鐘が鳴った日と、ひとつ空いた椅子
それから、アーニャは五日に一度くらいの割で店に来た。
だいたい昼前だった。ちゃんと計算して来ているらしい。俺が水を打ち終わって、ハンスが荷を運び込んで、そろそろ鍋の匂いがし始める頃。
二度目に来たとき、ルーチェが宣言通り、皿の並べ方を教えた。
「こっちが、レイ。こっちが、ハンス。ここが、マルタさん」
「あら。決まっているの」
「きまってる。ハンスはね、はしっこがすき。かべにもたれるから」
「もたれてねえよ!」
もたれていた。全員が知っていた。
三度目に来たときには、アーニャは自分から水を汲みに行った。四度目には、匙を並べる係を勝手に引き受けていた。ルーチェの領分を取られた形になって、ルーチェはしばらく不服そうにしていたが、そのうち二人でやるようになった。
喋る量も、少しずつ増えた。
といっても、自分の話はしない。家族がそろっている、と言ったあれきり、うちの話も、住んでいる場所の話も、しなかった。代わりに、質問ばかりした。
アシェンはどんな町か。森には何がいるか。どんな獣がいるか。薬草の見分け方はどうやって覚えるのか。
「レイは、なんでも知ってるのね」
「知ってるのは、森と薬草のことと、値段のことだけだ」
「充分よ。私、値段を知らないもの」
その一言に、俺は少し引っかかった。
王都に住んでいて、市場を歩いていて、パンの値段を知らない子供はいない。いるとしたら、買ったことがない子だ。
でも、俺は聞かなかった。
聞かないことにした、と決めたのは俺だ。
*
そして、五度目は、来なかった。
六日目も、七日目も。
最初は、気にしないようにした。五日に一度と決めたわけじゃない。用事もあるだろうし、そもそも「用がなくても来ていい」と言っただけで、来る約束をしたわけじゃない。
ハンスが「あいつ、最近来ねえな」と言ったのは、八日目の朝だった。
「そうだな」
「なんかしたのか、おまえ」
「してない」
「じゃあ、なんで来ねえんだよ」
俺が知りたい。
その日の午後、俺は初めて、自分があの子について何も知らないことに気づいた。
名前は知っている。たぶん偽名だ。歳は俺と同じくらい。家族が揃っていて、でも同じ食卓では食べない。迎えの大人が二人ついてくる。
住んでいる場所は、知らない。
探しようが、なかった。
*
鐘が鳴ったのは、その日の夕方だった。
最初の一つは、丘の上から鳴った。城の鐘だ。低くて、長い。
俺は棚に薬草を納める手を止めた。店の外で、通りを歩いていた人たちが、一斉に丘の方を見上げるのが、開いた戸口から見えた。
鐘が、続いた。
一つ。間があって、また一つ。同じ間隔で、何度も。
急ぐ鳴らし方じゃない。祝いの鳴らし方でもない。ゆっくり、重く、繰り返す。
「マルタさん、あれ——」
振り向いて、俺は口をつぐんだ。
マルタさんが、カウンターの前に立ち尽くしていた。手には量りの分銅を持ったまま、それを卓に置くのも忘れて、丘の方を見ていた。
この人の、そんな顔を初めて見た。
「……まさか、陛下に何か」
低い声だった。
「あの鳴らし方は、王宮で何かあったときのやつだよ」
*
夜になる前に、話は町中に広がった。
王が、倒れた。
持病の発作で寝込んで、そのまま目を覚まさない。三日前からだという。三日隠して、隠しきれなくなって、今日、公にした。
それが、クロイター通りに届いた話の全部だった。
その夜、店を閉めてから、マルタさんは俺とハンスをカウンターの前に座らせた。
「明日から、忙しくなるよ」
「王様が倒れたのに、なんで薬屋が忙しいんですか」
ハンスが聞いた。俺には、なんとなく想像がついていた。
「人が、不安になるからさ」
マルタさんは、指を三本立てた。
「最初に、王家に何かあると、宮廷が薬を大量に囲い込む。市中に回る分が減る。だから次に、人は薬を買い求める。何を買うか分からないから、とりあえず日持ちするもんと、薬を買う。最後に」
三本目の指が、少し曲がった。
「品が足りなくなると、必ず、質の悪い物が市中に出回る」
俺は、あの朝のことを思い出した。三十束のうち四束。ハクハ草に混ざったヨシバ草。あれから、店のカウンターの下の箱には、証拠が三度分溜まっている。
「増えますか」
「増えるね」
マルタさんは、はっきり言った。
「坊や。あんたの目が、いよいよ商売道具になる。……疲れたら言いな。あたしが代わるからね」
*
翌日から、店は戦場になった。
