すられた財布と、路地の子供たち
マルタさんの使いで、施療院に薬を届けた帰り道だった。
人混みで、小さい子とぶつかった。転びかけたその子の肩を、とっさに支えた。
「ごめんよ、にいちゃん」
子供は笑って、駆けていった。
三歩あるいて、腰の軽さに気づいた。財布がない。
すられた。
「——っ」
追った。
七年、森で獣を追ってきた足だ。逃げる背中との距離は、みるみる詰まった。子供が路地に折れる。俺も折れる。詰まる。もう手が届く——そこで、路地が三つに割れた。
子供の姿は、どこにもなかった。
右の路地を覗く。物干しの下で、猫が寝ている。左を覗く。誰もいない。真ん中は、大人の肩幅しかない隙間で、奥は暗い。
足音も、気配も、何も残っていなかった。
森なら、追える。折れた枝、湿った土の足跡、鼻に残る匂い。七年で覚えた追い方は、全部、森の追い方だった。石畳は足跡を残さない。路地の風は、匂いを混ぜてしまう。
ここは、あの子たちの庭だった。
よその庭で、獲物を追ってはいけない。それも、七年で覚えたことのはずだった。
*
深追いした自覚は、あった。
気づけば、知らない区画にいた。建物は傾いて、互いに寄りかかり合っている。窓に布を下げただけの家。道の端の、壊れた樽。下町よりも、道が狭くて、空が細い。
貧民街だ。
その言葉は、俺にとって、他人事じゃない。
俺が捨てられていたのは、アシェンの貧民街だと聞いている。物心つく前のことで、俺自身は何も覚えていない。院長先生が抱き上げてくれるまで、俺はこの細い空の下にいた側だった。
通りの先に、人だかりがあった。
白い修道服の人たちが、大鍋から何かを注いで配っている。並んでいるのは、老人と、子供。唯一神の教会——南の国の神様の人たちだ、というのはマルタさんの受け売り。多神教のこの国にも、教会堂を構えて進出しているらしい。
湯気の匂いに、腹の虫が鳴きそうになった。列に並ぶ子供たちの目は、鍋だけを見ていた。
あの列に、俺が並んでいた日があったのかもしれない。
歩いている側と、並んでいる側を分けたのは、俺が何かをしたからじゃない。院長先生が、あの日あの道を通りかかったか、通りかからなかったか。それだけだ。
「にいちゃん、まいご?」
見下ろすと、小さな女の子が立っていた。六つか、七つ。すり切れた服に、枯れ草みたいな髪。でも目だけは、よく動く、賢い目だった。
「……迷子、かな。財布を追いかけてたら、道が分からなくなった」
「さいふ」
女の子は、俺を上から下まで見た。それから、値踏みするみたいに首をかしげた。
「とりかえしたいの?」
「取り返したい。中身に、用がある」
「ついてきて」
女の子は、俺の返事も聞かずに歩き出した。
俺は少し迷って、ついていった。罠かもしれない、と頭の隅が言った。罠でもいい、と別の隅が言った。どっちにしても、この森では、案内人がいないと、どこにも行けない。
*
連れて行かれたのは、使われていない橋の下だった。
昔は水が流れていたらしい溝に、石の橋がかかっている。今は水がない。おかげで橋の下が、まるごと屋根のある空き地になっていた。
その陰に、子供が五人いた。木箱と古布で作った寝床。石を組んだだけの竈。真ん中に、年かさの少年がひとり、座っていた。
十三くらいだろうか。痩せて、目つきだけが、妙に年寄りじみている。その手の中で、見覚えのある俺の財布が、くるくる回っていた。
「ミア。なんで連れてくるんだよ」
「だって、この人、おこってなかったから」
ミアと呼ばれた女の子は、悪びれずに言って、少年の隣にすとんと座った。
少年は、ため息をついて、俺を見た。
「……で? 取り返しに来たのか。ひとりで。この橋の下まで」
脅すような声だった。周りの子供たちが、じり、と間合いを詰める。走って逃げれば逃げられる。でも、財布は戻らない。
俺は、脅しには乗らないことにした。代わりに、商売の声を出した。
「中身、数えた?」
「……は?」
「銅貨三十枚と、鉄貨が少しだけ。聞きたいんだけど、それだけで、この人数が何日もつ?」
少年の手の中で、財布が止まった。
「六人で分けて、パンを買って、二日——いや、ここのパンの値段なら、一日半か。危ない橋を渡って、一日半。割に合わない仕事だと思う」
「……あんた、なんなんだよ」
「薬屋の使いっ走り。クロイター通りの、マルタさんの店にいる」
俺は、財布を指さした。
「返してほしい。そのままだと、僕が困る。——でも、ただ返せとは言わない。取引をしに来た」
「とりひき?」
ミアが、目をきらきらさせて繰り返した。少年の目つきは、まだ疑いのままだった。ハンスの「なんで分かんだよ」の目と、少し似ていて、ずっと硬い。この硬さの分だけ、この子はハンスより、痛い目に遭ってきたんだと思う。
「仕事の話だ」
俺は、その場にしゃがんで、目の高さを合わせた。
「マルタさんの店は、配達と使いが多い。王都は広くて、僕はまだ道を知らない。——でも、君たちは知ってる。さっき、身をもって知った。この町の路地は、君たちの庭だ」
「……それで?」
「道案内と、使い走り。ひとつ銅貨二枚で、雇いたい。盗んだ相手からは二度と盗めないけど、雇い主からは、何度でももらえる」
橋の下が、静かになった。
子供たちが、顔を見合わせる。少年は長いこと黙って、財布と、俺の顔を、交互に見ていた。
「……施しかよ」
