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捨てられた転生者、金色の竜と旅に出る〜時空間チートで巡る、帰る場所のある旅路〜  作者: mizu
第二章 王都クローネ

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18/20

幕間 ヴィオラの心情 おいしい、と言える場所

鏡の前で、市井の子の服を脱いだ。


 この服だけは、着替えるのも自分でする。侍女を呼べば早いけれど、それでは着替えたことにならない気がした。


 最初のころは、うまくできなかった。背中の紐がほどけなくて、腕を後ろに回したまま、しばらく固まっていたこともある。自分の服の脱ぎ方を知らないということが、あのときは少し怖かった。


 地味な色の上着と、膝の丈のスカート。どちらも仕立てのいい布でできていることに、わたしはずっと気づいていなかった。誰かが揃えてくれた町の子の服を着て、わたしは町の子のつもりでいた。


 彼は、たぶん、最初から気づいていた。


 それなのに、一度も聞かなかった。


 今日、わたしは本当の名前を言った。彼は目を丸くして、それから、姿勢を正して、様をつけて呼んだ。それがどうしても嫌で、わたしは自分から言った。今まで通りで、いいわ、と。


 言い終わったあとで、心臓が鳴っていた。断られたらどうしよう、と思っていた。



 城の食堂には、長い机がある。


 端から端まで、大人が十人並んでも余るくらいの机で、その上に、白い布がかかっている。わたしの席は、入口から数えて三つ目。生まれたときから、そこだと決まっている。


 給仕の者が皿を置いて、下げていく。次の皿が来る。その繰り返し。


 おいしい、と言ったことはある。給仕の者は、恐れ入ります、調理した者にお伝えします、と言って頭を下げた。それだけだった。


 伝わったのかどうかは、分からない。伝わったとして、その人がどんな顔をしたのかも、分からない。食べ物の話は、相手がいて初めて成り立つのだと思う。長い机の向かいには、誰もいない。


 パンは、切り分けられて出てくる。白くて、やわらかくて、耳まで軽い。銀の器に載って、わたしの右手のところに、ひとつだけ置かれる。


 スープの皿を、パンで拭ってはいけない。食べ終わった皿は、何も言わずに下げられる。


 父は執務が長いので、めったに来ない。母さまは、ご自分の宮で召し上がる。兄さまたちは、それぞれ別の時間に食べる。上の兄さまと下の兄さまが同じ部屋にいると、空気が固くなるからだ。姉さまは嫁ぐ支度で忙しく、妹はまだ小さくて、乳母の部屋で食べている。


 だからたいてい、長い机には、わたしひとりが座っている。


 わたしの席は、いつも同じ場所にある。誰も座らない席も、いつも同じ場所にある。



 わたしが城の外に出るとき、それは視察と呼ばれる。


 王女が市中の暮らしを知るのは務めのうちだ、と教育係は言う。立派な言い方だと思う。


 継承の順から遠い娘は、王宮にとって、どこにいても差し支えがない。半日いなくても、誰も探さない。それを寂しいと思ったことは、あまりない。おかげで、わたしは門をくぐれる。


 供の二人は、親衛隊から付けられている。どちらも乳母の家の者だ。わたしが生まれる前から仕えている家で、二人ともわたしの我儘に慣れている。


 外に出られるようになったのは、春からだ。最初のうちは馬車の窓から通りを眺めるだけで、降りることは許されなかった。夏の初めに、初めて自分の足で市場を歩いた。供の二人は、わたしが言うたびに、少しずつ距離を空けてくれるようになった。


 ——あの日、二人がずいぶん後ろにいたのは、そのせいだ。


 アーニャという名前を借りたのは、咄嗟だった。あの日、名を聞かれて、頭の中が真っ白になって、口から出たのがその名前だった。


 でも、咄嗟に出てくる名前というのは、たぶん、いちばん近くにいた人の名前なのだと思う。



 あの日、わたしは市場にいた。


 人が値段の話をしているのを、あんなに近くで聞いたのは初めてだった。この卵は昨日より高い、それなら明日にする、明日は安いのか、そんなことは分からない。分からないまま、みんな笑っていた。


