しまった罠と、消えた三つ
水が冷たかった。
秋の半ばの、ヴァルトの月になっても、山から来る水は指を刺すようだった。両手を沈めていると、すぐに感覚が鈍くなった。
罠の付け根を探った。ティオの血が流れ、波の下で鋼の形が揺れる。指でたどると、ちょうつがいの脇に留め金があった。
ティオが脚を引いた。
鋼が動き、短い声が上がった。俺の顔へ水がかかった。
「動くな。今、外すから」
言っても、また赤茶の体が揺れた。俺の言葉が通じた様子はなかった。
頭の上で、低い音がした。
ルーチェだった。頭の中に届く声ではない。岩がこすれるような、短く、強い音をティオへ向けて出した。
ティオの動きが止まった。鋼は食い込んだままだが、それ以上、脚を引こうとはしなかった。
何と言ったのか聞く余裕はなかった。俺は左手で罠を支え、小刀を抜いた。
昨日のものは、石を挟んで動かないようにできた。今、鋼のあいだにあるのはティオの脚だ。力任せに押せば、傷をもっと広げてしまう。
張りのかかる金具を探し、刃の背を当てた。滑った。手を戻して、もう一度当てる。水に沈めた指では、押している強さが分かりにくかった。
留め金が少し動いた。
罠を支え直し、張りを逃がした。片側の鋼が、わずかに緩んだ。
*
頭の上を、影が覆った。
ルーチェが片方の翼を俺の上へかぶせていた。金色の膜を通して、日が薄く見える。
翼の下で、低い声が響いた。降りてきたときと同じ、長く続く鳴き声だった。膜が震え、水面に細かな波が立つ。岩陰の四人へ向けた声だと、見なくても分かった。
それでも、矢が来た。
膜に当たり、はじかれて川へ落ちた。穴は開かなかった。
顔を上げかけた。
——レイ、続けて。
声は硬かった。翼は下りたままだった。
俺は罠へ目を戻した。
反対側へ手を回したが、届かない。足をずらして、さらに川へ入った。水が腹へ来て、息が詰まった。踏ん張った脚が震える。片手を川底の石につき、体を支え直した。
届いた。
小刀の背を当てた。押しても動かない。いったん力を抜き、向きを変えた。
川原で石が鳴った。翼の陰から足が見えた。縄を持つ二人が、横へ回り込んでいる。
俺たちの上にかぶさった翼の、反対側だった。そこにはティオの胴が見えていた。
ルーチェの首が動いた。二人を追っている。それでも、俺の上の翼は動かさなかった。
早く。
手へ力を込めると、刃の背がずれた。慌てて止めた。ティオが低く鳴き、ルーチェが同じような音を返した。
俺は息を吐いて、当て直した。
今度は金具が動いた。それでも、張りはまだ逃げきらない。留め金を外しても、この重い鋼を両手で開いて、歯を傷から抜かなければならない。水の中で、矢の下で。
初めてこの力を使った日、森の地面を土ごとしまった。鋼だけを、しまえばいい。
ティオの脚まで持っていかないか。そう思って、一瞬、手が止まった。生き物に食いついているものをしまったことは、今までなかった。
鋼だけだ。
両手を歯に当て、そう決めて、しまった。
鎖ごと、手の中から重さが消えた。ティオの脚に、鋼はもうない。歯の跡だけが残っていた。
「抜けた!」
ルーチェが鳴いた。
*
ティオは右の前脚を浮かせていた。
一度、下ろそうとした。だが、水の中の石へ触れた途端に体が傾き、また持ち上げた。傷から出た血が、流れの中で細く伸びていく。
翼が半ば開いた。いつものように飛び立とうとしたのかもしれない。だが、体を持ち上げられず、また閉じた。
縄を持つ男が近づいた。もう一人は少し離れ、ティオの後ろへ回ろうとしていた。
ルーチェもそれを見ていた。翼を広げ直せば追い払えるかもしれないが、俺とティオが弓の前へ出る。
ここから離れたい。
俺は浅いところへ足を戻し、ティオの首に左手を置いた。濡れた鱗が冷たかった。右手はルーチェの前脚に触れた。こちらには、水の上からでも分かる熱があった。
ルーチェとは、糸で繋がっている。
ティオには糸がない。今、触れている手だけだった。
一緒に飛べるか、試したことはない。鞄も服も俺についてきた。だが、生きている相手まで来るとは限らない。
ティオが首を動かした。俺は左手を離さず、鱗の上へ押し当てた。
「ルーチェ、杭へ戻る。ティオも連れていく」
——一緒に?
「やってみる。離れるな」
右の手のひらの下で、金色の脚が踏みとどまった。
岩棚の裏を思った。土へ半分埋めた鉄の杭。その中の鱗に残した印を探した。
ルーチェの糸とは別の、細いものがある。川沿いに戻れば、歩いてしばらくかかる。その向こうに、確かに感じられた。
男の足が、水に入った。
俺はティオに触れた左手へ力を込めた。ルーチェへ続く糸も、離さないように思った。
「来い」
声に出して、杭の印を掴んだ。
*
目の前に、岩棚の裏があった。
左手の下に赤茶の鱗。右手の下に金色の鱗。濡れた二頭の体から、土へ水が落ちていた。
来た。
俺だけではない。二頭とも、ここにいる。
そう分かったところで、腕から力が抜けた。
膝をつこうとしたのに、体を支えられなかった。肩から土へ落ち、首を起こすこともできなくなった。
町まで飛んだときより、道はずっと短い。それなのに、体の中から一度に持っていかれた感じがした。胸も背中も重く、息を吸うだけで精いっぱいだった。
糸が細い。
すぐそばにルーチェがいるのに、向こうから来るものが分からない。呼ばれているらしいことだけが、途切れながら伝わってきた。
指を動かそうとした。土を少しかいただけだった。
金色の体が小さくなっていくのが見えた。大きく広がっていた翼がたたまれ、体も馬ほどに戻った。
ルーチェの鼻先が俺の頬へ触れた。それから、ティオの方へ向いた。
ティオは脚を浮かせ、横へ倒れかけていた。ルーチェが体を寄せると、その場に腹をつけた。赤茶の前脚の下で、土の色が変わっていく。
「……鞄。布を」
自分の声がかすれていた。最後まで言えたかどうか、分からなかった。
*
谷が鳴った。
頬の下の土まで震えた。低く、長い音だった。腹の奥へ響き、何も考えられなくなった。
見える岩棚の竜たちが、同じ方角へ首を上げていた。声が重なり、谷の向こうからも返ってくる。
奥に、大きな影があった。
あの長老が、首を上げていた。
音がやんでも、しばらく耳の奥が鳴っていた。川の方で怒鳴る声がした。石を踏む足音が続き、遠ざかっていった。
何が起きたのか、起き上がって見ることはできなかった。
ルーチェが川の方を見ていた。首を伸ばし、しばらく動かなかったが、やがて岩棚の上へ顔を向けた。
白い布が運ばれてきた。ティオの脚のそばで動く金色が見えた。次に目を開けたときには、ルーチェが桶の取っ手をくわえて、下へ降りていくところだった。
水を汲みに行くのだと、少し遅れて分かった。
俺は何も持ち上げられずに消耗していた。桶一つさえ、この子に運んでもらわなければならなかった。
最後に見えたのは、水をこぼさないよう首を上げ、岩棚へ戻ってくる金色だった。