吐き捨てるような声だった。俺は、首を振った。
「施しなら、財布ごとくれてやって、いい気分で帰ってる。そうしないのは、君たちの足に、銅貨二枚の値打ちがあるからだ。品の値打ちは、ごまかさない。それが僕の師匠の教えだから」
品の値打ちを、自分が知ってれば、堂々としてられる。
ベックさんの声が、頭の中でした。値打ちがあるのは品物だけじゃない。それも、たぶん、あの言葉の続きにある。
*
少年は、財布を放って寄越した。
中身は、減っていなかった。数えて、確かめて、それから俺は、そのまま財布を持って歩き出した。
「ついてきて」
「お、おい。どこ行くんだよ」
「パン屋。取引の前に、飯にする。腹が減ってると、人はまともに考えられない」
これは前世の知識でも、師匠の教えでもない。孤児院の食卓で、体で覚えたことだ。
一番近いパン屋で、黒パンを七つ買った。下町のパン屋は、大通りの屋台より一枚安い。場所代の違いが、そのままパンに乗っている。それでも一個銅貨四枚。七つで銅貨二十八枚。取り返したばかりの財布の中身は、ほとんどそのままパンに化けた。
なにをやってるんだろう、とは、思わなかった。
橋の下に戻って、パンを配った。子供たちは、ひったくるように受け取って、でも、すぐには食べなかった。全員が、少年の方を見た。少年が頷いてから、一斉にかぶりついた。
いい家だ、と思った。順番と、頭がいる。ばらばらの六人じゃない。
ミアは、パンを両手で持って、小さく囓っては、囓り口をじっと見ていた。大事に食べる子の食べ方だった。あれは、明日の分を知らない子の食べ方だ。七年前のセルが、あの食べ方をしていた。
「あんた、変わってるな」
少年が、パンを片手に言った。
「よく言われる」
「盗られたくせに、飯おごって、仕事くれるって。……何が狙いだよ」
狙い。そう聞かれると、俺も、うまく答えられなかった。マルタさんの使いが早く回れば俺が楽になる、というのは本当だ。でも、それだけじゃないことも、自分で分かっていた。
だから、狙いの代わりに、本当のことを言った。
「——俺も、捨て子だったから」
僕、が、俺、になった。取り繕う前に、口から出ていた。
「貧民街に捨てられてたのを、孤児院に拾われた。だから、これは狙いとかじゃなくて……ただの、癖みたいなものだと思う」
少年は、何も言わなかった。
ただ、パンを囓る音が、ひとつ増えた。
*
帰り際、少年は橋の柱にもたれたまま、ぶっきらぼうに言った。
「ヤン」
「え?」
「名前。仕事の相手が名無しじゃ、困るんだろ」
それから、ヤンは指を二本、口にくわえて、短く二回鳴らした。鋭い指笛が、路地の壁に跳ねて消えた。
「この笛が聞こえたら、俺たちの誰かが近くにいる。……王都の路地は、全部つながってる。俺たちは、走るのと、見るのが仕事だ。あんたが困ったら、どこかの路地でこれを吹け。二回だ」
「覚えた。——レイ。アシェンから来た」
「アシェン? どこだよ、それ」
「南の方にある、いい町だよ」
ヤンは、ふん、と鼻を鳴らした。それが、この子の笑い方らしかった。
*
店に戻って、マルタさんに全部話した。財布のことも、パンのことも、路地の子を使い走りに雇うと勝手に約束したことも。
叱られる覚悟はしていた。雇われの身で、店の使いを外に出す約束をしたのだ。
マルタさんは、カウンターから顔も上げずに言った。
「仕事をした分を払うんなら、構わないよ。うちの使いが減るわけでもないしね」
「……いいんですか」
「あんたが自分の駄賃から出すつもりだったんなら、それは駄目だ。仕事は仕事だ。店から出しな」
それだけだった。
*
夜、屋根裏の窓辺で、俺はルーチェに一日ぶんの話をした。
財布のこと。追いかけて、完敗したこと。ミアとヤンのこと。パンが銅貨二十八枚だったこと。
「レイ、まけたの?」
「負けた。完敗。森なら負けないんだけどな」
「ふうん」
ルーチェは、俺の膝に顎を載せて、目を細めた。
「でも、たのしそう」
「……そうか?」
「うん。まけたのに、たのしそう」
竜は、人の機嫌に鼻が利く。ごまかしても無駄なので、考えてみた。楽しい、は少し違う。でも、あの橋の下で六人がパンを囓る音を聞いていたとき、胸の奥のどこかが、静かだったのは本当だった。
ランプの灯で、リーナへの手紙の続きを書いた。
書きながら、ずっと、院長先生から聞いた言葉が頭にあった。エイベル様の言葉だ。子供が道で寝ている町に、未来はない。——あの人は、そう言って、私財で孤児院を建てた。院長先生は、その続きを自分で書き足した。子供が手に職を持てる家に、未来は来る。
俺にできたのは、パン七つと、銅貨二枚の仕事の口だけだ。橋の下の寝床は、今夜も寒いままで、明日も王都のどこかで、誰かが道で寝る。俺の手は、それを全部どうにかできるほど、大きくない。
でも、と思う。
あの言葉には、まだ続きがある気がする。エイベル様が書いて、院長先生が書き足した、その先。誰かがいつか、書き足すべき続きが。
それが何なのかは、まだ分からない。分からないまま、手紙の最後にひとこと、書き添えた。
——王都で、相棒の次に、取引先ができました。
窓の外で、城の灯りが光っていた。あの丘の上からは、たぶん、橋の下は見えない。
※2026/8/15 言い回しを一部修正しました(レイの台詞「盗んだ客からは」→「盗んだ相手からは」)。




