本当の名前と、効かない薬
十二日ぶりに、その子は来た。
昼前ではなく、店じまいの時間だった。俺が表の薬草の束を取り込んでいたら、通りの端に、見覚えのある亜麻色の髪が立っていた。
「アーニャ」
呼んで、俺は言葉を切った。
顔色が、悪かった。目の下が黒くて、頬がこけて、十二日でこんなに変わるのかと思うくらい、痩せて見えた。
後ろの二人は、いつもより近くに立っていた。もう隠す気がないみたいに、まっすぐこちらを見ている。
「……レイ」
声も、かすれていた。
「話が、あるの」
*
店の裏の台所に通した。マルタさんは、客用の椅子を出して、湯を沸かして、香草の茶を一杯だけ淹れると、それから何も言わずに、ハンスとルーチェを連れて表へ出て行った。
あの人は、必要なときに、必要なだけ席を外せる人だ。
アーニャは、椅子に座って、湯気の立つ木のコップを両手で持って、しばらく黙っていた。
俺は、急かさなかった。急かして出てくる話じゃないのは、顔を見れば分かった。
やがて、その子は、言った。
「父が、目を覚まさないの」
「アーニャのお父さんが……」
言いかけて、四日前の鐘を思い出した。
「……王様も、あれから目を覚まさないって。町では、その話で——」
「その王様が、私の父なの」
コップを持つ手が、震えていた。
台所が、静かになった。
鍋の火は落としてある。表からハンスの声が遠く聞こえて、それも、すぐに小さくなった。
俺は、自分の心臓の音が、やけにはっきり聞こえるのを聞いていた。
*
アーニャは、コップを卓に置いた。
それから、背筋を伸ばした。この前、路地で見た伸ばし方だった。あのとき「市場のものじゃない」と思った、あの背骨の使い方。
「ちゃんと、名乗るわ」
そう言って、その子は、俺の目を見た。
「ヴィオラ・エーデルガルト・フォン・リンデンハルト」
長かった。
名前というより、読み上げるものだった。何かの証書に書かれていて、式典で誰かが読み上げて、それを聞いた人たちが頭を下げる、そういう種類の音の連なり。
俺が七年間で覚えたどの名前とも、長さが違った。
「……この国の第二王女」
俺は、しばらく、何も言えなかった。
驚いてはいた。ちゃんと驚いていた。でも、驚きの下に、別の感触があった。
値段を知らない子。迎えの大人が二人つく子。家族が揃っているのに、全員で囲む食卓がない家の子。名前を大事に扱う癖のある子。名乗る前に、一拍、息を吸った子。
全部、そこにあった。
俺は見ていた。見ていて、見ないことにしていた。
「……アーニャは」
「偽名。とっさに、思いつかなくて。乳母の名前を借りたの」
「そうですか」
「怒らない?」
その聞き方が、あんまり子供だったので、俺は少しだけ笑ってしまった。
「怒りませんよ。僕にも、言ってないことがあるので」
言ってから、しまった、と思った。
でもヴィオラは、そこを掘らなかった。ただ、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
*
「それで」
俺は、椅子を引いて、座り直した。
背筋を伸ばした。商売の顔をした。ベックさんの店で角を売ったときと、同じ顔だ。
「王様の薬の話を、聞かせてください」
ヴィオラが、目を見開いた。
「……あなた、私が誰か聞いても」
「聞きました。第二王女ヴィオラ様、ですよね」
「様は、やめて」
「じゃあ、ヴィオラ」
あっさり呼び捨てにすると、その子は、ぽかんとした顔をした。
「……喋り方も」
「え」
「今まで通りで、いいわ。……その方が、聞きやすいから」
それなら、と俺は肩の力を抜いた。敬語は、三日ももたない自信があった。
「俺にできることは、たぶん、薬の話だけだ。身分の話をしても、王様の目は覚めない」
しばらくの間があって、それから、ヴィオラは笑った。
