四人分の賄いと、しゃべりながら食べる家
四日後の昼前に、その子は本当に来た。
店先を掃いていて、ふと顔を上げた。通りの向こうから、亜麻色の髪の女の子が、まっすぐ歩いてくるところだった。
この前と同じ、地味な色の上等な服。違うのは、後ろに大人が二人ついていることだった。
少し離れて歩く、地味な身なりの男女。買い物客のふりをしているけれど、目が客の目じゃない。俺が見ているのに気づくと、二人はそれ以上近づかず、通りの向かいの軒下で足を止めた。
迎えが来る、と言っていた。あれのことか。
「レイ」
「……いらっしゃい」
「何かあったら来ていい、って言ったでしょう」
アーニャは、少し得意そうだった。約束を実行に移した子の顔だ。
「ああ、言ったな」
「……今日は、何もないのだけれど」
「なら、何もなくても客だ。うちは断らない」
*
「マルタさん。友達が来ました」
奥にそう声をかけたとき、俺は自分がずいぶん自然に「友達」と言ったことに、少し驚いた。
マルタさんは、カウンターから顔を上げて、アーニャを見た。
一秒。二秒。
その一秒か二秒の間に、この人が何を見たのか、俺には分かった気がした。立ち方だ。この人は毎日、荷を持ち込む商人と、薬を買いに来る客と、値段をごまかそうとする連中を見分けている。
でもマルタさんは、何も言わなかった。
「そうかい。ちょうどいい、もう賄いだ。あんたも食べていきな」
「え……いいんですか」
「うちは、いる人数で分ける。それだけの話さ」
いる人数で分ける。それだけの話。
アーニャの顔が、その言葉のところで、ほんの少し止まった。
*
賄いは、店の裏の台所で食べる。
卓がひとつと、長椅子が二脚。今日はそこに、四人が座った。俺、ハンス、ルーチェ、そしてアーニャ。マルタさんは立ったまま、鍋の前で食べる人だ。
今日の鍋は、豆と腸詰めの煮込みだった。
王都の豆は白くて大きい。腸詰めは端の切れっ端で、店で売れない不揃いのやつを、肉屋から安く分けてもらってくる。それを、玉ねぎと、香草と、塩と、たっぷりの時間で煮る。
湯気が、台所いっぱいに立った。
「はい、皿出しな。自分の分は自分でよそうんだよ」
ハンスが皿を配って、ルーチェが匙を並べて、俺が水を汲んだ。誰が決めたわけでもない役割分担が、この十日ほどで勝手にできていた。
アーニャは、皿を渡されて、少し戸惑った顔をした。
「……自分で、よそうんですか」
「よそうんだよ。多すぎたら怒られるぞ」
ハンスが、なぜか偉そうに言った。
アーニャは、鍋の前に立って、しばらく考えて、それから、ずいぶん控えめな量をよそった。
「少ないよ」
ルーチェが横から言った。
「そんなんじゃ、たりない」
「でも、ご迷惑では」
「たりないと、げんきでなくなる」
ルーチェは、アーニャの皿を取り上げて、勝手にもうひとすくい足した。誰の許可も取らなかった。
アーニャは、それを止められないまま、皿を受け取った。
*
席に着くとき、ハンスが思い出したように聞いた。
「そういやおまえ、名前なんての」
匙を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……アーニャ」
「アーニャな。おれはハンス。こいつの相棒」
「相棒?」
「検品はこいつ、力仕事はおれ。決まってんだ」
ずいぶん得意そうに言うので、俺は黙っておいた。ルーチェが、なぜかアーニャの顔をじっと見ていた。
*
「いただきます」
俺がそう言うと、ハンスがアーニャに向かって、なぜか得意そうに言った。
「こいつんとこの、飯の前のまじないだよ。竈の神様に言うんだと」
厳密には違う。これは前の世界の癖で、それがこの体に染みついて、孤児院の食卓でみんなに移った。院長先生は「いい習わしね」と言って、そのまま孤児院の作法になった。神様の名前は、そこには入っていない。
でも、そう説明した方が、この国では通りがいい。それに、初日に一度そう答えてから、ハンスは毎回、面倒くさそうに真似をするようになった。
「いただきます」
ハンスが先に言って、ルーチェが続けて、それから、少し遅れて、アーニャが小さな声で言った。
「……いただきます」
四人で食べ始めた。
*
うまかった。
豆はよく煮えて、匙の背で潰すと、スープを吸って甘くなる。腸詰めの端は不揃いだけれど、脂と塩気が全部そこに出ていて、黒パンで拭って食べると、それだけで一日働ける気がした。
「マルタさん、これ、何入れてるんですか」
「教えないねえ」
「ケチ」
「レシピを只でくれてやる商売人がいるかい」
「じゃあ、銅貨二枚で」
「安すぎるね」
ハンスが吹き出して、豆を喉に詰まらせて咳き込んだ。ルーチェが背中を叩いてやりながら、自分の腸詰めを一本、こっそりハンスの皿に移していた。ハンスは気づかずに咳き込んでいた。
「ルーチェ、それ、あとで自分の分がなくなるぞ」
「いいの。ハンス、きょう、はこびすぎて、つかれてる」
「え、なんで分かんの」
「においで」
ハンスが「妹、なんかこわい」と真顔で言って、ルーチェが得意げに胸を張って、マルタさんが鍋の前で「あんたら、口より手を動かしな」と言った。
いつもの賄いだった。
うるさくて、汁が飛んで、誰かが誰かの分を勝手に足したり移したりする、いつもの昼飯。
