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捨てられた転生者、金色の竜と旅に出る〜時空間チートで巡る、帰る場所のある旅路〜  作者: mizu
第二章 王都クローネ

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12/19

読めない一行と、王立大書庫

「坊や、字は書けるかい」


 朝の仕込みの最中、マルタさんが唐突に聞いた。


「書けます」


 マルタさんは、ふん、と鼻を鳴らして、エプロンで手を拭いた。


「なら、使いをひとつ頼まれとくれ。王立大書庫だ」


 ハンスが、棚の向こうで手を止めたのが分かった。


「大書庫って、あの、貴族街の?」


「そうさ。うちのギルドが、三十年前の毒草の記録を写してこいと言ってきてね。あたしは店を離れられない。ハンスは字が汚い」


「ひでえ!」


「事実だろ」


 マルタさんはカウンターの引き出しから、封蝋の押された紙を一枚出して、俺に渡した。薬師ギルドの、使いの証だ。


「大書庫は、身分のない者は入れない。この札と、あんたのギルドカード。それと銀貨一枚」


 マルタさんは、少しだけ間を置いた。


「監察庁の名前を出しな。あんたを登録した役人がいるんだろう。それで通れるはずだ」


 俺は、鞄の底の封筒のことを思い出した。町ひとつぶんの署名が、こんなところで効くとは思わなかった。あの人たちは、自分の名前が王都の書庫の門で使われるなんて、たぶん一度も想像していない。



 王立大書庫は、丘の中腹にあった。


 監察庁と同じ通りの、ひとつ奥。大きい建物で、窓が高くて小さい。本を日に焼かせないための造りだ、と後で知った。前世の記憶にある図書館は、もっと明るくて、誰でも入れる場所だった気がする。ここは外から見るかぎり、本を守るための砦だった。


 門番は、俺を上から下まで見た。そこで俺は、薬師ギルドのカードと、監察庁の名前を出した。


「これが入館証だ。代わりに銀貨一枚を預かる。持ち出しは一切ならん。帰りに入館証を返して、何もなければ銀貨は戻る」


「はい」


 俺は銀貨を一枚預けて、入館証を受け取った。


 扉が開いた瞬間、匂いが変わった。


 紙と、革と、埃と、それから何か薬みたいな匂い。虫よけの香だと、これも後で知る。


 顔を上げて、俺は、そのまま止まった。


 天井が、遠かった。


 二階ぶん、三階ぶんの高さまで、壁という壁が本で埋まっていた。梯子が何本も立てかけてあって、床にも背の高い棚が列を作って、その列が奥まで、どこまでも続いている。窓から落ちる細い光の柱の中で、埃が金色に舞っていた。


 アシェンの工房の二階の書庫が、俺の知っている「本のある場所」の全部だった。本棚がひとつ。リーナが本を繕いながら守っていた、あの棚。


 ここには、いくつあるのか見当もつかない。


「……すごい」


 声が、勝手に出た。


 この国の全部の知識が、ここに積んである。


 なら、俺の問いの答えも、どこかにあるはずだ。



 仕事は、昼過ぎまでかかった。


 三十年前の毒草の記録は、思ったより厄介だった。書き癖の強い字で、しかも記録者が三人いて、途中から筆跡が変わる。


 書き写している途中で、俺は手を止めた。


 間違いがある。


 二枚目の症例で、草の名前と症状が食い違っていた。この毒草を食べて、この症状は出ない。出るとしたら、隣の頁の草の方だ。乾かすと見分けがつきにくくなる二つで、オスカルさんの店では、俺が毎日ふるいにかけていた組み合わせだった。


 直したくなる手を、押さえた。


 写しは、写しだ。原本の間違いも含めて、そのまま運ぶ。書く人間が良かれと思って直すと、元がどうだったか、誰にも分からなくなる。オスカルさんの店の帳面で、何度も叱られたことだった。


 だから、そのまま写した。


 最後の一枚を写し終えて、指を伸ばした。それから別の紙を一枚出して、気づいたところだけを書き留めた。こっちは写しじゃない。俺が思ったことだ。


 二枚を、別々にしまった。


 窓の光が、来たときより傾いている。門番は「期限は日暮れの鐘までだ」と言っていた。まだ、ある。


 俺は立ち上がった。


 ここからが、本当の用事だった。



 目当ての棚は、奥の奥にあった。


 案内板の代わりに、棚の端に木札が下がっている。『古語』『失われた言葉』『竜と獣の記録』——最後の札の前で、足が止まった。


 背表紙を、端から目で追っていく。竜の生態。竜の伝承。竜との盟約。どれも見たいけれど、今日は違う。俺が探しているのは、自分の中にある言葉だ。


 時空間。


 俺のステータスに七年間ずっと書かれていて、鑑定が【※詳細不明】としか答えない、あの言葉。


 最初の列は、空振りだった。竜のことばかりで、時のことは一冊もない。踏み台を抱えて隣へ移り、また端から追う。『星の巡りと暦』は暦の本で、『失われし刻の書』は詩集だった。題だけで飛びつくと、たいてい外れる。


