一息で三日と、減った糸
三日歩いて谷へ戻り、岩棚の脇に土のある場所を探した。
棚そのものは岩で、杭は入らない。裏手には斜面から落ちた土がたまり、草が生えているところがあった。足で踏むと硬く、雨で流れた跡もない。
杭の先を当て、石で頭を叩いた。鉄の音が谷に響いた。棚の上の竜たちは首も上げず、ティオだけが川原からこちらを見ていた。
半分ほど埋めて手を止めると、ルーチェが岩棚の縁から首を伸ばした。俺が町へ下りているあいだも、この近くでティオと眠っていたそうだ。
——それに、わたしの鱗が入ってるの?
「ああ。中にある」
——どこにも見えないね。
「見えないように作ってくれたんだ」
——……トーマ、すごい。
「そうだな」
頭に手を置き、送る前の印を探した。宿で確かめたときと同じものが、まだ残っている。
町の石積みと、この岩棚。歩いて三日かかる二つの場所に、鱗を入れた杭が立った。
*
翌朝も、谷の杭の印は残っていた。
北の森の雪に置いた印は、翌日には残り、三日目に消えた。杭の中の鱗には、送ってからここまで印が残っている。それでも土に打って、外へ置きっぱなしにするのは初めてだった。
二日目と三日目も確かめたが、印は消えなかった。
小屋で試したときは、鱗をルームへしまい、何日か経ってからまた外へ出した。今度は木の中に入れたまま、谷の夜も雨も越した。
町の杭も、残っているかもしれない。
俺は岩棚に腰を下ろした。町を出てから六日経っている。歩いて確かめに行けば、帰るまでに、また何日もかかる。
目を閉じて、石積みの陰を思い浮かべた。それだけでは何も起こらない。鱗へ置いた印の感覚を探した。
ずっと遠くに、細いものがあった。
ルーチェとの繋がりほど、はっきりしない。それでも、宿で二本の杭を握ったときの感覚が、遠い端に引っかかっていた。
*
「町の杭まで、飛んでみる」
ルーチェは、岩棚の縁に腹をつけていた。俺が言うと、首をこちらへ向けた。
——今から?
「ああ。お前のところへ飛んだのと同じように、あっちの印をたどる」
しばらく返事がなかった。金色の鼻先が、俺の膝の近くまで下りてきた。
——遠いよ。
「遠いな」
——小屋の裏で試したときも、膝をついてたよ。
あのときは、小屋の裏から戸口までだった。ここから町までの道とは、比べものにならない。
「……だから、どれくらい違うか確かめたい。できなかったら、歩く」
——できても、歩いて。
俺は答えなかった。
ルーチェも、それ以上は言わなかった。鼻先を俺の隣へ下ろした。繋がりの向こうから、嫌だという感じが来ていた。怖さも混じっている。
感じているのに、俺は目を閉じた。
石積みの陰。半分ほど土に埋めた鉄の杭。その中にある鱗へ、俺が残したもの。
遠い端を、もう一度探した。細いが、ある。
掴んだ。
*
目の前に、石積みがあった。
足元には杭の頭が出ている。陰になった土も、打ち込んだときについた跡も、そのままだった。
町だ。
三日歩いた道がなかった。尾根も、野営した二晩も飛び越えて、俺はここに立っていた。
立っていられたのは、一息だけだった。
膝から力が抜けた。手をつくより先に肩が石積みにぶつかり、土の上へ倒れた。
小屋の裏で試したときとは違う。あのときは膝をついて、息を整えることができた。今は、顔を上げる力もなかった。
息を吸おうとした。胸が少し動いただけで、次が続かない。浅い息を繰り返しながら、土の匂いをかいでいた。
体の中が空だった。魔力を使いすぎたときの、何かを出そうとしても何も残っていない感じ。それが腕にも脚にも広がっていた。
空なら、入れればいい。ルーチェが卵のときにやったように、周りの魔力を集めた。
入った、と思った次の瞬間、地面が傾いた。土は動いていないのに、頭の中だけが回る。胃がせり上がってきて、俺は集めるのをやめた。
空の器に、急いで注ぎすぎたらしい。少しずつなら入る。けれど、出ていった速さとは比べものにならなかった。
ルーチェとの糸が、細い。
向こうから何か来ているのは分かった。だが、何が来ているのかは受け取れない。たどろうとすると、頭の奥がぼやけた。
石積みの影が動いた。顔に日が当たっても、避けることができなかった。近くを通る足音は聞こえない。俺は土の上で、ただ息をしていた。