そのあいだずっと、アーニャは、ほとんど喋らなかった。
*
喋らないけれど、食べていた。
最初は匙の運びが遅かったのに、途中から、少しずつ速くなった。二杯目をよそうときには、ルーチェに言われる前に自分でちゃんとした量をよそった。パンをスープに浸す食べ方も、俺がやったのを見て、そのまま真似していた。
行儀は、正直、俺たちの誰よりも良かった。
でも、その良い行儀のまま、汁を飛ばして笑っている三人を、ずっと見ていた。
*
食べ終わって、皿を洗って、アーニャを表まで送った。
通りの向かいの軒下で、地味な身なりの二人が、まだ立っていた。
「今日、私、ずっと喋らなかったでしょう」
歩きながら、アーニャが言った。
「疲れた?」
「ううん」
少しだけ、間があった。
「聞いてたの。……みんなが、喋りながら食べるから」
俺は、返事に詰まった。
喋りながら食べる。それは俺にとって、あまりにも当たり前で、当たり前すぎて、褒め言葉にも観察にも聞こえなかった。孤児院の食堂は、十六人が一斉に喋る場所だった。うるさくて、誰かが必ずこぼして、アリア姉が必ず怒った。
あれが特別なことだとは、思ったことがなかった。
「アーニャの家は、静かなのか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
でもアーニャは、怒らなかった。ただ、通りの石畳を見ながら、ゆっくり答えた。
「静かなの。……というより」
言葉を探しているのが分かった。
「うちは、家族がそろっているの。父も、母も、姉も、妹も、兄も、みんないるわ。……卓も、ちゃんと囲むのよ。決まった日には、全員で」
「じゃあ、揃ってるんじゃ」
「揃っているわ。……誰も、喋らないだけで」
その言い方は、平らだった。
悲しそうでもなく、責めるふうでもなく、ただ事実を並べる言い方。何度も自分に言い聞かせて、角が取れてしまった言葉の形をしていた。
「食器の音しか、しないの。最初から、最後まで」
「……仲が、悪いのか」
「悪いというか。……どちらの兄さまも、優しいのよ。私たちには」
アーニャは、そこで初めて、少しだけ困った顔をした。
「どっちの兄さまも、好きなのに」
好きなのに、同じ卓で、ひとことも交わさない。
それは、想像するのが難しい話じゃなかった。七年前のアシェンにも、そういう家はいくつもあった。金のことや、土地のことや、昔の恨みで、同じ卓についても口をきかない家。
ただ、この子の場合は、そこに「家族はそろっている」がつく。
誰も欠けていないのに、揃わない。
俺の育った家は、逆だった。血の繋がりはひとつもなくて、親は誰にもいなくて、それでも毎晩、全員が同じ鍋から食べた。
「……変な話をして、ごめんなさい」
「変じゃない」
俺は、少し考えてから言った。
「うちも、そろってなかった。全員、親がいない。……でも、飯は一緒に食ってた。だから、そろってるとか、そろってないとかは、たぶん、人数の話じゃないんだと思う」
アーニャが、足を止めた。
俺を見上げて——俺の方が少し背が高い——しばらく、何も言わなかった。
それから、笑った。
この前の路地で見た、歳相応の顔だった。
「……あなた、変わってるって言われない?」
「よく言われる」
「そう。よく言われるのね」
通りの向かいで、迎えの二人が動くのが見えた。
*
「レイ」
別れ際、アーニャは一度だけ振り返って、言った。
「また来ていい?」
「いつでも。ただ、昼前に来ると賄いに間に合う」
「……昼前に着くように、計算して来るわ」
「商売人みたいだな」
「あら。褒め言葉?」
「うちでは、最上級だ」
アーニャは、声を出して笑った。それから、通りを歩いていった。二人の大人が、少し離れて後ろに続いた。
*
店に戻ると、ハンスが待ち構えていた。
「なあ、あの子、なんなんだよ」
「友達」
「そうじゃなくてさ。……なんか、変だろ。しゃべり方とか」
「そうか?」
「そうだよ。うちの母ちゃんが言うには、ああいうのは——」
「ハンス」
俺は、ハンスの言葉を止めた。
「あの子は、うちに来て飯を食っていく友達だ。それ以上は、俺も知らない」
ハンスは、口を尖らせて、それから「ふうん」と言って、荷を運びに行った。それ以上は聞いてこなかった。
この店の人間は、みんな、聞かないのがうまい。
*
夜、屋根裏で、ルーチェが言った。
「レイ。あのこ、においが、ちがう」
「ちがう?」
「なまえ、いうとき。ちょっとだけ、かわった」
竜の鼻は、嘘に利く。
「……そうか」
「でもね」
ルーチェは、毛布の中で言った。
「ごはんのときは、かわらなかった」
俺は、窓の外の城の灯りを見ながら、それを聞いた。
飯を食っているときが、いちばん、その人の素が出る。ベックさんが言っていたことだ。値切るときの顔と、飯を食う顔を見れば、大抵の人間は分かる、と。
あの子は、飯を食う顔だけ、隠していなかった。
「ルーチェ」
「ん」
「あの子、また来るってさ」
「うん。しってる」
ルーチェは、毛布の中で丸くなって、眠そうに言った。
「つぎは、おさらのならべかた、おしえてあげる」
うちの妹は、いつのまにか、教える側になっていた。




