでは聞かなかった。
「春まで、あと三月だ。雪が長引けば、もっとかかる」
「はい」
「毎月、来るつもりか?」
「来られれば。手紙を出したいので」
「その近道でか」
俺はうなずいた。
主人は薪を抱え直し、鍋の脇に一本置いた。
「帰りを急ぐなよ」
「……今夜も、泊まらせてください」
「ああ」
それだけ言って、中へ戻った。
俺は薪を火へ寄せた。近道の話を信じたのかは分からない。山道が閉じているのに現れた子を、変だと思わなかったはずもない。
それでも、今夜も寝る場所はあった。
*
預けた手紙に書いたのは、山の上で冬を越していることと、十三になったことだった。前に谷へ着いたときには、竜に会ったことも、ティオと名づけたことも書いた。
今回は、その続きをうまく書けなかった。
ルーチェがほとんど人の姿に戻らないこと。椀を戻す夜が増えたこと。長老に言われた話を、まだ全部聞けていないこと。
書きかけると、俺が寂しがっているだけの文になった。それを家へ送れば、この子の気持ちまで俺の言葉で伝えてしまいそうだった。
結局、食べ物と暖を取る場所はある、二人ともここで過ごしている、とだけ書いた。冬の便は遅れるかもしれないとも添えた。
三月。三回。
雪が解けるまで、そのくらい手紙を出せればと思った。次も来られるかは、今回戻ってからの体を見て考える。
夕方、少し歩いて塩と保存のきく食料を買った。宿へ持ち帰り、戸を閉めてからボックスへしまった。帰りに運ぶ重さは減ったが、体調はまだ少し治っていなかった。
日が暮れても山へ向かわず、もう一晩、宿の寝床で眠った。
*
次の日の夕方、宿を出た。
朝から歩いても脚は震えず、飯も食べられた。それでも、飛んだ先ですぐ働けるとは思っていなかった。
「お世話になりました」
主人は帳場から顔を上げた。
「妹にも、無理させるなよ」
「はい」
外は薄暗くなり始めていた。雪はやみ、道にほかの人影はなかった。俺は山道の入口へ向かった。
石積みの裏へ回ると、宿の窓は見えなくなった。誰か来ないか確かめてから、雪を払った。
杭の頭に触れた。
谷の杭を探す。あちらにも、印は残っていた。雪の上で待っているルーチェの姿が浮かんだが、今たどるのは杭の中の鱗だった。
息を整え、つかんだ。
*
岩棚の裏へ戻った。
膝をついた。手もつき、しばらく顔を上げられなかった。町で休んだぶんが、一度に抜けていくようだった。
——レイ!
金色の鼻先が近づいた。
「……ただいま」
——おかえり。立てる?
「少し、待ってくれ」
ルーチェは隣へ腹をつけた。俺は首の付け根へ手を置き、呼吸が戻るのを待った。
前のように意識が途切れることはなかった。だが、一人で立とうとすると脚が支えられない。ルーチェの体へ寄りかかり、ようやく風の当たらないところへ移れた。
繋がりは細くなっていた。それでも、心配している感じは届いた。
「二日、泊まった」
——うん。
「手紙は預けた。塩も買えた」
——ご飯より、先に休んで。
俺はうなずいた。
鞄から布を出し、体へ掛けてもらった。火をおこすのも、ボックスを開けるのも、あとにした。ルーチェのそばで横になると、もう座り直す気力はなかった。
*
翌朝、岩へ背中を預けて、アリア姉の手紙を読み返した。
夏に荷と一緒に届いたものだ。上着の内側に入れたまま、何度も開いている。
——帰ってきたら、何に使うのか教えてください。
孤児院の庭に打った杭のことだった。
井戸の脇に立つアリア姉を思い浮かべた。トーマが黙って地面を指し、台の脚からの距離を示しているところまで浮かんだ。
帰ったら、説明する。そのつもりなのに、いつ帰るかは、今回の手紙にも書けなかった。
三年で帰ると言って旅に出た。俺がした約束だ。この子がまだ話せずにいることを、その約束の答えにしてはいけない。
ルーチェはティオのそばにいた。俺が顔を上げると、こちらを見た。
ルーチェにはまだ聞いていない。ここに残るのか、それとも俺と一緒に旅を続けるのか。それはルーチェが決めることだ。答えが出るまで、待とうと思った。
手紙を畳み、上着へ戻した。
まず今日は、体を休める。体調が戻ってからでも話はできる。今はゆっくり休もうと思った。




