休みの市場と、ほどけかけた金色
「あんたたち、明日は店を閉めるよ」
夕飯の賄いの席で、マルタさんが言った。月に二度の、薬師ギルドの寄り合いの日らしい。
「あたしはギルドで一日つぶれる。ハンスは実家に顔を出しな。坊やは——」
マルタさんは、俺と、隣で黒パンをちぎっているルーチェを、順番に見た。
「妹を、遊ばせておやり。うちに来てから、働き詰めだろう」
「わたしとあそぶ?」
ルーチェが、パンを持ったまま顔を上げた。
「遊ぶんだよ。子供の仕事だ」
マルタさんはそう言って、エプロンのポケットから、小さな布袋をルーチェの前に置いた。じゃら、と軽い音がした。
「今月の駄賃だ。皿は割らない、床は磨けてる、文句のない働きだった。給金は働きに払う。うちの店の決まりだ」
ルーチェは、布袋と、マルタさんの顔を見比べた。
「……わたしの?」
「あんたのだ」
ルーチェは布袋を両手で持って、胸に当てた。中身は鉄貨と、銅貨が少し。金額でいえば、大人の半日ぶんにもならない。でもルーチェは、生まれて初めての給金を、宝物の卵みたいに抱えて、その夜は枕元に置いて寝た。
竜は宝を貯める、と文献にはあるけれど。
最初の宝がそれでいいのか、うちの姫様は。
*
出かける前に、財布の中身を分けた。
銅貨を十枚だけ残して、あとは別のところにしまう。取られたときに困る額と、取られても笑える額は、違う。あの日、橋の下でパンを七つ買うのに、俺は財布の中身をほとんど使い切った。もし手元に一枚もなかったら、あの取引はできていない。
残りをどこに入れたかは、人には言えない。
袖の中で、手のひらを一度だけ閉じる。出し入れの口は、手が入るだけの大きさで足りる。大きく開けるのも、小さく開けるのも、こちらの思い方ひとつだ。
それだけで済むようになったのは、七年やってきたおかげだ。最初のころは、目を閉じて、息を止めて、両手を突き出さないとできなかった。
出すときは、懐に手を入れる。
そこには何も入っていない。それでも、手を入れて、探して、取り出す。傍から見れば、上着の内側から金を出しただけだ。人は、手が引っ込むところと、出てくるところしか見ていない。途中は、誰も見ていない。
あとは、財布を腰ではなく、上着の内側に移した。
一度取られれば、誰でも覚える。
*
翌朝の市場は、いつも通りの賑わいだった。
中央市場は、商業区の真ん中にある。石畳の広場に屋台と露店がひしめいて、呼び込みの声が屋根みたいに重なる。違って見えるのは、こっちの都合だ。働く日に通り抜けるのと、遊びに来るのとでは、同じ場所でも景色が変わる。
「レイ、あれ、なに」
「干した果物だな。南の方から来るやつ」
「あれは」
「絨毯。……たぶん、俺たちには一生縁のない値段だ」
ルーチェは、フードの下から、目だけをきょろきょろさせて歩いた。手は、俺の手をしっかり握っている。迷子の対策で始めた習慣は、もうすっかりただの習慣になっていた。都会では、兄妹は手を繋ぐものだ。
人混みの向こうで、聞き覚えのある鋭い音がした。
指笛。二回じゃなくて、一回。見れば、市場の端を、見覚えのある痩せた子が駆けていく。籠を抱えて、荷の間を縫って、あっという間に消えた。あの走り方は、ヤンのところの子だ。一回の笛が何の合図かは知らない。仕事中、というだけは分かった。
この市場の下を、あの子たちの道が通っている。それを知ってから、王都の見え方が、少しだけ変わった。
*
昼は、屋台で食べた。
串焼きが一本銅貨六枚。最初に値札を見た日は悲鳴を上げた俺の物差しも、今日は二本まで許可を出した。休みの日の飯は、少し馬鹿になるくらいでいい。それも孤児院の食卓で覚えたことだ。祭りの日のアリア姉は、砂糖の量を数えなかった。
