指笛は二回、路地は全部つながっている
その日、中央市場は祭りの前みたいに混んでいた。
マルタさんの使いで乾燥棚の金具を買いに来たら、金物屋の前が人だかりで、順番待ちの列が通りまではみ出していた。ルーチェは俺の袖を掴んで、人の隙間から屋台の方を覗いている。
「レイ。あれ、あまいにおい」
「帰りにな。今は金具が先」
「はーい」
不満そうな返事だが、手は離さない。都会では兄妹は手を繋ぐ。もう説明しなくても、この子はそれを守っている。
列がひとつ進んだとき、背中の後ろで、人の流れが変わった。
混んだ市場では、人の流れには向きがある。だから流れに逆らうものは、目でなく背中で分かる。三人。俺たちの方へ、まっすぐ寄ってくる。
振り向いた。
外套の男が三人。市場の客の顔をしていない。手が空いていて、目が動いていない。三人が三人とも、こちらを見ている。
心臓が、一度、大きく鳴った。
——バレたか。
頭の中で、貼り紙の文字が跳ねた。金色の飛行体を見た者は。確かな情報には銀貨一枚。買い手が付いている。
三か月も貼りっぱなしの網。名前のない依頼主。それが、ついに、ここに来た。
俺はルーチェを背中に回した。逃げ道を探す。左は壁、右は人混み、後ろは行き止まりの露店。最悪だ。走れない場所を選んで並んでいた自分を、殴りたかった。
男たちが、来る。
三歩。二歩。
——そして、俺の横を、通り過ぎた。
*
すぐ隣で、小さな悲鳴がした。
俺のすぐ左。同じ列に並んでいた、亜麻色の髪の女の子。歳は俺と同じくらい。その腕を、使用人風の男が掴んでいた。
地味な色の、上等な服だった。染めムラがなくて、織り目が詰んでいる。うちの店のエプロンの何倍もする布を、わざわざ目立たない色に仕立ててある。妙な組み合わせだった。
「あなた誰、痛……っ、放して!」
「お嬢様。こちらに来ていただけますか」
言い方は丁寧だったが、嘘だ、と体が先に分かった。本物の使いなら、主人の顔を見て話す。この男は女の子の顔じゃなくて、周りの目線を見ていた。
通りがかりの大人たちが、ちらりと見て、目をそらした。屋敷の使いが、我儘を言って抜け出したお嬢様を連れ戻しに来た——そう見えている。上等な服が、そう見せている。
誰も止めない。都会の人混みは、そういうふうになっている。
俺の背中で、ルーチェが息を吸う音がした。
この子は今、竜の側の判断をしようとしている。それが分かったから、俺は先に動いた。
「ルーチェ。店に走れ。ハンスを呼んで、マルタさんに、市場で人攫いだと言え」
「レイ——」
「走れ。それが一番早い」
一瞬だけ、金色の目が俺を見た。それから、ルーチェは人混みに飛び込んで、消えた。人の姿のまま。約束を守って。
えらい、と思う暇はなかった。
俺は横一歩で、男と女の子の間に入った。
*
「待ってください」
男の手が、止まった。
「なんだおまえは」
「僕はこの娘の知り合いで約束があってあちらで待っていたのですが、この場面を見まして。彼女が嫌がっているじゃないですか。……失礼ですけど、あなたは本当に彼女のお屋敷の方ですか」
男に聞いた。でも、答えてほしかったのは男じゃない。
女の子の目が、こちらを向いた。腕を引かれたまま、息を詰めた顔で。俺は見返さなかった。見返したら、初対面だとばれる。
「違う、違います。知らない人です」
何人かが、足を止めた。それだけだった。誰も、入ってこない。
男は俺を上から下まで見た。子供、と値踏みして、それから面倒くさそうな顔をした。
「……ガキが、口を挟むな」
答えなかった。
言いながら、二人目が回り込んでくる。
勝てない。三人。大人。ここは市場の袋小路。
でも、勝つ必要はない。
俺が七年で覚えたのは、勝つ方法じゃない。森で獣に出会ったとき、どうやって死なずに帰るか、だ。答えはいつも同じだった。真っ向から向かわない。
俺は女の子の手首を掴んだ。
「走れる?」
「え、」
「返事はいい。走って」
男の指が緩んだ一瞬——ちょうど、俺が背中の籠を男の膝に押し込んだ一瞬——俺たちは、人混みの中へ跳んだ。
