証拠が揃った日と、笑わない狐
官庁通りは、朝から静かだった。
市場のほうから聞こえてくる声が、この通りに入った途端、遠くなる。石畳の目地まで揃っていて、履き物の音がやけに響いた。働いている人の数は多いのに、誰も無駄口を叩かない。そういう静けさだった。
俺は、鞄の紐を握り直した。
中には、五つの包みと、帳面が一冊。マルタさんが夜のうちに包み直した四つと、ヴィオラの持ってきた煎じかす。それに、四度分の記録と荷札。
「レイ」
角の柱の陰から、声がした。
ヤンだった。壁にもたれて、腕を組んで、まるでそこが自分の家の玄関みたいな顔で立っている。
「なんでここにいるんだ」
「見張り」
「頼んでない」
「頼まれてねえよ」
ヤンは、鼻の頭を掻いた。
「昨日、ミアが言ってた。前に追われてた、いいとこの子が、あんたの店に来たって。……で、今朝、あんたが鞄抱えて官庁通りに歩いてった」
「それだけで」
「あの子を追ってたの、そこらのごろつきじゃないだろ。それだけで充分だ」
路地の子は、こういうところが早い。
「危ないことすんなら、逃げ道くらい知っとけよ」
ヤンは、顎で通りの先を指した。
「あの角、二本目を右。突き当たりの塀、下に穴がある。犬ぐらいしか通れねえけど、あんたなら通れる」
「……犬扱いか」
「褒めてんだよ」
ヤンは、それだけ言って、また柱の陰に引っ込んだ。
王都に来て、ひと月と少し。俺の逃げ道を用意する子が、もういる。
*
監察庁の建物は、二度目でも、やっぱり大きかった。
門番に、薬師ギルドの使いの札を見せた。それから、銅色のカードを出した。門番は見習いの刻印を見て、俺の顔を見た。子供が官庁に何の用だ、という顔だ。
「ヴェルナー様に、お会いしたいのですが」
「約束は」
「ありません。ですが、前に一度、登録していただいています。アシェンのレイと申します」
門番は、少し考えて、奥に引っ込んだ。
しばらくして、戻ってきた門番の態度が、微妙に変わっていた。
「通れ」
名前が通っている。それが、どういうことなのか、俺はまだよく分かっていなかった。
*
ヴェルナーさんは、前と同じ部屋にいた。
書類の山と、埃ひとつない机。目だけが動いて、口元は動かない。マルタさんが「笑わない狐」と呼ぶのが、二度目でよく分かった。
「早かったな」
挨拶より先に、それが来た。
「え」
「証拠が揃ったら持ってこいと言ったのは、ひと月前だ。子供が半年かけて集めるものだと思っていた」
ヴェルナーさんは、向かいの椅子に目をやった。座れ、ということらしい。
「それで、何を持ってきた」
俺は、鞄から包みを出して、机に並べた。
一つ、二つ、三つ、四つ。それから、帳面を開いて、その横に置いた。
「うちの店に入った、偽物の薬草です。今月の四度分。……こっちが、記録です。荷が入った日、商会の名前、荷札の番号、束の数、混ざっていた草の種類。荷札そのものも、間に挟んであります」
ヴェルナーさんの指が、包みの一つを開いた。
中の束を、指でほぐす。光にかざす。折る。
薬師じゃないのに、手つきが素人じゃなかった。
「ハクハ草に、ヨシバ草」
「はい」
「見分けは」
「いつもなら、根の切り口と匂いで分かります。ヨシバは根が甘いので。……ですが今回の束は、根が短く切ってありました。匂いも、飛ぶまで乾かしてあります」
「では、なぜ分かった」
「触ったからです」
俺は、正直に答えた。
「葉の裏の毛の向きです。ハクハは葉先に向かって寝ていて、ヨシバは根元に向かって立ちます。乾かすと、目ではほとんど分かりません。指で撫でて、引っかかったので」
言いながら、背中が冷えた。根を切って、匂いを飛ばして出してきた。前の三度より、確実に丁寧になっている。
ヴェルナーさんは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、初めて、机の紙にゆっくりと何かを書いた。