 窓の光の角度が変わっていた。腹が鳴りはじめた頃だった。


 三段目の、右から四冊目。背表紙の擦り切れた薄い本の題を読んだとき、指が止まった。


 『星辰の民の伝えたる、時の綻びについて』


 抜き出すのに、少し勇気が要った。


 中身は写本だった。奥付を見ると、三百年前の本を、百二十年前に写したもの、と読める。紙が茶色くなって、端がぼろぼろで、めくるたびに息を止めた。


 本文は、人間の言葉で書かれていた。読める。読めるのに、意味が入ってこない。


 ——世に、綻びという場所がある。


 ——そこは、時が縫い目を外した場所であり、落ちた物は流れる。流れた物は、いずこにか着く。


 ——星辰の民は、これを繕う者を、幾度か見たという。


 心臓が、うるさくなった。


 落ちた物は、流れる。流れた物は、いずこにか着く。


 時のすきま。ルーチェが、卵の中で流されていた、暗くて静かな、どこでもない場所。


 あの子は、そこから来た。この本は、そこに名前を与えている。


 これだ、と叫びそうになって、飲み込んだ。ここは書庫だ。声も出せない。誰にも言えない。この本の中身が今どれだけ俺にインパクトを与えているか、この建物の中の誰も知らない。


 繕う者。


 その言葉のところで、目が止まった。誰が。何を。どうやって。


 ページをめくった。



 余白に、注釈が書き込まれていた。


 細い、流れるような文字。人間の文字ではない。写本を作った人が、原本から一緒に写したものらしかった。


 俺は鞄から、リーナの紙の写しを出した。七年間、リーナの本の見返しの下に挟まっていた、あの一枚。母親の書いた、読めない一行。


 並べた。


 同じだった。


 文字の傾き方も、線のはらい方も、俺には見分けがつかないほど、同じ形の文字だった。


 リーナの母親が使っていた文字が、三百年前の本の余白にある。エルフの文字。星辰の民の、文字。


 ——ここじゃない、どこか。


 あの夜、ルーチェが空を指して言った言葉の「どこか」が、ほんの少しだけ、輪郭を持った。エルフだ。答えを持っているのは、たぶん、あの人たちだ。


 そして俺には、その一行が、読めない。



 司書は、入口の受付に座っていた。年寄りで、俺が近づくと、眼鏡を上げてこちらを見た。


「あの、すみません。この文字を読める人は、この国にいますか」


 俺は、写本の余白のほうを指した。リーナの紙は、鞄に戻してある。あれは見せない。あれはリーナのものだ。


 司書は、覗き込んで、それから、しばらく黙った。


「エルフ語だな」


「はい」


「読める者はおらん」


 あっさりした答えだった。


「わしの知る限り、この国で最後にエルフ語を読めた者は、九十年前に死んだ王立の学士だ。その学士が残した対照表もこの書庫にあるが、二十年前の大雨で屋根から水が回って、半分が駄目になった。残った半分では、単語がいくつか拾えるだけだ」


 アイテムボックスに入れておけば、紙は濡れない。時間も止まる。


 思ってすぐ、意味のないことだと気づいた。俺の箱に入れられるのは、俺が持っているものだけだ。二十年前、俺はまだ生まれていない。


「……その、残った半分は」


「それは、見せられん。閲覧には王の許可がいる」


 司書は、眼鏡を戻しながら、付け加えた。


「そもそも、エルフに聞くのが早い。北の森まで行って、追い返されずに戻ってこられればな」


「追い返される、というのは……何かの魔法ですか」


「そんな上等なものではないらしい」


 司書は、机の端を指で叩いた。


「道に木を倒して塞いで、森の者がそこに立っている。通れない、と言われて終わりだそうだ」


「それだけ、ですか」


「それだけだ。それを越えれば入れる」


 拍子抜けした顔をしたのが分かったらしい。司書は、そこで少しだけ声を落とした。


「——だが、勝手に入った者は、二度と出られんそうだ」


 話を聞いて、俺は少し考えた。


 入ろうと思えば入れる。だが、そこを越えた人は帰ってこない。


 北。


 その方角は、七年前から俺の中で、ずっと同じ場所を指している。


「ありがとうございます」


 俺は頭を下げて、席に戻った。


 読めないなら、運ぶしかない。


 紙を広げて、余白の注釈を、一文字ずつ写し始めた。意味の分からない形を写すのは、思ったより難しかった。線の一本の長さ、傾き、点の位置。読める字なら手が勝手に補ってくれるところを、全部、目で測って写す。