*
背中で怒鳴り声がした。
人の川を、逆らわずに斜めに切る。荷車の陰、樽の列、干した布の下。森で獣を撒くときと、道の作り方は同じだ。相手の足より速く走るんじゃない。相手の目から、一秒だけ消え続ける。
でも、ここは森じゃない。
二本目の路地に折れたところで、俺は自分の失敗を悟った。石畳は音が響く。子供二人の足音が、壁と壁で跳ね返って、こっちですよと教えている。
背中の足音が、増えた。三人。全部来ている。
女の子の息が、もう上がっていた。走り慣れていない足だ。それも上等な走り方じゃない、と気づく暇もない。
このままだと、追いつかれる。
俺は走りながら、指を二本、口にくわえた。
思い切り、吹いた。
鋭い音が、路地の壁に跳ねて、上へ抜けた。
二回。
息を吸って、もう一度。二回。
——王都の路地は、全部つながってる。
橋の下で聞いた声が、耳の奥で鳴った。あんたが困ったら、どこかの路地でこれを吹け。二回だ。
*
最初に現れたのは、頭の上だった。
物干しの渡された二階の窓から、痩せた子が身を乗り出して、下を見た。俺の顔を見て、後ろの男たちを見て、それだけで全部わかったみたいだ。手を出して、右へ振った。
右へ。
考えずに右へ折れた。細い。大人の肩幅ぎりぎりの隙間だ。
背中で、外套の男が肩をぶつけて詰まる音がした。
隙間を抜けた先の小さな広場で、今度は下から声がした。
「にいちゃん、こっち!」
ミアだった。
壊れた樽の陰から手招きして、板塀の一枚を、内側へ押した。腐って外れかけた板が、子供一人分の幅で開いた。
「はいって。はやく」
女の子を先に押し込んで、俺も潜った。ミアが板を戻す。それから、ミアは何食わぬ顔で樽の前にしゃがんで、地面に石で落書きを始めた。
板の向こうを、足音が三つ、走り抜けていった。
誰も、地面に落書きしている小さい子を、二度見しなかった。
*
板塀の裏は、使われていない家の裏庭だった。
女の子は、膝に手をついて、肩で息をしていた。俺も似たようなものだった。しばらく、二人とも喋れなかった。
やがて、板の隙間から、ヤンの声がした。
「北の通りまで走ってったよ。うちの連中が、わざと足音立てて連れてった。あんたら、しばらくそこにいな」
「……助かった」
「あんたには借りがあるからな」
ふん、と鼻を鳴らす音。それから足音が遠ざかった。
俺は、板塀にもたれて、息を整えた。
戦わなかった。殴られてもいないし、殴ってもいない。俺がしたのは、走って、吹いて、隠れただけだ。
それで足りた。この町の路地が、全部つながっていたから。
*
女の子が、顔を上げた。
息はまだ整っていないのに、背筋が、すっと伸びた。
「……助けてくださって、感謝します」
言葉が、丁寧すぎた。
最初から、おかしいとは思っていた。上等な布の服。汚れのない靴。市場の子のふりをするために誰かが揃えた品を、身につけている本人が、いちばん分かっていない——そういう格好だった。
それに加えて、礼を言うときの背筋の伸び方が、決定的だった。
俺は気づかないふりをした。ここで詮索する義理はない。
「怪我は」
「ありません。……あなたは」
「ない。こういうことは慣れてる」
「慣れて?」
「森で、獣に追いかけられるのは、割とよくあるんで」
女の子が、まばたきをした。それから、口元を手で押さえて、小さく吹き出した。
笑うと、途端に歳相応の顔になった。
「森。……あなた、どこから来たの」
「南の方の、アシェンって町。いまは薬屋の使いっ走りをしている」
「薬屋」
「クロイター通りの、マルタさんの店。……それで君は、家に帰れるか。わからないなら送るが……」
その質問に、女の子は少しの間、答えなかった。
膝の埃を払って、崩れた髪を直して、それから、意を決したように言った。
「大丈夫。近くで迎えが、来るはずだから」
迎え。
親、とは言わなかった。
俺は、それも気づかないふりをした。
*
「あいつら、何だったんだ?」
聞くべきか迷ったけれど、聞かないと危ないと思った。
「……分からないの」
女の子は、正直に首を振った。
