退いた四人と、変わらない谷
目が覚めると、布にくるまって横になっていた。
あたりを見ると、岩棚の裏だった。近くに土から出た杭の頭が見えた。朝とは日の向きが変わり、斜面の草に長い影が落ちている。
体を起こそうとした。腕に力が入らず、肩も浮かなかった。
町へ飛んだあとと同じ、体の中が空になった感じがあった。ルーチェとの繋がりは切れていない。けれど、そばにいるはずのルーチェからは、薄くしか感じられなかった。
「……起きた?」
人の声だった。
ルーチェが俺の横に膝をついた。人の姿で、椀を持っている。頭を支えてもらい、縁に口をつけた。冷たい水を少し飲むと、喉が動いた。
「……ティオは?」
「そこにいるよ」
示された方を見ると、赤茶の体があった。腹を土につけ、右の前脚を伸ばしている。脇腹が、ゆっくり上下していた。
脚には布が巻かれていた。白かったはずの布に、赤黒い色が広がっている。
「布で押さえてた。でも、まだ血が出るの」
ルーチェの指にも血がついていた。
「……鞄に、布の袋がある。粉の入ったやつ」
鞄は岩棚の上へ置いたままだった。ルーチェが取りに行き、袋ごと俺のそばへ運んできた。
口を開くと、覚えのある匂いがした。
ハイマツヨモギ。ハンナ婆さんが乾かして、粉にしてくれたものだ。北の森を出る朝、胸へ押しつけられた袋だった。
使わずに済むのが、いちばんいい。
あの声を思い出しながら、袋を握った。
*
ルーチェに肩を借り、ティオの脚のそばへ移った。ほんの少しの距離だった。それでも、一人では行けなかった。
布を緩めると、傷が見えた。鱗の小さい足首に、鋼の歯の跡が深く残っている。奥までどうなっているのかは分からなかった。
「ティオは、わたしより年下だから。足の鱗、まだやわらかいの」
ティオが首を上げた。俺の手を見ている。
「……今度は、薬を塗るぞ」
ルーチェがティオのそばへしゃがみ、鼻先に手を置いた。ティオは脚を動かさず、俺たちを見ていた。
粉を出そうとすると、袋が震えた。ルーチェに持ってもらい、俺は片手で受けた。
傷へ当てると、粉が血を吸って色を変えた。すぐには止まらなかった。布で押さえ直して待ち、また確かめた。
やがて、新しくにじむ血が少なくなった。
俺は手を離し、しばらく見ていた。赤い筋は増えなかった。ただ、それで脚が使えるようになったわけではない。ティオは右の前脚を伸ばしたまま、体重をかけようとしなかった。
鼻先が近づいてきた。俺の手の匂いをかいで、それから顔を見た。
声の意味は、今も分からない。繋がりもない。それでも俺が手を引くまで、ティオは顔を寄せていた。
*
夕方、ルーチェが川の方を見て戻ってきた。
俺は岩棚の裏で、背中を岩に預けていた。支えがあれば座れるようにはなったが、立とうとすると脚が震えた。
馬ほどの大きさになった金色が、そばへ腹をつけた。
——人は、見つからなかった。
「川原には?」
——うん。足あとが、出口のほうへ続いてた。そこから先は、行ってない。
器も一つ、岩の脇に残っていたという。ティオを挟んだ罠は、鎖ごと俺のボックスの中にある。
あとで出して見ればいい。留め金の寄り方が昨日の三つと同じなら、同じ工房だ。今は、そこまで頭が回らなかった。
谷の声のあと、足音が遠ざかるのを聞いた。ルーチェは、四人が走っていくところを見ていた。
退いたのだろう。
山道をそのまま下りたのか。途中で止まっているのか。今、ここからは分からない。
「追わなくていい」
——うん。
捕まえた者はいない。金色を見られ、俺たちが急に消えたところまで見られた。それをどこへ持っていくのかも、分からない。
だが、今の俺には、立っているルーチェの肩にすがらず歩くことさえ難しかった。追ってどうにかする力があるわけではない。
岩棚の向こうで、灰色の竜が腹をつけ直した。別の竜は首を下ろし、目を閉じていた。朝、声が響いたあとの谷は、いつものように見えた。
「あの声、何て言ったんだ?」
ルーチェは谷の奥を見た。
——言葉には、できない。
「分からなかったのか?」
——わたしたちだけに呼んだのとは、違った。谷中に言ったみたいだった。
谷へ言った。その言い方を、俺はうまく思い浮かべられなかった。
——それで、あの人たちが走ったの。
四人が怖がったのは、声なのか、首を上げた竜たちなのか。俺には分からない。長老が俺たちを助けるつもりで鳴いたのかも、聞けなかった。
——長老、前に言ってた。谷の竜は、谷の外へは追わないって。声で追い払う。それで足りなかったことは、なかったって。
川辺で鱗を拾う人間は、これまで見逃してきたのだろう。若い竜が声を上げたときだけ、谷が動いた。
「……そうか」
それだけ言って、俺は隣のルーチェへ目を戻した。
「翼、見せてくれるか?」
ルーチェが片側を少し広げた。
膜には、穴も裂け目もなかった。矢の当たったあたりを指でなぞっても、ほかと同じ手触りが続くだけだった。
「……通らなかったんだな」