泣きそうな笑い方だった。
「……そう。そうよね」
「ああ」
「あなた、本当に変わってるわ」
「よく言われる」
*
話は、こうだった。
王には、若い頃からの持病がある。年に何度か、胸を押さえて倒れる。長く続く発作で、そのたびに侍医が調合した薬を飲み、数日寝込んで、また起きてくる。もう二十年、そうやって付き合ってきた。
今回も、最初は同じだった。
いつもの発作。いつもの薬。
なのに、目を覚まさなかった。
「侍医は、何と」
「歳のせいだ、と。……でも、父はまだ四十六よ。去年の発作のときは、三日で起きたわ」
「薬は、いつもと同じものか」
「同じもののはずよ。同じ商会が持ってきたもの」
俺の指が、卓の上で、勝手に止まった。
全部同じで、結果だけが違う。
商売で、そういう話を聞いたことがある。オスカルさんの店だ。「同じ値で仕入れたのに、今年だけ利が薄い」と言って帳面を持ってきた行商がいた。答えは簡単で、仕入れた品の質が落ちていた。中身が、いつのまにか変わっていたのだ。
「ヴィオラ」
「なに」
「その薬、俺に見せてもらうことは」
言ってから、無理だと思った。王の薬だ。子供が見られるものじゃない。
でもヴィオラは、少しの間、じっと考えて——それから、懐に手を入れて、小さな革袋を出した。
袋の紐をほどいて、薄い紙包みを、卓に置いた。
「持ってきたわ」
「え」
「あなたに会いに来るなら、これを見せようと思って。……煎じ薬の、残りかす。侍医の部屋の、捨てる桶から拾ったの」
俺は、その子の顔を見た。
王女が、自分の手で、捨てる桶を漁った。
「……お行儀が悪いって、思う?」
「いや」
俺は首を振った。
「いい手だと思う。捨てたものは、隠されないから」
それから、通りの向かいが気になった。地味な身なりの二人は、いつもの軒下に立っている。
「あの人たちは、いいのか」
「あの二人は、乳母の家の者よ。私が生まれる前から仕えている家なの」
ヴィオラは、包みの方を見たまま言った。
「今日は、乳母の家へ行くことになっているの。……あの二人にも、この包みのことは言っていないわ」
「言えないのか」
「もし、誰かが父さまの薬に細工をしたのなら——それができるのは、城の中の人だもの」
静かな声だった。
「誰なら信じていいのか、まだ、分からないの」
*
包みを開いた。
煎じたあとの、しなびた草の切れ端。色は抜けて、匂いはほとんど飛んでいる。それでも、俺は顔を近づけた。
匂いを吸う。切り口を見る。指で潰して、繊維の折れ方を見る。
鑑定を、かけた。
【煎じかす(複数種混合)】
※鑑定Lv不足のため詳細不明
それだけだった。
煎じて、乾いて、水を吸って形の崩れた草に、鑑定はうまく効かない。七年かけて読めるようになったのは、生きた草の話だ。死んだ草は、名前を返してくれない。
だから、目で見た。
「……これ、何種類か混ざってる」
「処方は七種だと聞いたわ」
「七種類ぜんぶは分からない。煎じたあとだと、香りの弱いものは飛んでしまうから」
俺は、そのうちの一片を、指でつまみ上げた。
細い茎。節のところが、わずかに角ばっている。
似ている。似ているけれど、違う。
「ただ、一つだけ、気になるのがある」
「なに?」
「これ、たぶん、胸の発作に使う草じゃない」
台所が、静かになった。
「俺の師匠の店に、同じ形の草が二つ並んでた。片方は胸の発作に効いて、片方は——」
俺は、言葉を選んだ。
「片方は、眠りを深くする草だ。少しなら、寝つきの悪い人の薬になる。でも量が多いと、深く眠りすぎて、起きられなくなる」
ヴィオラの、顔から、色が引いた。
「……それは」
「断言はできない。煎じかすだ。乾かして、煮て、水を吸って、形が崩れてる。俺は薬師じゃないし、これだけで決めつけるのは危ない」
「でも、あなたは、そう思ったのね」
