銀貨一枚の噂と、黙っていた子
休みの日に、冒険者ギルドへ行った。
仕事を休んで遊びに行くわけじゃない。マルタさんの店は、商会の荷だけでは足りない薬草がある。そういうものは、ギルドの採取依頼で集まってくる。
「自分のランクで受けられる依頼を見に行きます」
そう言ったら、マルタさんは片眉を上げて、それからカウンターの下から、書きつけを一枚出してきた。
「なら、これも見といで。うちが欲しい草だ。ギルド経由なら、納めた奴の記録に残る。……誰が採ったか分かる草は、偽物になりにくいんだよ」
仕入れの三つ目の道だ、と思った。商会から買う。地元の採取人から直に買う。そして、ギルドを通す。三つ目がいちばん高いけれど、いちばん足がつく。だから安心が買える。
商売は、値段だけじゃない。オスカルさんの店で七年見ていたことが、王都でも同じだった。
*
冒険者ギルドの本部は、商業区の真ん中にあった。
アシェンの出張所とは、まるで違った。三階建ての石造りで、荷を担いだ大人が出入りして、鎧の擦れる音がして、酒の匂いまでしていた。昼間から飲んでいる連中がいるらしい。
中に入って、俺は自然と壁際を歩いた。
背の高い大人ばかりの部屋で、俺のようなF級見習いは、他のやつからすれば目立つ存在じゃない。それでいい。目立たないのは、いまの俺には利益だ。
依頼の掲示板は、奥の壁一面にあった。
紙が、何十枚も重なっている。護衛。討伐。荷運び。下の方の隅に、Fでも受けられる雑務と採取の紙が固まっていた。マルタさんの書きつけと見比べて、二枚選ぶ。郊外の丘で採れる草だ。ルーチェを連れて半日、いい遠出になる。
紙を持って振り返ろうとして——目の端に、それが引っかかった。
掲示板の、依頼とは別の区画。
町の知らせや、人相書きや、迷い犬の紙が貼ってある、雑多な一角。
その真ん中に、見覚えのある紙が、あった。
*
『金色の飛行体を見た者は、ギルドまで知らせられたし。確かな情報には銀貨一枚。——買い手が付いている』
一字一句、同じだった。
ミューレを出た先の、名も覚えていない宿場の門。そのあと、関所の手前の掲示板。そして今、王都クローネの、冒険者ギルド本部。
南の街道の途中の宿場町から、この国でいちばん大きな町まで。同じ紙が、同じ文面で、貼られている。
旅の間に見た二枚は、まだ「その辺りに撒かれた紙」だと思えた。
三枚目は、そうじゃなかった。
これは、面ではなく、網だ。街道沿いに点々と置かれているんじゃない。この国の人が集まる場所には、たいてい貼ってある、ということだ。
俺は紙の前で立ち止まらなかった。ただ、依頼票を持つ手に、少し力が入った。
*
受付で、依頼票とギルドカードを出した。
受付の女の人が、帳面に書き写しはじめた。紙はギルドが預かって、受けた記録は帳面に残る。アリア姉より、少し上くらいだろうか。
なんでもない顔で、聞いた。
「あの掲示板の、金色の飛行体の紙。あれ、依頼ですか」
彼女は、手を止めずに答えた。
「情報の買い取りですね。うちの依頼ではないです。掲示の場所をお貸ししている形で」
「じゃあ、誰が」
「代理人の方が持ってきた紙です。うちが受けるのは掲示料と、情報が入ったときの取り次ぎだけで。依頼主のお名前は——」
彼女は帳面をめくって、それから、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「代理人の名前しか書いてありませんね。よくあることですけど」
「よくあるんですか」
「ありますよ。お金持ちが道楽で珍しい生き物を探しているとか、そういうのは名前を出したがらないので。……ただ」
書く手が、止まった。
「この掲示、もう三か月も貼りっぱなしです。普通、情報が入らなければ引き上げるものなんですけど」
三か月。
俺たちが旅に出るより、前だ。
金色の飛行体を、誰かがずっと、探している。俺たちがアシェンでのんびり支度をしていた頃から。
礼を言って、俺はマルタさんの書きつけを鞄にしまった。
名前のない依頼主。ずっと張られたままの網。分かったのはそれだけで、分かったことの分だけ、影が広くなった。
*
店に戻って、頼まれた草の依頼を二つ受けてきたと伝えた。丘まで行くと言うと、「なら籠は大きいのを持っていきな」と言われた。
昼飯のあと、遠出の支度に、ルーチェと二人で出た。
昼の商業区は人でいっぱいで、その人混みの中を、白い修道服が二人、こちらへ歩いてくるのが見えた。
唯一神の教会の人たちだ。貧民街で炊き出しをしていたのと、同じ服。
