戻ってきた足跡と、見覚えのある留め金
秋の半ばの、ヴァルトの月に入って、谷の朝が冷えるようになった。
川原の石は昼になっても、前ほど温まらない。ティオはそれでも石の上で寝ていた。ルーチェは谷を飛び回り、日が山に隠れる前には戻ってくる。
俺は四度目の下山の支度をしていた。
杭は使わない。前に町まで飛んだ朝と、戻ってからの夜を思い出すだけで、岩棚の裏へ向かう気にはなれなかった。雪が来るまでは歩くと、ルーチェにも言った。
鞄へ荷を詰めていると、川原から短い音が二度、響いた。ティオだった。ルーチェが岩棚の縁から首を伸ばした。
——レイ、ティオが、知らない匂いがするって。
「どこから?」
——谷の出口のほう。
俺は手を止め、山道へ続く川の曲がりを見た。
*
足跡は、鱗のたまるところにあった。
この先で谷が狭まり、山道へ出る。俺も下山のたびに通るところだ。前に見た跡より輪郭がはっきりしていて、泥がまだ乾ききっていなかった。
大きさや靴底の模様を見比べた。水のたまりの縁に二種類。少し離れた岩陰にも、違う跡が二種類ある。あの四人かもしれない。
水の中をのぞくと、大きな鱗が減っていた。川底の石に混じって残るのは、小さいものが多い。
誰かが選んで拾ったように見えた。秋には、雪の前にもう一度入る者もいる。宿の主人が言っていた。
棚の上の竜たちは、今日もこちらを見ていない。俺は水辺から離れ、足跡の続く方を見た。
谷の奥へ向いていた。
鱗を拾うなら、ここにある。奥にも探しに行ったのか。それとも、拾うだけではないのか。
石の上で跡が途切れた。少し先の砂に、また靴の跡があった。見える範囲では二種類だ。ほかの二種類がどこへ向かったかは分からない。
顔を上げたとき、岩と岩のあいだに黒い縁が見えた。
*
鋼の罠だった。
川へ下りる道筋に置かれ、周りの石で隠してあった。一つの石の下から、鋼の歯が少し出ている。ティオが匂いを教えなければ、俺はそのまま山道へ向かっていただろう。
手を伸ばしかけて、止めた。
外さず知らせること。北の森で、ガレスさんに言われた言葉だった。
罠の脇にしゃがみ、まず見た。黒く塗った鋼。留め金が二つと、ちょうつがい。踏み板の左右に、開いた歯がある。雪の上で見たものと、形がよく似ていた。歯は長く、人の足を狙う大きさではない。鹿か、それより大きな獣のものだ。
留め金の頭が、片側に少し寄っているように見えた。
留め金とちょうつがいに癖がある。王都の工房の仕事だと、イルサさんは言っていた。
俺には、同じ工房かどうかまでは分からない。あの人が見分けた癖を、全部覚えているわけでもない。それでも、種まきのデメテスの月に、町の石積みで見た壊れた罠も思い出した。
北の森。山道の入口。そして、この谷。
やはり、あの四人かもしれない。
ルーチェの髪も目も見た連中が、近くまで来ているのかもしれない。そう思うと、背中の方の岩まで気になった。誰か出てこないか、罠から目を上げて確かめた。
人影は見えない。川の音だけがしていた。
戻って、ルーチェに知らせよう。だが、そのあいだにティオがこの道を通ったら。
俺はもう一度、罠の歯を見た。
知らない仕組みに手を出すのが危ないことは分かっている。ガレスさんもイルサさんも、ここにはいない。それを理由にしていいのか迷いながら、俺は近くの石を引き寄せた。
歯が動かないように支え、張りのかかっている金具を確かめた。思ったようには緩まない。小刀の背を当てていた手を何度も離し、そのたびに指を握って開いた。
ようやく張りを逃がし終えたときには、膝が冷えていた。長い枝の先で踏み板を押しても、歯は開いたままだった。
一つは、動かなくなった。
立ち上がってからも、しばらく指先が震えていた。
*
岩棚へ戻り、ルーチェに罠のことを伝えた。下山はやめたとも言った。
「ティオにも知らせてくれ。川へ下りるところにあった。ほかにもあるかもしれない」
——分かった。レイはどうするの?