 三度書き直して、四度目でようやく、自分で納得のいく写しができた。


 これを、リーナに送る。


 読めるのは、いつになるか分からない。それでもリーナは、七年前から、本を見るのが好きで、分かるまで放さない子だった。読めない一行を、読める一行に変えるための道を、俺よりずっとよく知っている。



 立ち上がろうとして、写本を棚に戻す段になって、困った。


 三段目は、俺の背では、爪先立ちでぎりぎり届かない。行きに使った踏み台は、通路の反対の端で、別の誰かが使っていた。


 棚に手を伸ばして、諦めて、周りを見回したとき——


 近づいてくる人が見えた。


 同い年か、少し上くらいの少年だった。ひょろりと背が高くて、猫背で、上等な服を着ている。上等なのに、袖口にインクの染みがあった。それも、一つや二つじゃない。


 少年は、俺の手から本を取ると、爪先立ちもせずに三段目へ戻した。


「ありがとうございます」


 少年は、背表紙の題をちらりと見て、それから初めて俺の顔を見た。


「……綻びの本か」


「知ってるんですか」


「そこの棚のものは、だいたい読んだ」


 自慢する響きは、まるでなかった。ただ事実を言っただけ、という言い方だった。


「面白かったか」


 少し迷って、俺は正直に答えた。


「答えは、書いてありませんでした。でも、何を探せばいいか分かりました」


 少年は、まばたきをした。


 それから、口の端を少しだけ上げて——笑ったのだと分かるまで、少し時間がかかった。笑い慣れていない顔だった。


「それは、悪くない読み方だ」


 少年は、それだけ言って、抱えていた本の山を落としそうになりながら、奥の卓に戻っていった。名乗らなかったし、俺も名乗らなかった。



 日暮れの鐘になったので、大書庫を出た。入り口で入館証を返すと、銀貨は戻ってきた。


 外に出ると、腹が、盛大に鳴った。朝から何も食べていない。大書庫に一日いると、腹が減っていることも忘れるらしい。


 貴族街の門を抜けて、商業区に降りると、屋台の煙が待っていた。串焼きが銅貨六枚。財布と少し相談して、一本だけ買った。


 立ったまま齧った。炭の匂いと、脂と、塩と、香辛料。


 うまい。休みの日にも食べたが、今日もうまい。


 一日ぶんの背中の凝りが、これで少しほどけた。うちの姫様がいたら、絶対にもう一本ねだられていたな、と思った。



 店に戻ると、マルタさんは店じまいの最中だった。


 俺は写しの束を渡した。それから少し迷って、もう一枚の紙も出した。


「こっちは、なんだい」


「写しの、気づいたところです。……二枚目の症例が、たぶん間違ってます。草の名前と症状が食い違ってるので」


 マルタさんは、二枚を並べて、しばらく黙って見ていた。


 それから、指で一度、紙を叩いた。


「あんた、これをギルドの写しの方に書かなかったね」


「写しは、写しなので」


「……ふん」


 マルタさんは、二枚を別々に畳んだ。


「写しはギルドに出す。こっちはあたしが持っとくよ。これを書いた爺さんはとっくに死んでるから、文句を言われる心配もない」


 それだけ言って、カウンターの引き出しに鍵をかけた。


 あの引き出しに何が入っているのか、俺はまだ知らない。



 夜、屋根裏の窓辺で、俺は手紙を書いた。


 いつもより、ずっと長い手紙になった。


 大書庫のこと。天井まで本があったこと。時の綻びという言葉があること。そして、三百年前の本の余白に、リーナの紙と同じ文字があったこと。


 写しを、二枚同封した。一枚は注釈の写し。もう一枚は、司書から聞いた話を書き留めたもの——九十年前の学士のこと、水漏れで半分残った対照表のこと、閲覧には王の許可がいること。


 最後に、こう書いた。


 ——読めなくてもいい。持っていてほしい。君の「読めない一行」は、もう、君ひとりのものじゃない。


 封をして、宛名を書いた。アシェンの町、オスカル薬店、リーナへ。孤児院より、あの店にいる時間の方が長い。


 王都からアシェンまで、隊商の荷に乗って、早くて三週間。返事が来るのは、二か月近く先になる。


 七年のあいだ、家族はずっと、手を伸ばせば届くところにいた。呼べば返事があった。今は、書いた言葉が向こうに着くころ、季節がひとつ変わっている。


 寝台の上で、ルーチェが丸くなっていた。


「レイ、ながいてがみ」


「ああ。今日は、いろいろあった」


「……リーナ、よろこぶ?」


 俺は、少し考えた。


「喜ぶと思う」


「わらう?」


「いや」


 窓の外で、城の灯りが揺れていた。丘の中腹の、あの建物の窓は、もう暗い。


 あそこにある棚のどこかに、俺たちの問いの続きがある。読める日はまだ来ないけれど、少なくとも今日、俺は探すものの名前を持ち帰った。


「うれしいと、調べはじめるやつだ」


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