 城の中では、分からないことを、分からないまま話す人はいない。答えが出ないまま笑って終わる話を、わたしは知らなかった。それが不思議で、面白かった。


 そのあと、わたしは腕を掴まれた。掴まれた腕が痛くて思わず叫んでしまった。


 そして助けに来たのは、薬屋で働いている男の子だった。彼は走るのが速くて、路地の曲がり方を知っていた。わたしは走り慣れていなくて、途中から、ほとんど引きずられていた。


 助かったあとで、彼は謝った。


 わたしを助けた人が、わたしに謝った。それが、その日いちばん驚いたことだった。



 次に行ったとき、わたしはお店の台所に通された。


 賄いというものを、あの日初めて食べた。大きな鍋がひとつ、机の真ん中に置かれていて、それを四人で分けた。わたしと、彼と、彼の妹と、店の一番弟子の子。


 鍋の横に、黒いパンが積んであった。


 硬くて、大きくて、切り分けられていなかった。わたしはそれをどうしていいか分からずに、端を少しだけちぎって、口に入れた。硬くて、そのうえ酸っぱかった。噛んでもなかなか小さくならなくて、酸味だけが口の中に残った。


 そのとき、彼が、自分のパンをスープに浸した。


 わざとらしくもなく、こちらを見もせずに、ただそうやって食べてみせた。わたしは真似をした。スープを吸ったパンは、やわらかくなっていた。さっきの酸っぱさが、豆の甘さと肉の塩気に溶けて、別の食べ物になっていた。


 おいしい、と言った。


 店の女主人は、当たり前だろう、という顔をした。一番弟子の子は、マルタさんの豆は王都一だと言い張って、彼と言い合いを始めた。彼の妹は、そのあいだも、ずっと食べていた。


 わたしの言葉に、誰かが返してくれた。それだけのことが、あんなに嬉しいとは思わなかった。


 店の女主人は、うちはいる人数で分ける、それだけの話さ、と言った。人数で分ける。だから四人なら四つ。長い机に、誰も座らない席が並ぶことはない。


 あのとき、わたしの顔は、たぶん止まっていたと思う。


 彼は気づいていた。わたしが黒いパンを知らないことも、走り方がおかしいことも、靴が汚れていないことも、全部気づいていた。


 それでも、何も聞かなかった。


 身分を隠せていたから通えたのではなかった。隠せていないのに追い出されなかったから、わたしはあの店に通ったのだ。



 父は、まだ目を覚まさない。


 侍医は歳のせいだと言う。父はまだ四十六で、去年の発作のときは三日で起きた。誰も、そのことを口にしない。


 城の中に、父を眠らせている人がいる。わたしはそう思っている。思っているけれど、わたしが調べれば、その日のうちに相手に伝わる。わたしが動くということは、こちらが気づいたと教えることだ。証拠は、その前に消える。


 だから、外の人に頼るしかなかった。


 薬屋の男の子に、父の薬のことを話した。話しながら、わたしは自分を少し嫌いになった。友達だと思っていた相手に、こんなことを持ち込んでいる。


 彼は、真顔になって、包みを受け取った。草の切れ端に顔を近づけて、長いこと黙っていた。それから、これは胸の発作に使う草じゃない、と言った。断言はできない、とも言った。


 その、断言はできない、が、わたしには何より信用できた。


 わたしは、泣かなかったと思う。たぶん。



 窓を開けると、城下の灯りが見える。


 丘の上からは、一つひとつの家は見えない。ただ、細かい光がたくさん散らばっていて、そのどれかが、あの店の屋根裏だ。屋根裏には、窓が小さく開いていて、そこから城が見えるのだと彼が言っていた。


 わたしからは見えなくて、彼からは見える。それが、少しだけ悔しい。


 明日も、わたしはあの通りへ行く。長い名前を置いて、アーニャとして。彼はきっと、今まで通りに呼ぶ。


 わたしの家には、囲む食卓がない。


 あの家には、椅子が四つある。


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