尾けてくる足音と、四本目の匙
その男に最初に気づいたのは、ハンスだった。
証拠を渡した日から、三日が過ぎていた。
ヴェルナーさんに言われた通り、俺はいつも通りにしていた。朝は荷を受けて、昼は賄いを食って、午後は配達に出る。違うのは、荷を検めるのが店の奥になったことと、店先で薬草の話をしなくなったことだけだ。
三日目の昼過ぎ、ハンスが箒を持ったまま、動かなくなった。
「レイ」
「ん」
「あいつ、昨日もいた」
ハンスの目線を追った。
通りの向かいの、パン屋の軒下。灰色の外套の男が、壁にもたれて立っている。パンを買うでもなく、誰かを待つでもなく、ただ立っている。
「一昨日もいた気がする」
「同じ場所か」
「いや。一昨日は、あっちの角」
俺も、手元の箒を動かし続けた。手を止めたら、こちらが気づいたと教えることになる。
「マルタさんに言うか」
「もう言った」
ハンスは、袖で鼻をこすった。
「『気にしないで掃いてな』って」
この店の店主は、本当に、驚かない人だ。
*
その日の夕方、店を閉めたあとで、マルタさんが俺とハンスをカウンターの前に座らせた。
二度目だった。一度目は、鐘が鳴った日。
「三つ、決めるよ」
マルタさんは、指を三本立てた。
「一つ。あんたら二人は、暗くなってから外へ出るんじゃない。配達は明るいうちに終わらせな。終わらなかった分は店へ持ち帰る。無理に届けようとするんじゃないよ」
「はい」
「二つ。店の戸は、日が落ちたら閂を掛ける。夜中に叩く音がしても、あたしが出る。あんたらは奥にいな」
ハンスが、生意気に口を挟んだ。
「おれも出る」
「出るんじゃない」
マルタさんは、ぴしゃりと言った。
「あんたには母ちゃんがいるだろう。あの人に、あたしが顔向けできなくなる」
ハンスが、黙った。
「三つ」
マルタさんは、俺を見た。
「これがいちばん大事だ。——何かあったら、荷を捨てて逃げな。品より人だ。うちの店の品は全部、あんた一人より安い」
俺は、頷けなかった。
商売人が、品より人だと言った。それは、この人が今、商売の外側の話をしているということだった。
「返事は」
「……はい」
「よろしい」
マルタさんは、それだけ言って、量りの分銅を拭き始めた。この人は、怖いときに手を動かす。
*
翌日の午後、俺は施療院に薬を届けに出た。
明るいうちに終わらせろ、と言われている。だから昼過ぎに出た。荷は軽く、道は知っている。いつもなら、往復で一刻もかからない。
施療院を出て、大通りに戻ったところで、足音に気づいた。
自分の足音と、少しずれた足音が、後ろにある。
止まると、止まる。歩くと、歩く。
振り返らなかった。振り返れば、相手も分かる。
考えろ。
まっすぐ店に帰れば、店に案内することになる。もう場所は知られているにしても、俺が「気づいて逃げ帰った」と教えることになる。
人混みに入るか。市場は近い。でも、市場は袋小路が多い。第一、あの日ヴィオラが捕まりかけたのも、人混みの中だった。人がいるから安全とは限らない。誰も止めないと、あの日に学んだ。
じゃあ、どこへ。
——あの角、二本目を右。突き当たりの塀、下に穴がある。
ヤンの声が、頭の中で鳴った。
三日前、官庁通りで教わった逃げ道は、ここからでも行ける。行けるが、遠回りだ。走ればいい。子供の足のほうが、路地では速い。
俺は、角を曲がって、走った。
*
背中で、足音が速くなった。
やっぱり、尾けていた。
一本目の角を過ぎる。二本目を右。壁が近づいて、道が細くなる。この辺りは日が入らない。昼過ぎなのに、夕方みたいな色をしている。
突き当たりの塀。
あった。低いところに、崩れた煉瓦の隙間。犬ぐらいしか通れない、とヤンは言った。
鞄を先に押し込んで、体を横にして、頭から突っ込んだ。肩が引っかかる。息を吐いて、胸を薄くして、押した。
抜けた。
服が擦れて、肘が痛い。でも、抜けた。
塀の向こうから、男の足音が来て、止まった。
しばらく、何も聞こえなかった。
それから、舌打ちの音がして、足音が遠ざかった。
俺は、塀にもたれたまま、息を整えた。膝が、少し笑っていた。
「生きてんな」
声がして、飛び上がりそうになった。
ヤンが、路地の反対側から歩いてきた。後ろに、ミアと、見たことのない男の子が二人。
「……いつから見てた」
「あんたが二本目の角を曲がったあたりから。施療院を出たときから、後ろについてた奴がいるって、ミアが知らせてきた」
ヤンは、当たり前みたいに言った。
「にいちゃん、走るの、へた」
ミアが真顔で言った。六つか七つの子に足の速さを評価された。
「あの男は」
「北へ向かった。うちの連中が、足音立てて連れてってる」
二度目だった。この子たちは、同じ手を、同じ手際でやる。
「ヤン」
「なんだよ」
「……銅貨、いくらだ」
ヤンは、ふん、と鼻を鳴らした。
「今日は、いらねえ」
「え」
「二回目だからな。一回目は取引だ。二回目は、なんて言うんだっけ」
ヤンは、少し考えて、それから、言った。
「まあ、いいや。とにかく、いらねえ」
言い終わる前に、もう背中を向けていた。ミアが小さく手を振って、路地の奥へ消えた。
俺は、そこにしばらく立っていた。
二回目は、なんて言うか。
俺は知っている。アシェンで、七年かけて覚えた言葉だ。
でも、あいつが自分で言うまで、こっちから言わないでおこうと思った。
*