「本当に、分からない。私を名前で呼ばなかった。でも、私が誰か知っていて掴んだ。……そういう掴み方だった」
賢い子だ、と思った。怖かったはずなのに、掴まれた瞬間の相手の手つきを、ちゃんと覚えている。
「じゃあ、しばらく市場は一人で歩かない方がいい。……信頼できる大人と一緒なら、たぶん大丈夫だ」
「そうですね。そうします」
*
板塀の隙間から表を確かめて、大通りの手前まで送った。
別れ際、女の子は立ち止まって、振り返った。
「お名前を、聞いてもいいですか?」
「……レイ」
「レイ」
「私は——」
そこで、一拍、間があった。
ほんのわずかな、息を吸うくらいの間。
「……アーニャ」
そう言って、その子は、少しだけ困った顔をした。上手じゃない嘘だ。この子は、たぶん、嘘に慣れていない。
俺は、なんでもない顔で頷いた。
「アーニャ。覚えた」
「……ありがとう」
それから、その子は不意に、思いついたように聞いた。
「また、会えるかしら」
俺は少し考えて、正直に答えた。
「表に薬草の束が下がってる店だ。何かあったら、来てくれ」
アーニャは、目を丸くした。
それから、今日いちばん子供らしい顔で、笑った。
「じゃあ、行くわ。……必ず」
*
店に戻ると、ハンスが箒を握りしめて店先に立っていて、俺の顔を見るなり怒鳴った。
「おっせえよ! おれ、行く準備してたんだからな!」
「悪い。もう終わった」
奥から出てきたマルタさんは、俺を上から下まで見て、怪我がないのを確かめると、それだけで表情を戻した。
「妹が真っ青な顔で飛び込んできたよ。よく寄越した」
「あの子を行かせて正解でした」
「そうさ。子供が三人いて、いちばん足の速いのを伝令に出すのは正しい」
マルタさんは、そこで一度、鼻から息を吐いた。
「——明日から、使いに来た子には、その日の残りを食わせな」
「え」
「あんた、この前も自分のパンを渡してただろう。仕事は仕事、飯は飯だ。うちの使いを走った子を、腹を空かせたまま帰らせたら、あたしの沽券に関わる」
金のときと、同じだった。
台所の戸口で、ルーチェが立っていた。
泡だらけの手のまま、こっちを見て、それから何も言わずに歩いてきて、俺の腹に頭をぶつけた。
「……こわかった」
「うん」
「レイが、いなくなるかとおもった」
「悪かった」
金色の頭を、しばらく撫でた。あの一瞬、この子は竜に戻る覚悟をした。人混みの中で、市場のど真ん中で。俺のために。
それを止められたのは、走れ、と言えたからだ。
次も迷わず言えるように、俺はもっと早く決められるようにならないといけない。
*
夜、屋根裏で、俺は今日のことを頭の中の帳面に書きつけた。
外套の男が三人。人がいちばん多い時間に。子供ひとりを、名前を呼ばずに掴んだ。
狙いは、ルーチェじゃなかった。
その安心と、別の不安が、同じ場所に並んで居座っている。ルーチェが狙われる網は、まだそこにある。それとは別に、この町では、女の子が白昼堂々さらわれかける。
王都は、俺が思っていたより、ずっと物騒だ。
「レイ」
「ん」
「あのおんなのこ、どんなこ?」
そういえば、この子は結局あの子に会っていない。伝令に走って、店で待っていたから。
「……変わった子だった。走るのが下手で、礼の言い方が丁寧すぎる」
「レイも、かわってるっていわれるよ」
「よく言われる」
ルーチェは、くすくす笑って、それから急に真面目な声になった。
「こんど、あったら、においかいでいい?」
「なんで」
「レイのともだち、みんな、においおぼえたいから」
うちの姫様は、友達を鼻で覚えるらしい。ハンスのときもそうだった。
「……好きにしろ」
俺は窓の外を見た。丘の上で、城の灯りが光っていた。
あの子が誰なのかは、聞かないことにする。
路地の子たちに隠し事があるように、あの子にも隠し事がある。それを暴かなくても、友達にはなれる。それを先に教えてくれていたのは、ヤンだった。
——一回きりの金より、続く金のがいい。
商売の話のはずだったのに、俺はまた、あの理屈に助けられている。