ところが財布を開けてみると、銅貨は十枚しかなかった。二枚、足りない。今朝、自分でそう決めて詰めたことを、すっかり忘れていた。
俺は懐に手を入れて、中を探す振りをして、二枚を足した。上着の内側には、何も入っていない。それでも親父は、俺の手が引っ込むところと、出てくるところしか見ていなかった。
用心して軽くした財布で、その日いちばん先に困ったのは、俺自身だった。
炭火の上で、脂がはぜる。親父が串を返すたび、煙がうまい匂いの塊になって流れてくる。
ルーチェは串を両手で持って、そのままかぶりついた。
「熱くないのか」
「あつくない」
……そういえば、この子は口から火が出るんだった。
フードの奥で、目が丸くなる。
「……!」
「うまいか」
「ベックさんのお肉と、ちがう。……でも、おいしい」
「一口くれないか」
「はい」
ルーチェが、串をこっちに差し出した。俺の分は、まだ親父が焼いている。
齧ると、脂と塩気のあとに、舌の奥がぴりっとした。王都へ来る道で行商人にもらった小袋と、たぶん同じ系統のものが、ほんの少しだけ振ってある。
「炭で焼いたのと、塩と、香辛料が少しだな。……こういうのは屋台が一番うまい」
広場の隅の日陰に並んで座って、俺たちは串を齧った。石畳の広場を、人が川みたいに流れていく。あの流れの一人ひとりに、帰る家と、今夜の飯があるのだと思うと、都会の人混みも、少しだけ景色として悪くない。
ルーチェは食べ終わった串を名残惜しそうに眺めてから、大事そうに、腰の布袋を開けた。
「レイ。わたし、かいものが、したい」
「何を買うんだ」
「ないしょ」
生まれて初めての給金の使い道を、うちの姫様は、もう決めているらしかった。
*
異変に気づいたのは、その直後だった。
立ち上がったルーチェが、ふらり、と揺れた。
「ルーチェ?」
「……なんか、へん」
その声が、少し、低い。人の声と、別のものの間くらいの響きが混ざっている。フードの奥を覗き込んで、俺は息を呑んだ。
金色の目の、瞳孔が、縦に細くなっていた。
竜の目だ。それだけじゃない。フードから覗く前髪の生え際に、ちら、と硬いものが光った。鱗。ほどけかけている。人の形が、ゆっくり、ほどけかけている。
心臓が、冷たい手で掴まれた。
ここは市場のど真ん中で、昼で、周りは人だらけだ。
「——ルーチェ、こっち」
声だけは平らに保って、手を引いた。走らない。走れば人は見る。広場の隅の、荷車の陰の、細い路地。表の音が一枚遠くなるところまで入って、壁際にルーチェを座らせた。
「レイ、わたし……」
「大丈夫だ。喋るな」
考えろ。宿の夜と同じだ。人化は、ずっと制御していないと保てない。気が緩んでも、力が尽きても、ほどける。
人の形になれるようになって、もう何年も経つ。それでも、この子はまだ、自分の形を完全には握れていない。いつか制御しなくても保てる日が来るのかどうか、俺にも分からなかった。
今日は朝から人混みで、緊張して、はしゃいで、腹一杯で、日なたで——気の張りと緩みが、一度に来た。
夜の対策なら、知っている。
俺はルーチェの両手を、自分の両手で包んだ。卵の頃、毎晩やっていたのと同じに、魔力をゆっくり流す。手のひらから、細い川がひとつ、繋がる感覚があった。
「……あ」
「効くか」
「あったかい。……ながれてくる」
フードの奥で、縦に細くなっていた瞳孔が、ゆっくり、人の丸さに戻っていく。生え際の鱗が、砂に水が染みるみたいに、肌に沈んで消えた。
俺は、詰めていた息を吐いた。
そのときだった。路地の入り口に、小さな影が立った。
「——にいちゃん、だいじょうぶ?」