店に戻ると、マルタさんがカウンターから俺を見て、それだけで全部分かったらしい。
「服が汚れてるね」
「尾けられました。逃げる途中で、塀の穴をくぐりました。……ヤンたちが、引き離してくれました」
マルタさんの手が、一度だけ止まった。
「そうかい。あとで、あの狐にも知らせておくよ」
それ以上は騒がず、奥へ顎をしゃくった。
「客が来てるよ。裏だ」
「客」
「あんたの客さ」
*
台所の卓に、アーニャが座っていた。
アーニャがこの卓で賄いを食べるのは、十七日ぶりだった。
顔色は、この前よりましだった。でも、目の下の黒さはまだ残っている。膝の上で手を握って、背筋を伸ばして、じっと待っていた。
俺を見て、その子は、立ち上がった。
「来たわ」
「……ああ」
「昼前に間に合わなかったけれど」
「賄いは、残してある」
俺がそう言うと、アーニャは、少しだけ笑った。
ルーチェが、鍋の前から飛んできた。
「アーニャ!」
ぶつかるみたいに抱きついて、それから、鼻を寄せた。ためらいもなく嗅いだ。
「……におい、かなしい」
「ルーチェ」
「でも、うそのにおいは、しない」
ルーチェは、それだけ言って、満足そうに離れた。ルーチェの検品は、いつも一瞬で終わる。
ハンスが、荷を抱えたまま、戸口に立っていた。
「よお」
「……こんにちは」
「おまえ、ずいぶん久しぶりだな。どこ行ってたんだよ」
アーニャの肩が、わずかに強張った。
「家が、少し」
「ふうん」
ハンスは、それ以上聞かなかった。荷を置いて、当たり前みたいに皿を四枚出した。
この店の人間は、本当に、聞かないのがうまい。
*
賄いは、豆の煮込みだった。腸詰めは切れていて、代わりに玉ねぎが多かった。
ルーチェが匙を並べる。
四本。
いつもと同じ本数なのに、今日は違って見えた。四本目に、座る人がいる。
「いただきます」
四人で言った。
アーニャの「いただきます」は、この前より少しだけ大きかった。
食べている間、ハンスが今日の荷の話をして、ルーチェが市場で見た犬の話をして、俺は聞いていた。アーニャは、やっぱりあまり喋らなかった。でも、この前と違って、聞きながら、時々笑っていた。
パンをスープに浸す食べ方も、もう慣れていた。
*
食べ終わって、皿を洗って、表まで送った。
通りの向かいに、迎えの二人が立っている。前より近い場所に立っていた。
「レイ」
「ん」
「父は、まだ目を覚まさないわ」
アーニャは、前を向いたまま言った。
「でも、侍医が替わったの。それに、薬の調合を調べるために、監察庁が宮廷の外から薬師を入れたわ」
ヴェルナーさんだ。
もう、そこまで動いている。
「……そうか」
「あなたが、渡してくれたから」
「俺は、渡しただけだ」
アーニャの目が、俺の破れた袖に落ちた。
「それで、その服は?」
「……転んだ」
「そう。では、転んだことにしておくわ」
この子は、賢い。俺が何かを隠していることには、もう気づいている。
「レイ」
「なんだ」
「私がここに来るのは、あなたの迷惑になる?」
——来た、と思った。
答えは、簡単だった。なる。今この店は見張られていて、王女が出入りしていると知られたら、俺だけじゃなく、マルタさんも、ハンスも、ルーチェも危なくなる。だから来るな、と言うのが正しい。
正しい答えを、俺は知っていた。
でも、口が動かなかった。
あの日、四本目の匙が並んだまま食卓が静かだったことを思い出した。ルーチェが「あのこ、くる?」と聞いたことも、俺が「約束したから」と答えたことも。
それに、この子の家には、揃っているのに誰も喋らない食卓がある。
「……マルタさんが言ってた」
俺は、そう切り出した。
「うちは、いる人数で分ける。それだけの話だって」
「知ってるわ」
「だから、来ればいい。……ただし」
俺は、そこで初めて、この子の目を見て言った。
「一人で来るな。あの二人を、もっと近くに置け。それと、来る日は決めるな。決まった日に決まった道を通る人は、いちばん狙いやすい」
アーニャは、目を丸くした。
それから、ふっと肩の力を抜いて、笑った。
「……あなた、そういうことばかり言うのね」
「商売と同じだ。荷を運ぶ日を決めると、盗られる」
「私は荷なの」
「王都でいちばん高い荷だ」
アーニャは、声を出して笑った。
迎えの二人が、驚いた顔でこちらを見た。あの人たちが、この子の笑い声を聞いたのは、たぶん久しぶりなんだと思う。
笑い終わってから、アーニャは、居住まいを正した。
「分かったわ。二人を近くに置く。来る日も、道も決めない」
「それならいい」
アーニャは、迎えの二人を連れて、帰っていった。
*
その夜、屋根裏で、ルーチェが毛布の中から言った。
「レイ」
「ん」
「きょう、匙、四本つかった」
「うん」
「あしたも、つかう?」
俺は、天井を見た。
明日は使わないかもしれない。明後日も、その次も。あの子は、来る日を決めないと約束した。だから、いつ来るか分からない。
でも。
「並べておけばいい」
俺がそう言うと、ルーチェは、しばらく黙って、それから、小さく笑った。
「うん。ならべておく」
窓の外で、丘の上の城が光っている。
あの灯りの下で、侍医が替わった。誰かが、動き始めている。
けれど、王を眠らせた相手も、店を見張っていた男の正体も、まだ分からない。
それでも今日、うちの卓には四人いた。
それだけで、今日は十分だった。