「同じ手口が、四度」
「はい。別々の商会です。でも、混ぜ方が同じでした」
「同じ、とは」
俺は、言葉を選んだ。ここは、間違えたくなかった。
「素人には分からなくて、玄人が見れば分かる、その境目を狙って混ぜてあります。……たぶん、混ぜているのは、薬草のことを知っている人です」
ヴェルナーさんの手が、止まった。
「続けなさい」
「量も、一定でした。三十束に四束。多すぎると、荷ごと突き返されます。少なすぎると、混ぜる意味がない。四度とも、その割合でした」
紙を走る音が、少し速くなった。
「商会は別々。手口は同じ。割合も同じ」
ヴェルナーさんは、顔を上げずに言った。
「——では、四つの商会が、それぞれ勝手に思いついた手口ではないな」
俺も、そう思っていた。思っていたけれど、口には出せなかった。子供の憶測で人を疑うのが、どれだけ危ないかは知っている。
「荷が分かれる前の場所か、あるいは、四つの商会に同じ指図を出せる者だ。……仕入れの上流に、共通する誰かがいる」
「……はい」
「よく持ってきた」
ヴェルナーさんは、そこで初めて、俺を見た。
「これは、証拠になり得る。……だが、まだ少し足りない」
*
俺は、鞄に手を入れたまま、少しの間、迷った。
五つ目の包みがある。
これを出せば、話が薬草から離れる。王の薬の話になる。ヴィオラの話になる。あの子を巻き込まないために俺が集めると言ったのに、ここで名前を出せば、意味がなくなる。
でも、出さなければ、王は眠ったままだ。
「ヴェルナーさん」
「なんだ」
「もう一つ、あります。……ただ、これを出す前に、聞いてもいいですか」
「言ってみなさい」
「今からこの部屋で聞いたことは、この部屋から漏れることはありますか」
ヴェルナーさんの目が、細くなった。
怒ったのかと思った。子供が役人に、口の堅さを聞いたのだ。
「監察庁は、宰相の下にない」
ヴェルナーさんは、静かに言った。
「陛下が、そう作られた。誰の顔色も窺わずに済むように、と。……この部屋で聞いたことを外へ出すかどうかは、私が決める。そして私が報告する相手は、陛下だけだ」
その陛下が、眠っている。
俺は、五つ目の包みを、机に置いた。
「これは、陛下の煎じ薬の、残りかすです」
部屋の空気が、変わった。
ヴェルナーさんは、包みに手を伸ばさなかった。伸ばさずに、俺の顔を、長く見た。
「……どこで手に入れた」
「言えません」
「レイ」
初めて、名前で呼ばれた。
「言えません」
もう一度、言った。声が震えなければいい、と思った。
「ヴェルナーさんが動いたと相手に知られたら、証拠を消されます。桶の中身も、荷の記録も、明日には残っていないかもしれません」
一度、息を整えた。
「……出所は、今は言えません。これを持ち出した人を守りたいんです。記録には、僕が持ち込んだとだけ書いてください。それでお願いします」
長い沈黙があった。
ヴェルナーさんは、それから、包みを開いた。
中の草の屑を、指でつまみ上げる。かざす。潰す。においを嗅ぐ。俺と同じ手順を、俺より速くやった。
「……お前は、これを何だと見た」
「胸の発作の薬に、眠りを深くする草が混ざっていると思いました。断言はできません。煎じたあとなので」
「根拠は」
「節の角ばりです。オスカルさんの店で、その二つを何百回も並べて覚えました。間違えたら人が死ぬから、と言われて」
ヴェルナーさんは、草の屑を、慎重に紙に戻した。
それから、立ち上がって、窓の外を見た。丘の上に、城が見えた。
「オスカルの手紙にな」
背中を向けたまま、ヴェルナーさんが言った。
「あいつは、こう書いてきた。『アシェンの良心が、答え合わせの旅に出る。力を貸してやってくれ』——ずいぶん大きく出たものだと思った。田舎の薬屋が、弟子を売り込むにも程がある、と」
