雪と、残れという言葉
秋の終わりの、フラムの月。町へは歩いて下りた。
ティオの右の前脚は、地面につけられるようになっていた。まだ歩くときにかばい、飛ぼうとはしない。水を飲みに行くにも、ゆっくり川原を下りていく。
ルーチェは、その横を歩いていた。飛べば先に行けるのに、ティオの歩く速さに合わせて、並んで歩くことが多かった。
俺は二頭を谷に残し、三日かけて町へ下りた。手紙を預け、塩や保存のきく食料を多めに買った。
「これからの時期、雪が降りだすぞ」
宿の主人は、帳場で荷を見ながら言った。
「早ければ、ひと月だ。山道は閉じる。春まで開かん」
「はい」
「上で越すのか?」
「そのつもりです」
主人は俺の顔をしばらく見た。それから、帳面へ目を落とした。
「前に話した四人組は、下りてきた。ヴァルトの月の終わりだ。一人が腕に怪我をしとった」
鞄を持つ手が止まった。
「ここへ、戻ってきたんですか?」
「ああ。山へ入ったときほどの勢いはなかったな」
谷の外へ走り去ったことは知っている。そのあと、この町まで来ていたとは知らなかった。
腕の怪我にも覚えはなかった。俺は罠を外して二頭を連れて飛んだ。そのあとの川原を、自分では見ていない。
「もう山へは戻らんようにも見えたが、こっちも行き先まで聞いとらん」
「……そうですか」
主人は帳面を閉じた。
「手紙が来れば、取っておく。だが、道が閉じたら、お前は受け取りに来られんぞ」
「はい。お願いします」
杭のことは話さなかった。雪が降っても下りて来られます、と言えるほど、俺にも確かな見通しはない。
前に町へ飛んだときは、日が傾くまで土の上から動けなかった。その体で谷へ戻って、次の昼まで眠った。
今度は、あの往復をしてはいけない。
谷へ戻る道も、三日歩いた。
*
雪は、ヴォルドの月の初めに来た。
朝、ルームから出ると、岩棚の縁が白くなっていた。谷の底にも雪があり、向こうの棚の竜たちは、背中へ積もらせたまま腹をつけていた。
裏へ回ると、ティオが鼻先を雪へ突っ込んでいた。顔を上げてくしゃみをし、左の前脚で雪を押す。右の脚には、まだ体重をかけすぎないようにしている。
その隣で、ルーチェが雪を口へ入れた。
——レイ、北の森の雪より、軽いね。
「そうか?」
——うん。さらさらしてる。
俺もすくってみた。握ってもまとまりにくく、指のあいだからこぼれた。
見上げた尾根は、もう白かった。谷でこれだけ積もったなら、途中の道はもっと深いだろう。雪の山へ歩いて入るなと、北の森でも何度も言われた。
町へ手紙を持っていくには、杭を使うことになる。
岩棚の裏で雪を払い、頭に触れた。印はまだ感じられた。だが、印が残っていることと、無事に往復できることは同じではない。
手紙を出す日までに、ルーチェと話しておこうと思った。
*
長老が来たのは、雪が降り始めて三日目だった。
棚の上の竜たちが、谷の奥へ首を向けた。ルーチェも顔を上げたので、俺は鍋を火から下ろした。
川沿いに、大きな体が見えた。
丘ほどの背中に雪が載り、歩くたびに少しずつ落ちていた。こけのような色が、その下から現れる。薄い色の目が川原を通り、俺の上を過ぎた。
ルーチェのところで止まった。
この子は岩棚を下り、川原に立った。ティオより少し大きい、いつもの竜の姿だった。それでも向こうと並ぶと、ひどく小さく見えた。
長老は頭を下げなかった。
ルーチェを見たまま、低い音を出した。岩がこすれるような声が腹へ響く。途切れ、また続いた。そのあいだ、川の音が聞こえにくくなった。
前にこの子へ頭を下げたときより、長かった。
俺は待った。古き光の系譜。最初に聞いた言葉も、ルーチェが伝えてくれなければ、意味の分からない音のままだった。
今日も何か言っている。だが、この子から声は来なかった。
長老は話し終えると、少しその場にとどまった。それから上流へ向き直り、来た方へ戻っていった。大きな足跡が、雪の川原に続いていた。
ほかの竜たちが首を戻した。
ルーチェだけは、まだ奥を見ていた。
「……何て言った?」
こちらへ顔が向いた。繋がりの向こうに、重い感じがあった。怖いのか、困っているのか、うまく分からない。
金色の目が、少し横へそれた。
——今日は、まだ言わない。
俺は口を閉じた。
分からないから伝えられないのか、分かったことをまだ言いたくないのか。そのどちらなのかも、聞けなかった。
*
昼には、人の姿で火のそばへ来た。
服を渡すと、袖へ腕を通し、いつものところに座った。豆をよそった椀を受け取り、湯気が薄くなるのを見ていた。
俺はさじを動かした。ルーチェも少し食べたが、途中で手を止めた。
「……ここに、残れって」
この子は椀を見たまま言った。
「長老が?」
「うん。でも、それだけじゃなかった」
次の言葉を待った。ルーチェはさじを持ち直して、また置いた。
「まだ、うまく言えない」
「……分かった」
俺は鍋を少し火から離した。
ここに残れ。
長老が言ったのは、どれくらいのあいだのことなのだろう。雪が解けるまでか。それより先もか。そもそも、人の言葉にするとそうなるだけなのか。
この谷なら、ルーチェは髪を隠さずにいられる。大きいまま、昼の空を飛べる。だが、罠は谷の中にも置かれた。ここにいれば何も起こらないとは、俺には思えなかった。
長老がどこまで知って言ったのかも、分からない。
顔を上げると、ルーチェがこちらを見ていた。俺は何か言いかけた。残るのかと聞きそうになって、やめた。
今聞けば、まだうまく言えないというこの子に、先に答えだけ出させることになる。
「冷めるぞ」
言えたのは、それだった。
ルーチェは頷き、椀を持ち上げた。
*
夜、ティオは岩棚の裏で腹をつけていた。
風の当たらないところへ寄り、傷のある脚を伸ばしている。ルーチェは夕飯を食べ終えても、人の姿で火のそばに残っていた。
「レイ、もう寝るね」
「ああ」
「ティオのところに行く」
谷で外に寝るのは、もう何度もしている。俺が町へ下りている夜も、この子はティオのそばで眠っていた。
それなのに、今夜は返事をするまで少し間が空いた。
「……寒くないか?」
「竜に戻れば、大丈夫」
立ち上がり、服を脱いで俺へ渡した。
「これ、たたんでおいて」
「分かった」
金色の体が雪の上に現れた。翼をたたみ、ティオの隣へ歩いていく。赤茶の首が少し上がり、また下りた。ルーチェも腹をつけた。
俺は服の袖を重ねた。
いつもと同じ寝支度だった。違うのは、昼に聞いた言葉が、俺の中に残っていることだった。
この子が外で寝ることを、残りたいという返事にしてはいけない。まだ何も、そう言ってはいない。
小さくなった火を見ながら、服を畳み終えた。繋がりの向こうにルーチェがいた。すぐ近くにいるのに、何を考えているのかは分からなかった。
雪がまた降り始めた。
俺は服をしまい、寝る前にもう一度、岩棚の裏を見た。