「思った」
俺は、正直に言った。
「この節の角ばり方は、七年見てきた形だ。オスカルさんの店で、この二つを何百回も並べて覚えた。間違えたら人が死ぬから、って」
ヴィオラは、卓の上の草の切れ端を、じっと見ていた。
小さかった。指の先ほどの、乾いた草の屑だ。
その屑が、この国でいちばん高いところで眠っている人と、繋がっている。
*
「……誰かが」
ヴィオラの声が、震えた。
「誰かが、父を、眠らせているの?」
「分からない」
「レイ」
「本当に、分からないんだ」
俺は、卓に手をついた。
「間違いだった可能性もある。薬師が草を取り違えた。商会が荷を間違えた。乾かした草は本当に見分けにくいから、事故は起きる。……でも」
言葉を、飲み込んで、それから続けた。
「うちの店では、今月、四度、偽物が混ざった。全部、同じ手口だ。似た草を、似た草に混ぜる。素人には分からない、玄人が見れば分かる、その境目を狙った混ぜ方だ」
「……四度」
「王都中で、同じことが起きてる。薬の値が上がって、質が落ちて、その中に、混ざりものが流れてる」
俺は、息を吸った。
「もし、その流れの一番奥に王宮があるなら」
言い切らなかった。言い切れる立場じゃない。
でも、ヴィオラには伝わった。この子は、賢い。
「証拠が、いるのね」
「ああ」
「私が、集めればいい?」
「駄目だ」
即答した。
ヴィオラが、驚いた顔をした。
「なぜ」
「ヴィオラが動くと、相手に分かるからだ」
俺は、卓の上の草を、慎重に紙に包み直した。
「王女様が薬を調べ始めた。それが伝われば、証拠は消える。桶の中身も、荷の記録も、明日には全部きれいになる。……もし本当に誰かがやっているなら、その誰かは、たぶん、宮廷の中にいる」
ヴィオラの手が、膝の上で、きつく握られた。
「じゃあ、どうすればいいの」
「集めるのは、俺がやる」
俺は、包みを鞄にしまった。
「薬草の偽物の記録なら、うちの店に四度分、溜まってる。それに、これを足す」
「危なくないの」
「俺は、ただの薬屋の使いっ走りだ。子供が荷の文句を言っても、誰も気にしない」
そこが、いちばん強い場所だった。
F級のくせに、と侮られる。子供のくせに、と流される。俺の身分は、この七年、ずっと同じ役に立ってきた。目立たないことは、俺にとって利益だ。
*
「あと、ひとつだけ、頼みがある」
「なに?」
「監察庁に、話を通す。ヴェルナーさんという人がいて、俺の師匠の紹介状を持ってる。あの人は、証拠が揃うまで動かない代わりに、揃えば必ず動く人だ」
ヴィオラの目が、わずかに動いた。
「監察庁……父の、直属の」
「知ってるのか」
「宰相の下にない役所は、あそこだけよ。父が、そう作ったの」
王が作った、王直属の中立機関。
その意味が、今、はっきりした。王は、自分の宮廷を、完全には信じていなかった。だから、誰の下にも置かない目を、一つだけ手元に残した。
その目が、今、必要になっている。
「なら、話が早い」
*
表まで送った。
通りはもう暗くて、迎えの二人が、灯りを持って待っていた。
ヴィオラは、店の戸口で立ち止まって、振り返った。
「レイ」
「ん」
「私、あなたに嘘をついていたわ。ずっと」
「ああ」
「怒らないの?」
「二度目だぞ、その質問」
ヴィオラは、少し笑った。それから、真面目な顔になった。
「私が誰か分かって、態度を変えないのね」
「変える意味が、思いつかない」
「……ふつうは、変わるのよ」
「そうかもな」
俺は、少し考えて、言った。
「でも、うちの卓では、みんな同じ鍋から食べる。誰が来ても、いる人数で分けるだけだ。マルタさんが、そう言ってただろ」
ヴィオラの目が、揺れた。
その一言が、この子にとってどれだけ重いのか、俺はまだ、半分も分かっていなかったと思う。
家族が揃っているのに、全員で囲む食卓がない子。