昼を過ぎて、ようやく指が動いた。
手を引き寄せ、杭へ伸ばした。頭に触れると、印が感じられた。
町に置いてきた方も、消えていなかった。
確かめたかったことは、それだけだった。俺は手を下ろし、また土に頬をつけた。
*
日が傾くまで、そこにいた。
立てるようになっても、石積みから手を離すと足元が揺れた。歩いて三日の道へ戻れる体ではなかった。
町はすぐそこだ。宿まで行って休めばいい。買い物も手紙を出す用事も、六日前に済ませてある。急いで何かをする必要はない。
そう考えて、山の方を見た。
ルーチェに、戻るのが遅くなると伝えられない。あの子から来るものは、まだ薄くしか感じられなかった。俺から何を思っても、それが言葉として届くとは限らない。
できても、歩いて。
朝の声を思い出した。もう一度飛ぶのは、あの子がいちばん嫌がることだ。それでも、顔を見せれば安心させられると思いたかった。
俺は町へ向けていた足を止めた。
朝より体が戻ったから大丈夫だと、言えるはずがない。立てるようになっただけだ。分かっているのに、岩棚の杭を思った。
その端も、たどれた。細くて、力を込めたら見失いそうだった。
俺はそれを掴んだ。
*
岩棚の裏へ戻った。
立った覚えはなかった。杭が見えたと思った次には、土が顔の横にあった。
——レイ!
声が遠い。すぐそばに金色が下りてきて、鼻先が頬に触れた。それでも、声だけは遠かった。
——レイ、こっちを見て。
「……いる」
言えたかどうか、自分では分からなかった。
——糸が、細くなった。
ルーチェの声が震えていた。
——朝、レイが消えたときに、急に細くなったの。それからずっと。切れるかと思って、ここで握ってた。
ここで。
俺が石積みの陰で動けずにいたあいだ、この子もずっとここにいたのだ。
「……切れなかった」
——でも、今がいちばん細いよ。
それ以上、目を開けていられなかった。
ティオの足音が近づいてきた。石を踏む音を聞きながら、俺は何も言えなくなった。
*
目が覚めたのは、翌日の昼だった。
岩棚の上で、上着にくるまっていた。自分でここへ上がった覚えはない。ルーチェが人の姿で、枕元に座っていた。
「……起きた」
「起きた」
「昨日から、ずっと寝てたよ」
「……そうか」
肘をついて起きようとすると、腕が震えた。あきらめて頭を戻した。口の中が乾いていた。
ルーチェが水を持ってきてくれた。体を支えてもらい、少しずつ飲んだ。椀を返しただけで疲れた。
昨日の昼から、酔わないように少しずつ集めてきた。それでも、この程度だった。
糸は、昨日よりは感じられる。それでも、町へ飛ぶ前のようには戻っていなかった。
「レイ、歩いて」
俺は、この子を見た。
「……ああ」
「できても、って言ったよ」
「聞いてた」
聞いて、そのまま飛んだ。帰りは宿で休めたのに、もう一度飛んだ。
「町で休めばよかった。帰ってくれば、お前が安心すると思った」
ルーチェは俺の手を取った。何も言わず、指を握っていた。
「……ごめん」
すぐには返事がなかった。俺も、次の言葉を探すのをやめた。
三日の道を、一息で越えられた。それは本当だった。だが、朝に谷を出てから、次の昼まで、ほとんど何もできなかった。あの子に顔を見せたあとさえ、起きて話すことができなかった。
少し経って、ルーチェが口を開いた。
「雪が来たら、どうするの?」
町へ行く道が閉じたら、この杭を使おうと思っていた。月に一度、手紙を出せればいいと。だが、間を空ければ大丈夫なのかも、まだ知らない。
「そのときは、また一緒に考える。行けても、すぐには帰れない。今日みたいには、しない」
「雪が来るまでは?」
「歩く」
ルーチェは頷いた。俺の手を置き、ずれていた上着を肩まで引き上げた。
「……雪が来ても、お手紙を出せるといいね」
「ああ」
「アリア姉たち、待ってるもんね」
俺は頷いた。帰ってくるまで、ここで待つ。リーナも、そう書いていた。
手紙を出しに行きたい。次に飛ぶことを考えるなら、出して、帰ってきて、この子と話せるところまで考えなければならなかった。
岩棚の下で、ティオが石を鳴らした。ルーチェはそちらを見てから、また俺の隣に座った。