——うん。当たったとき、びっくりしただけ。
翼がたたまれた。鱗に当たった二本も、膜に当たった一本も、通らなかった。それでも、矢が来ると分かっていて、俺の上から動かさなかった翼だった。
*
夜の火は、岩棚の裏に近いところで小さく燃やした。
俺が火をおこし、ルーチェが薪と鍋を運んだ。ティオは脚を伸ばして横になっている。起きて顔を上げるたびに、傷の布を確かめた。
ルーチェは人の姿で、火のそばへ座った。
「レイ、手は出さなかったよ。威嚇しただけ」
「見てた」
「大丈夫だったけど、矢が当たった」
肩の後ろへ手をやった。今はそこに翼はない。それでも触れるようにして、指を止めた。
「怖かった」
「……俺もだ」
「でも、わたしが動いたら、レイの守りがなくなるから」
火が鳴った。俺は薪の先を少し寄せた。
「守ってくれて、ありがとう」
ルーチェがこちらを見た。
「でも、動かないでいるの、怖かったよ」
「ああ」
それ以上、うまく返せなかった。翼に矢が当たるのを見ても、俺は手を止めなかった。この子に守ってもらいながら、罠から手を離さなかった。
腰から外した短剣が、鞄の脇に並んでいた。ガレスさんのものと、ルーチェの爪から作ってもらったもの。今日は二本とも、鞘から出していない。
男へ手を伸ばす代わりに、ティオの脚へ伸ばした。その手の上には、ずっと翼があった。
「レイ、最初は立ってたね」
「お前のところへ来たときか?」
「うん。小屋へ来た夜は、あとで立てなくなったのに。今日は、遠くから来て、すぐティオのほうへ行った」
「……自分でも、倒れるかと思った」
水の冷たさと、足を踏み直した感じを思い出した。立てたからといって、何も減っていなかったとは言えない。だが、町へ飛んだ朝とは違った。
「あのとき、レイとの繋がりを引いてみたの」
ルーチェは自分の手を見ていた。
「レイがこっちをつかんだとき、わたしも引いた。早く来てほしかったから」
「お前の方から?」
「うん。そしたら、来た。レイが来る前と、繋がりの感じがあまり変わらなかった」
あのとき、いつもよりはっきりと繋がりを感じた。この子も、向こう側から掴んでいたのか。
「それで、立っていられたのかもしれないな」
「……うん。でも、帰るときはできなかった。ティオとは、繋がりがないから」
ティオには手を置いていた。ルーチェとは繋がっていた。それで二頭とも、ここまで来た。
来られたあと、俺は倒れた。今も体を起こすたびに、どこかへ手をつかなければならない。
それでも、町から戻ったときよりは、繋がりの戻りが早い。空になるたびに、器が少しだけ広がる。この子が小さかったころに知ったことだった。
「一緒に来られて、よかった」
言うと、ルーチェはティオの方を見た。
「うん。でも、またレイが動かなくなった」
「……ああ」
大丈夫だったとは言えなかった。粉を出す手さえ支えてもらったことを、俺は覚えていた。
ルーチェは鍋を見てから立ち上がり、椀を取りに行った。
*
翌朝は、自分の足でティオのそばへ行けた。
それでも、途中で岩に手をついた。眠っただけで全部戻ったわけではなかった。
ティオは目を開けていた。脚の布に、昨夜から新しい血は広がっていない。
「ティオ」
呼ぶと、首を上げた。
それから、右の前脚を浮かせたまま体を持ち上げた。傷のない脚で、一歩だけこちらへ寄った。
「待て。俺が行くから」
通じるかどうか分からないまま言って、手を伸ばした。
ティオは立ち止まり、首を下げた。俺の手が届くところまで来ると、そのままじっとしていた。
濡れていない鱗も、ルーチェよりひんやりしていた。手のひらを置くと、鼻から長く息が抜けた。
「脚は、まだ使うなよ」
ティオが目を閉じた。
少し離れたところで、ルーチェが見ていた。人の姿で、膝を抱えている。繋がりの向こうから、うれしい感じが来ていた。
俺が隣へ戻ると、この子は顔を上げた。
「レイ、今日で十三だよ」
「……何が?」
「歳。王都にいたとき、十二になったでしょ。あれから、今日で一年」
俺は、この子を見た。
「数えてたのか?」
「うん」
王都の食卓を思い出した。あのころは十二になったばかりで、待っていることさえ下手だった。
谷へ来てからは、町へ下りる日や、印を確かめる日ばかり数えていた。自分の誕生日は、いつの間にか後ろへ押しやっていた。
「……じゃあ、今日は肉を焼くか」
「ティオに、取ってきてもらうのはだめだよ」
「分かってる。俺も、まだ獲りには行けないしな」
鞄には、まだ豆がある。あれなら、ここで火を起こせばいい。
「まず、朝飯にしよう。豆からだ」
ルーチェが笑った。
川の音がしていた。向こうの岩棚では、灰色の竜が朝の日を受けて眠っている。昨日と同じように見える谷で、ティオは傷ついた脚を浮かせ、ルーチェはそのそばで丸くなっていた。
俺もまだ、鍋を持つには両手が要る。
「それ、わたしが運ぶ」
差し出された手へ、空の鍋を渡した。
十三になった朝も、まずは二人で火のそばへ座った。