朝の開店前から人が並んだ。熱冷まし、腹下しの薬、傷薬。買う理由を聞くと、みんな「念のため」と答えた。念のために、家族の人数の三倍を買っていく。
「一人、五つまでだよ!」
マルタさんが怒鳴った。
「そんな、うちは子供が——」
「五つで足りない家は、明日また来な。今日ここで全部売っちまったら、明日来る人の分がなくなるんだよ」
文句を言う客もいた。隣の店の方が多く売ってくれる、と言う人もいた。マルタさんは「じゃあそっちで買いな」と言って、次の客を呼んだ。
昼を過ぎる頃には、棚がずいぶん寂しくなっていた。
商会からの荷は、その日のうちに三度来た。普段の三倍だ。ハンスが袋を開けて、俺が検める。
二度目の荷で、俺の手が止まった。
束の中で、何本かだけ、根が短い。
ヨシバ草の根は、甘い匂いがする。だから鼻で分かる——はずだった。その根が、匂いごと、短く切り落としてある。
鑑定を通す。——ヨシバ草。見立ては、当たっていた。
「マルタさん」
束を持って行くと、マルタさんは客をハンスに任せて、奥へ来た。
束を受け取って、根元の切り口を親指で撫でて、それから、目を細めた。
「……切ってあるね。匂いも、飛ばしてある」
「これ、ハクハ草じゃないですよね」
「ヨシバ草だ。手口は前と同じ。……仕事が、前より丁寧になってる」
束を裏返して、荷札を確かめる。前とは違う商会の印だった。
「今月で四度目。……いや」
マルタさんは、そこで言い直した。
「今日で四度目、と言うべきだね」
この一日で、一度。前は月に三度だった。
網が、狭くなってきている。
*
その日の賄いは、日が暮れてからになった。
立ったまま食べようとしたら、マルタさんに怒られた。
「座りな。スープがこぼれる」
「でも、まだ荷が」
「いいから座って食え。こういう日こそ、ちゃんと食うんだよ」
鍋は、いつもの豆の煮込みだった。忙しくても、この人は鍋だけは手を抜かない。台所の火は朝から落とさずに、合間合間にかき混ぜていたらしい。
四人が座る卓に、三人が座った。
匙は、四本並んでいた。ルーチェが、いつもの癖で並べたまま、気づいて、手を止めていた。
「……いっこ、いらなかった」
「そのままでいい」
俺がそう言うと、ルーチェは黙って頷いて、四本目の匙をそのままにした。
誰も、そのことに触れなかった。ハンスも、マルタさんも。
*
夜、屋根裏の窓辺で、今日起きたことを考えた。
王が倒れた。薬が足りなくなった。偽物が増えた。ここまでは、順番として自然だ。不安につけこむ商売は、どこの世界にもある。
でも。
なんで、こんなに手際がいいんだろう。
王が倒れたのは四日前で、公になったのは昨日だ。その翌日には、もう偽物が荷に混ざっている。準備なしにできることじゃない。
誰かが、今日この日を、待っていた。
「レイ」
膝に顎を乗せていたルーチェが、顔を上げた。
「あのこ、だいじょうぶかな」
思っていたのに、自分からは言えなかったことを、この子が先に言った。
「……分からない」
「さがせない?」
「どこに住んでるか、聞いてないんだ」
情けない話だった。何度も飯を食って、皿の並べ方まで教えて、住んでいる場所を知らない。
でも、聞かないと決めたのは俺だ。決めた以上、その報いも俺のものだ。
「レイ」
「ん」
「あのこ、いえのはなし、しなかったね」
「うん」
「でも、うちのごはんのはなし、いっぱいきいてた」
ルーチェは、毛布に顎を埋めて、目を細めた。
「はなしたくないことがあるこは、はなさないんだよ」
うちの姫様が、そんなことを言った。
この子は、生まれてからずっと、うちの食卓しか知らない。だからこそ、うちの食卓を欲しがる顔が、よく見えるんだろう。
*
窓の外で、丘の上の城が、いつもより明るかった。
灯りが、消えていない。夜中まで、たくさんの窓が光っている。眠っていない人が、あの建物の中に、たくさんいるということだ。
王が眠って、城が眠らない。
どこかの家では、今夜も、家族が揃っているのに同じ食卓に座らない食事が出されているんだろうか。
ふと、そう思って、俺は自分の考えの向かった先に、ほんの少しだけ、引っかかった。
引っかかったものの形が分からないまま、俺は窓を閉めた。
明日も店は開いて、荷が来て、偽物は混ざるだろう。俺にできるのは、匂いを嗅いで、切り口を見て、判別することだけだ。
それでも、それは「何もできない」とは違う。
ベックさんが言っていた。品の値打ちを、自分が知ってろ。
俺の値打ちは、たぶん、今日みたいな日のためにある。