「近くを見る。お前たちは、あの道へ下りないでくれ」
ルーチェは川原のティオを呼んだ。俺は二頭が岩棚の下で向かい合うのを見てから、川に沿って歩いた。
二つ目は、一つ目より少し上流にあった。
三つ目は川の反対側。ティオがいつも腹をつけている石の、すぐ脇だった。
石の上は空いていた。ルーチェの方を見ると、ティオはまだ岩棚の下にいる。
俺はしゃがんだ。さっきより手が冷えていた。朝の寒さだけではなかった。
ティオは毎日、この石にいる。ここで寝て、起きると川へ水を飲みに下りる。罠は、その足が通るところへ置いてあった。
三つとも、そうだった。
たまたまではないように思えた。どこを歩くか、見ていたのかもしれない。北の森で、集落を見下ろす場所に寝床が作られていたことを思い出した。
三つ目を動かなくしても、探すのをやめられなかった。
四人だから罠も四つ、とは限らない。北の森では六つ見つかった。三つで終わりだと、どうして言える。
岩のあいだ、砂のたまったところ、不自然に石の重なったところ。上流へ歩き、戻って、反対側からも見た。
次は見つからなかった。
日が山に隠れた。谷の底が暗くなり、石の隙間をのぞいても見えにくくなった。俺はそこで探すのをやめ、岩棚へ戻った。
*
「足跡は、四人ぶんくらいあった」
火のそばで鍋を煮込みながら言った。ルーチェは人の姿で、椀を持って待っていた。
「あの四人?」
「かもしれない。罠も、北の森のと似てた」
「ほかにもあったの?」
「三つあった。どれもティオが通るところだった」
ルーチェは椀を置いた。
「三つとも?」
「ああ。動かなくした。でも、まだあるかもしれない」
この子は火を見ていた。繋がりの向こうが硬くなっている。デメテスの月に、宿で四人の話を聞いたときとは違った。あのときは怖さが先に来た。今は、怒っているのが分かった。
「わたしは、逃げない」
「逃げろとは言ってない」
「じゃあ、どうするの?」
俺は鍋を火から少し離した。答えを考えるあいだにも、鍋は煮えていく。
ここから離れることも、考えた。だが、ルーチェを連れて出ていけば、ティオの道に置かれた罠は残る。かといって、この子を人と戦わせるつもりもなかった。
「明日、まだ罠がないか探す。人を見つけても、追わない。見えたところを教えてくれ」
「レイもだよ」
「……ああ」
ルーチェは少し俺を見てから、頷いた。
「わたしも、上から探す」
「飛んでか?」
「いつもと石の色が違うところなら、分かるかもしれない」
この子は毎日、谷を上から見ている。俺が川原を歩いて見落としたところも、そこからなら見えるかもしれなかった。
「……頼む」
「うん」
差し出された椀に、煮込みをよそった。
食べ終わると、ルーチェは竜に戻って岩棚の縁に腹をつけた。ティオも上がってきて隣に寝そべった。いつもより近く、赤茶の背中が金色の胸に触れそうだった。
俺は火に薪を足した。
腰には短剣が二本ある。ガレスさんにもらったものと、ルーチェの爪から作ってもらったもの。罠を前にして使ったのは、魚や肉を切ってきた小刀だった。
相手が人だったら、どうする。
鞘に手が触れた。俺はそこから手を離し、火の向こうを見た。
翌朝、ティオが岩棚から川原へ下りていった。ルーチェが首を上げ、そのあとを目で追った。
三つは動かなくした。
まだ見つけていないものがあるかもしれない。俺は鞄を置いたまま、川原へ向かった。