道を譲ろうとして、俺は横に寄った。ルーチェも一緒に寄る。すれ違いざま、年上の方の聖職者の目が、ルーチェのフードの奥を、ちらりと見た。
金色の前髪。
その目が、ほんのわずかに、細くなった。
嫌悪、というほどではない。眉が、少し寄っただけだ。何かの決まりに合わないものを見た人の顔。それだけ言うと、聖職者は連れの方に何か短く言って、歩いていった。
「……レイ」
「ん」
「いまのひと、わたしのこと、きらいだった?」
「嫌いじゃない。たぶん、知らないんだ」
我ながら、うまくない答えだった。でも、あの目に名前をつけるだけの知識が、俺にはまだない。南の国の神様は、竜をどう扱うんだろう。この国の祠では、竜は恵みの側にいるのに。
ルーチェは、フードを自分で少し深くした。誰にも言われないうちに、自分で。
それが、なんだか、いやだった。
*
路地の入口で、鋭い音がした。
指笛が、一回。仕事中の合図だ。壁の向こうで足音が走って、遠ざかっていく。
その音を聞いた瞬間、俺の頭は、勝手にひとつの計算をした。
銀貨一枚。
大書庫に入るのに預けたのと、同じ額だった。
ヤンたちの取り分でいえば、使い走り五十回ぶん。橋の下の六人が、四日はパンを食える金額だ。
そして、ミアは見ている。
あの市場の日、路地の奥で、ルーチェの目が縦になって、生え際に鱗が光ったところを。籠を抱えた小さな影は、いつからそこにいたか分からなかった。全部は見ていないかもしれない。でも、何かは見た。
あの子が今日まで、誰にも言っていないという証拠は、どこにもない。
同時に、言った証拠も、どこにもない。
俺は立ち止まって、しばらく、路地の暗がりを見ていた。
確かめる方法は、ある。ヤンに聞けばいい。あの貼り紙のことを知っているか、と。
でも、聞いた瞬間に、俺は「あの紙と自分に関係がある」と言ったことになる。まだ何も知らない相手に、わざわざ火種を渡すことになる。
聞かない。
それが、いちばんいいと思った。
*
その日の夕方、店の裏でハンスと荷を解いていたら、ヤンが顔を出した。
使いの駄賃を受け取りに来たらしい。俺は銅貨二枚を渡して、それから、聞くつもりのなかったことを、少しだけ形を変えて、聞いてしまった。
「ヤン。……俺が、なんか隠し事してたら、どうする」
ヤンは、銅貨を袖に落として、けげんな顔をした。
「は? 何だよ急に」
「いや。仕事の相手が、何か隠してるかもしれないって思ったこと、ないか」
「あるに決まってんだろ」
あっさりだった。
「みんな何かしら隠してるよ。名前も、歳も、どこから来たかも。うちの連中だってそうだ。——おれは聞かねえよ」
「聞かないのか」
「聞いてもしょうがねえもん」
ヤンは、鼻を鳴らした。この子の笑い方だ。
「隠し事って、だいたい高く売れるだろ。売れるってことは、売ったら終わりってことだ。おれたちは明日も明後日も、あんたの使いで銅貨二枚もらいたいの。……一回きりの金より、続く金のがいい。頭のいい商売ってのは、そういうもんだって、誰かが言ってた」
「誰が言ってたんだ、それ」
「あんただろ」
言ったかもしれない。財布を取り返した日の橋の下で、俺は確かにそういうことを言った。盗んだ相手からは二度と盗めないけど、雇い主からは何度でももらえる、と。
あの日の理屈が、この子の中で、俺を守る側に回っていた。
俺は、なんと言えばいいのか分からなくて、結局、余っていた黒パンを二つ、押しつけた。ヤンは「駄賃は別だからな」と言いながら、しっかり両方受け取った。
*
夜、屋根裏で、俺はルーチェと決めごとを数え直した。
一。外で竜に戻らない。二。人混みで疲れたら、我慢しないですぐ言う。三。フードは自分から深くしない——これは今日、俺が足した。隠れるのは俺の役目で、この子が自分を小さくすることじゃない。
「……よっつめ、ある?」
「ある。町の掲示板は、見ない」
「みない?」
「見ても、足を止めない。気にしたって、どうしようもないやつだ」
ルーチェは、少し考えて、頷いた。
「レイは、みてたよ。きょう」
「……俺は、いいんだ」
嘘だった。俺の顔こそ、いちばん止まっていた。
でも、誰かが見ておかないといけない。網がどこまで広がっているかを知らないまま歩くのは、目をつぶって街道を歩くのと同じだ。
三か月前から、金色の噂には値札がついている。銀貨一枚。その値札の前を、今日も何百人が通って、何人かは足を止めただろう。
その中に、路地の小さい子がいたかもしれない。
いなかったかもしれない。
どちらでも、明日ヤンたちは店の使いで走って、銅貨二枚を受け取る。俺はそれを、確かめない。
信じる、というのは、たぶん、確かめないと決めることだった。