その子が、うちの賄いの椅子に、四人目として座っていた。
「……また、行ってもいい?」
「いつでも。昼前に来ると賄いに間に合う」
「覚えてる。……今度は、かならず行くわ」
ヴィオラは、灯りの方へ歩き出して、それから、もう一度だけ振り返った。
「レイ」
「ん」
「ありがとう。……名前を、呼んでくれて」
俺は、その意味を、少し遅れて理解した。
あの長い名前を読み上げたあと、俺が呼んだのは「ヴィオラ」だった。三つの節のうち、いちばん短い、いちばん最初の一つだけ。
様も、家名もつけずに。
ヴィオラは、少しだけ迷ってから、付け足した。
「あと。……親しい人は、ヴィオって呼ぶの」
それだけ言って、返事も待たずに、灯りの方へ歩いていった。
迎えの二人が、その後ろに続いた。
俺は、暗くなった通りに、しばらく立っていた。
親しい人は。
——ずいぶん、遠回りな言い方をする子だ。
*
店に戻ると、マルタさんがカウンターで待っていた。
ハンスとルーチェは、もう奥に行かせたらしい。
「話は、済んだかい」
「済みました」
「そうかい」
マルタさんは、それ以上聞かなかった。代わりに、カウンターの下の箱を開けて、鍵をかけた紐を外した。
中には、四度分の偽物の束と、帳面が一冊。それに、紐で束ねた荷札が入っていた。
「持っていくんだろう。あの、笑わない狐のところへ」
俺は、驚いて顔を上げた。
「……なんで」
「あんたの顔に書いてあるよ」
マルタさんは、束を一つずつ、丁寧に紙に包み直しながら言った。
「証拠は貯めるもんだ、って言ったのは、あたしだ。貯めるのは、使う日が来るからさ」
帳面を開くと、荷が入った日、商会の名前、荷札の番号、束の数、混ざっていた草の種類が、一行ずつ並んでいた。四度分。
四行目は、鐘の翌日の荷だ。商会の名前。荷札の番号。三十束のうち四束。ハクハ草にヨシバ草。行の終わりに、一言だけ添えてあった。——根を切り、匂いを飛ばしてあり。
「見つけた日のうちに、書く。三日も経つと、人の記憶は形が変わるからね」
「束だけ持っていっても、ただの枯れ草だよ」
マルタさんは、荷札の束を、帳面の間に挟んだ。
「いつ、どこから、いくつ来たか。それが揃って、初めて証拠になる。……役所ってのは、物より紙を信じる連中さ」
それから、マルタさんはカウンターの引き出しを開けて、封をした紙を一枚出した。
「これも一緒に持っていきな」
「……手紙、ですか」
「添え状さ。あんたが子供だからね。子供が持ってきたってだけで、話半分に聞く役人もいる」
封の表には、何も書いていなかった。宛名も、差出人も。
「マルタさん、これ——」
「読んだら燃やせと書いてある」
マルタさんは、それを帳面の間に挟んだ。
「あの狐なら、ちゃんと燃やすよ」
包みが、四つ。帳面が、一冊。封書が、一通。俺の鞄の中の、五つ目と合わせて。
「マルタさん」
「なんだい」
「危ないかもしれません」
「知ってるよ」
あっさりしたものだった。
「薬の偽物は、人を殺す。……あたしは、そう言ったはずだよ」
この人は、最初から、覚悟の上でここにいた。
*
夜、屋根裏で、ルーチェが聞いた。
「あのこ、なまえ、ほんとうのやつ、いった?」
「言った」
「ふうん。……においは?」
俺は、思い返した。
あの子が長い名前を読み上げたとき、匂いが変わったかどうか。
「変わらなかったと思う」
「じゃあ、ほんとうだ」
ルーチェは、それだけ言って、満足そうに目を閉じた。
うちの姫様は、身分には興味がない。嘘か本当かにしか、鼻が利かない。
窓の外で、丘の上の城が、今夜も眠らずに光っていた。
あの灯りのどこかで、王が眠っている。眠らされている、かもしれない。
俺の鞄の中には、ヴィオラが持ってきた草の屑と、四つの包みがある。
明日、官庁通りへ行く。




