分厚い封筒と、町ぐるみの署名
「監察庁に、届け物があるんです」
朝の仕込みの合間にそう切り出すと、マルタさんの眉が、器用に片方だけ上がった。
「監察庁? 坊やが、あの役人の巣に何の用だい」
「師匠から、預かった封筒があって。……ヴェルナーさんという人宛てです」
マルタさんの手が、止まった。
「ヴェルナー。……あの、笑わない狐かい」
「知ってるんですか」
「王都で商売してりゃ、名前くらいはね。役人のくせに袖の下が通じないってんで、商会筋じゃ疫病神って呼ばれてるよ。——つまり、まともな役人ってことさ」
マルタさんはエプロンで手を拭いて、あっさり言った。
「昼までお行き。ハンス、検品はあんたが代わりな」
「ええっ」
ハンスの悲鳴は、聞かなかったことにした。
*
監察庁は、貴族街にあるという。丘の上の王城の門前に、役所ばかりが並ぶ一角——官庁通り。マルタさんの受け売りだ。
貴族街は、別の町だった。
商業区との境の門を抜けたとたん、音が減った。呼び込みも、屋台の匂いもない。石造りの四角い建物が整列して、行き交うのは馬車と、役人と、書類を抱えた使いばかり。立派な建物ばかりの区画だった。
ルーチェは、店で留守番だ。皿洗いがあるから、と本人は言ったが、本当のところ、この区画にフードの子供を連れて歩きたくなかった。ここでは人が少ないぶん、一人ひとりが、よく見られる。
監察庁は、官庁通りの並びでも、ひときわ愛想のない建物だった。
受付の役人は、俺を上から下まで見て、書類に目を戻した。
「陳情なら書面で出して」
「届け物です。アシェンから、ヴェルナー様に」
役人の目が、書類から離れた。
「……アシェン?」
その地名は、この建物の中では、名刺より通りがいいらしかった。
*
ヴェルナーさんは、七年前と同じ顔をしていた。
正確には、七年ぶん歳を取っているはずなのに、同じに見えた。痩せて、静かで、目つきだけが忙しい人。査察の日、オスカルさんの店で帳簿をめくっていた、あの目つきのままだった。
「アシェンの、薬草工房の子か」
「覚えて……いるんですか」
「あの案件を忘れる監察官はいない」
ヴェルナーさんは、それだけ言って、手を出した。俺は鞄から、あの分厚い封筒を出して、渡した。
オスカルさんが「王都に行くなら」と持たせてくれた二通のうちの、一通。薬師ギルド宛より、少しだけ分厚い方。中身は、俺も知らない。
ヴェルナーさんは封を切って、まず一枚目を読んだ。
その顔が、ほんのわずかに、動いた。この人の「わずか」が普通の人のどれくらいに当たるのか、俺には分からないけれど。
「……オスカルらしい手紙だ。三行しかない」
「三行、ですか」
「読むか」
差し出された一枚目には、処方箋みたいに角ばった字で、本当に三行だけ書いてあった。
——この子が何者かは、聞かんことにした。あんたも聞くな。
——ただ、困っとったら、力を貸してやってくれ。
——貸しは、アシェンの町が返す。
最後の一行の意味は、封筒の残りが説明していた。
ヴェルナーさんが、残りの紙束を机に広げる。一枚、二枚——十枚以上あった。どれも別々の紙で、別々の字で、同じことが書いてあった。
この子の身元は、私が保証する。
肉の脂が染みたような紙に、武骨な字。——ベックさん。
薬の分量みたいに几帳面な字。——オスカルさん。
祈りの文句みたいに丁寧な字。——施療院の院長先生。
買付所の主人。大工の親方。パン屋のおばさん。宿屋の主人。自警団の隊長。
名前と、署名と、ひとことずつ。
「腕は儂が仕込んだ。目利きは本物」
「働き者です」
「この子が悪さをしたら、儂の首を持っていけ」
最後の一枚は、見慣れた字だった。アリア姉の字で、一行。
「この子は、うちの子です」
——目の奥が、熱くなった。
旅立ちの朝、みんなが順番に俺を抱きしめた、あの玄関先を思い出した。あのとき、こんなものを書いていたなんて、誰も一言も言わなかった。言わないで、鞄の底に、町ひとつぶんの背中を入れておいてくれた。
「……珍しいものを見た」
ヴェルナーさんが、紙束を揃えながら言った。
「保証状は、貴族が金で書かせるものだ。町が子供ひとりに書くものじゃない。少なくとも、私は初めて見る」
ヴェルナーさんは紙束を封筒に戻して、机の引き出しに、鍵をかけてしまった。マルタさんと同じ手つきだった。大人たちは、大事なものをしまう場所を、ちゃんと持っている。
「登録しておく。王都で厄介ごとに巻き込まれたら、ここへ来い。……それが、この署名への私の返事だ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより」
ヴェルナーさんの目つきが、査察のそれになった。
「アシェンの目利きに、ひとつ聞く。クロイター通りで働き始めたそうだが——最近、市中の薬草の質を、どう見る」
試されている。そう分かったから、俺は正直に答えた。
「偽物が、増えてます。うちの店だけで、今月三度。別々の商会から、同じ手口で」
「ほう」
ヴェルナーさんは、それ以上聞かなかった。代わりに、机の紙に何かを短く書きつけた。
「証拠が揃ったら、持ってきなさい。——揃ってから、だ」
証拠は貯めるもの。マルタさんと、同じことを言う。この町の大人の正しい人たちは、みんな同じ学校でも出ているんだろうか。
*
帰り道、貴族街の門を抜けたところで、息を吐いた。
夕方のクロイター通りは、薬草の匂いと、店じまいの音でできていた。店に戻ると、泡だらけのルーチェと、検品で目を回したハンスが、同時にこっちを見た。
「おかえり」
「レイ、おそい! 束が三十もきたんだぞ!」
「ただいま。……悪い、明日は代わる」
夜、屋根裏の窓辺で、俺はリーナへの手紙の続きを書いた。
ヴェルナーさんに会ったこと。オスカルさんの手紙が三行だったこと。それから、少し迷って、署名のことを書いた。全部は書けなかった。書こうとすると、まだ目の奥が熱くなるからだ。
——みんなには、内緒にしといてくれ。俺が泣きそうになったのは、ルーチェしか知らない。
窓の外で、城の灯りが光っていた。
王都は広くて、人が多くて、俺はまだ、ここでは誰でもない。でも、鞄の底には町がひとつ入っていて、監察庁の引き出しには、俺の名前が仕舞われている。
誰でもない、は、独りぼっち、とは違う。
それを教えてくれた人たちの顔を順番に思い浮かべながら、俺は目を閉じた。