「……あの人は、大げさなので」
「私もそう思った」
ヴェルナーさんは、振り返った。
「今日まではな」
*
それからの話は、速かった。
ヴェルナーさんは、四つの包みそれぞれについて、納めた日、商会名、荷の番号を書き取った。帳面を開いたときだけ、ペンが止まった。
「マルタの字だな」
「……ご存じでしたか」
「薬師ギルドの世話役だ。知らないほうがどうかしている」
ヴェルナーさんは、頁を繰った。
「四度分、書式が同じだ。あとから書き足したものじゃない。……最初から、使う日を見込んで書いている」
それから、顔を上げずに続けた。
「本人が持ってこない理由も、分かる」
「え」
「ギルドの内側にいる人間が役所に駆け込めば、それは内部告発だ。次の日から、あの店に荷は来なくなる。商人を潰すのに、刃物はいらん」
俺は、何も言えなかった。
マルタさんは、そこまで考えた上で、俺の前で箱を開けたのだ。よその町から来た、ギルドに属さない子供の前で。
俺は、帳面の間から封書を抜いて、机に置いた。
「これも、預かってきました」
ヴェルナーさんは、封を切って、一度だけ目を通した。
読むのは、ほんの数呼吸だった。
それから、何も言わずに立ち上がって、窓際の燭台に紙を近づけた。
火が移った。縮れて、黒くなって、灰になった。
「……いいんですか」
「本人がそう書いている」
ヴェルナーさんは、灰を皿に落として、指を払った。
「あの店主は、自分の名前が紙に残ることの意味を知っている。……お前も覚えておきなさい。人を守る書き方と、人を売る書き方は、同じ紙の上にある」
「はい」
「もっとも」
ヴェルナーさんは、椅子に戻りながら、ひとつだけ付け足した。
「用件は三行だった。あとは全部、この子供を巻き込みすぎるな、と書いてあったがな」
五つ目については、何も書かなかった。
「書かないんですか」
「書けば、写しが残る。写しは、必ずどこかで人の目に触れる」
ヴェルナーさんは、五つ目の包みだけを、机の引き出しに入れて、鍵をかけた。
マルタさんと同じ手つきだった。書き留めるとき、この人たちの手は、そっくり同じ動きをする。
「レイ。ひとつ、命じておく」
「はい」
「今日から、店の外では薬草の話をするな。荷の検品も、人前でやるな。……お前は今日、敵のリストに名が載ったと思え」
「僕が」
「これだけの手口を組んだ相手が、四度も同じ店に弾かれて、気づかないと思うか。——クロイター通りのマルタの店に、目のいい子供がいる。もう、そう言われている」
言葉が出なかった。
マルタさんは、それを知っていた。知っていて、昨夜、箱を開けたのだ。「危ないかもしれません」と俺が言ったとき、あの人は「知ってるよ」と答えた。あれは、そういう意味だった。
「こちらでも、あの通りに人を回す」
ヴェルナーさんは、卓の上で指を組んだ。
「ただし、期待はするな。うちの人間は、表の通りを見張るのは得意だが、路地の奥までは追えん。あそこは、住んでいる者にしか分からん道だ」
路地の奥。
俺は、ヤンの言葉を思い出した。王都の路地は、全部つながってる。
「……分かりました」
「分かっていない顔だな。いいか、逃げるのは恥じゃない。逃げ道も用意せずに踏み込むほうが、よほど愚かだ」
「怖いか」
「……はい」
「よろしい」
ヴェルナーさんは、頷いた。
「恐怖を知らない子供のほうが、私は困る。恐怖を知る子のほうが、生きて帰ってくる」
*
部屋を出るとき、ヴェルナーさんが呼び止めた。
「レイ」
「はい」
「陛下の薬の件は、これから私が内密に調べる。時間がかかるだろう。侍医にも、薬師にも、商会にも、順番に触れる必要がある。……一つずつ触るたびに、相手は身構える」
「はい」
「だから、お前は、いつも通りにしていなさい」
ヴェルナーさんは、書類の山に目を戻した。