ミアだった。籠を抱えて、賢い目で、俺たちを見ている。どこから見ていたのか、いつからいたのか、まるで分からなかった。路地は、この子たちの庭だ。庭に入った客に気づかない家主はいない。
「妹が、人混みに酔ったんだ。少し休めば治る」
「ふうん」
ミアは、それ以上聞かなかった。代わりに、路地の入り口にちょこんと座って、通りの方を向いた。
「ここ、わたしのばしょだから。……だれも、こないよ」
見張りをしてくれるらしい。銅貨二枚の取引に、こんな利子がつくとは聞いていない。
*
ルーチェが立てるようになるまで、大した時間はかからなかった。
路地を出る前に、ルーチェはミアの前に立って、じっと見下ろした。それから、腰の布袋を開けて、何かを考えて、やめて、代わりにぺこりと頭を下げた。
「ありがと」
「いいよ。——パンの、おかえし」
ミアは、大人みたいな返事をして、籠を抱え直して、路地の奥に消えた。
帰り道、ルーチェはずっと何かを考えている顔だった。手はいつもより強く、俺の手を握っていた。
「レイ」
「ん」
「わたし、ひとのかたち、へたになった?」
「逆だろ。朝からずっと、うまくやりすぎたんだ。……疲れてほどけるのは、頑張った証拠だ。皿洗いと同じだ」
「……そっか」
「ああ。ただ、次からは決めごとをひとつ増やす。変だと思ったら、我慢しないで、すぐ言う。いいな」
「うん。——あのね、レイ」
ルーチェは、少し歩いてから、白状した。
「ほんとは、あさから、ちょっとへんだった。でも、たのしかったから、いえなかった」
……知ってた気がする。楽しい日ほど、竜の人化は無理をする。俺の妹は、働き者で、見栄っ張りだ。
それから、少し歩いてから、俺は足を止めた。
「ルーチェ」
「なに」
「次に変だと思ったら、ルームに入れ」
「ルーム?」
「中なら竜に戻っていい。誰にも見られない」
ルーチェは、しばらく口を開けたまま俺を見て、それから、大きく頷いた。
「……そっか。おうち、あるもんね」
なんで今まで思いつかなかったんだろう、と思った。
門をくぐるときにやったことと、同じなのに。あのときは通行料をごまかすために入れて、それきり、ルームは荷物と寝床のための場所になっていた。
持っているものの使い道を、俺はまだ半分も分かっていないらしい。
*
店に戻る少し前、ルーチェは「まってて」と言って、角の小さな店に一人で入った。
買い物の中身は、夜になって分かった。
屋根裏の窓辺で、ルーチェが布袋から出したのは、飴玉がふたつ。それと、小さな紙包みがひとつ。
「あめは、レイと、わたしの」
飴玉をひとつ、俺の手に押しつけて、ルーチェは紙包みの方を、大事そうに膝に載せた。
「そっちは?」
「アリアねえの」
ルーチェは、紙包みをそっと開いた。
干した果物だった。琥珀色の実が、いくつか。皺が寄って、日を吸ったみたいな色をしている。
「あまいの。……おさとうじゃないけど、あまいの」
俺は、その言い方に、少し黙った。
孤児院で砂糖が出るのは、年に一度の祭りの日だけだ。アリア姉は普段、砂糖の量を数える。この子は、それを見て育った。
砂糖は買えない。買えないことも、たぶん分かっている。
「てがみと、いっしょにおくれる?」
「……ああ。送れるよ」
「アリアねえ、おさとう、いつもかぞえてるから。じぶんのぶん、たべないから」
生まれて初めての給金で、うちの姫様が買ったのは、飴玉ふたつと、遠くの家族の甘いものだった。
布袋は、空になっていた。
竜は宝を貯める、と文献には書いてある。
文献は、何も分かっていない。
俺は飴玉を口に放り込んで、リーナへの手紙に、追伸をひとつ書き足した。荷物がひとつ増えます。アリア姉に、ルーチェから。
窓の外で、城の灯りが光っていた。口の中の飴は、思っていたより、ずっと甘かった。