「店の荷を運んで、品物を見て、食事をして、よく寝る。それが、今のお前にできる一番のことだ」
——食事と睡眠。
監察庁の官吏が、まさかそんなことを言うとは思わなかった。
「ヴェルナーさんも、うちの賄いを召し上がりますか」
言ってから、しまった、と思った。
ヴェルナーさんは、書類から目を上げずに、しばらく黙っていた。
「豆か」
「豆と、腸詰めです」
「……考えておこう」
笑わない狐は、やっぱり笑わなかった。
でも、返事の間が、少しだけ長かった。
*
官庁通りを出ると、日が高くなっていた。
柱の陰から、ヤンが出てきた。
「生きてんな」
「生きてる」
「なんかあった?」
「別に」
ヤンは、俺の顔をじろじろ見て、それから「ふうん」と言った。
「顔、変わってるぞ」
「そうか」
「うん。……あんたの、そういうときの顔、覚えとくわ」
路地の子は、本当に、こういうところが早い。
*
店に戻ると、マルタさんがカウンターにいた。
俺の顔を見て、それだけで全部分かったらしい。
「渡してきたかい」
「はい」
「そうかい」
それ以上は、聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「今日から、荷は奥で検めな。表でやるんじゃないよ」
俺は、顔を上げた。
ヴェルナーさんと、同じことを言っている。
「マルタさん」
「なんだい」
「……いつから、知ってたんですか」
マルタさんは、量りの分銅を布で拭きながら、答えた。
「三度目からさ」
拭き終わった分銅を、きちんと箱に戻す。
「二度なら偶然。三度は、こっちが見られてる」
この人は、最初から全部分かった上で、俺に検品をさせ、証拠を貯めさせ、昨夜、箱を開けた。
「……怖くないんですか」
「ああ、怖いね」
あっさりしたものだった。
「怖いから、記録を取るんだ。腹が立つから、じゃないよ。怖いからさ」
マルタさんは、カウンターの奥から、いつもの木箱を出してきた。中は空になっていた。四つの包みは、今、監察庁の机の中にある。
「空いたね」
「はい」
「じゃあ、また溜めるだけだ」
その言い方が、あんまり普通だったので、俺は、ちょっと笑ってしまった。
*
昼の賄いは、いつも通りだった。
豆と腸詰めの煮込み。ハンスが皿を配って、ルーチェが匙を並べて、俺が水を汲む。
匙は、四本並んでいた。
誰も、四本目のことは言わなかった。ルーチェが並べて、そのままにしてある。
「いただきます」
三人で言って、三人で食べた。
うまかった。昨日と同じ味で、昨日より少しだけ、静かだった。
「レイ」
ルーチェが、匙を持ったまま、俺を見た。
「きょう、においが、こわい」
ハンスが顔を上げた。
「なんだそれ」
「なんでもない」
俺はそう言って、パンをスープに浸した。
ルーチェは、それ以上聞かなかった。ただ、自分の腸詰めを一本、俺の皿にそっと移した。
気づかないふりをして、食べた。
*
夜、屋根裏で、ルーチェが毛布から顔だけ出して言った。
「レイ。あのこ、くる?」
あの子。四本目の匙。
「来るよ」
「ほんと?」
「約束したから」
嘘じゃない。約束はした。ただ、いつとは言っていない。
ルーチェは、それで満足したらしく、目を閉じた。
俺は、窓の外を見た。
丘の上で、城が今夜も光っている。あの灯りの下で、王が眠っていて、その隣に、たぶんヴィオラが座っている。
俺にできることは、今日、全部渡した。
あとは、待つ。
——待つのが、こんなに落ち着かないものだとは、思わなかった。
オスカルさんの店で、薬草を乾かしていたときのことを思い出した。乾くのを待つ間、俺はよく棚の前をうろうろして、リーナに笑われた。「見てても早く乾かないよ」と。
あのときの俺に、今の俺は、たいして変わっていない。
待つのが下手なまま、十二歳になった。
目を閉じると、匙が四本並んだ食卓が浮かんだ。
早く、埋めたい。




