谷で過ごす夏と、拾わない手
夏の谷は、日陰へ入ると涼しかった。
日が底へ届くのは遅く、山の向こうへ隠れるのは早い。それでも昼の川原の石は熱くなった。ティオはその上へ腹をつけ、目を細めていた。
ルーチェは、朝飯を終えると服を脱いだ。
岩棚から川原の広いところへ下り、竜の姿へ戻る。谷へ来たばかりのころより、その姿でいる時間が増えていた。翼を一度広げてから、道の方を見る。
人影も煙もなかった。
金色が浮き上がった。谷を囲む山より低いところで大きく回り、川の上を通っていく。ティオが目を開け、その動きを追った。
ここへ来て二か月ほどになる。暮らしている岩棚の周りで、人に会ったことはなかった。ルーチェはここではあまり人の姿にならず、竜のまま火のそばへ座ることも増えた。
ただ、町へ行く布まで捨てたわけではない。山の別の道から人が来るかもしれないという、宿の主人の話も覚えていた。
俺は空をもう一度見て、岩の上に広げた薬草へ手を戻した。
*
谷の斜面には、細く硬い葉の草が生えていた。
日の当たる岩の隙間で見つけたものだ。葉の形を見てから、鑑定を通した。
【イワヨモギ/高地の岩場に自生。葉をもんで傷に当てれば血が止まる。ハイマツヨモギに近い】
ハンナ婆さんの袋を開け、粉を少し紙へ出した。採った葉を指でもみ、それぞれ匂いを確かめた。
似ていた。けれど、今もんだ葉の方が鼻へ強く残った。乾かした粉と、生の葉の違いもあるのだろうか。
婆さんの棚で教わったように、葉の裏も見直した。近いと出ても、同じ量で同じように使えるかまでは分からなかった。二つを混ぜず、採った方には名前を書いた紙を添えた。
手元へ影が走った。
顔を上げると、金色の下を赤茶が飛んでいた。ティオも寝るのをやめたらしい。ルーチェが曲がると、そのあとを追って翼を傾けた。
俺はしばらく二頭を見ていた。谷へ入る前には飛ぶ場所を探し、何度も道を振り返った。今は、同じ岩棚からいつもの飛び方を見ている。
ルーチェがこちらの上を通ったので、片手を上げた。首が少しこちらへ向き、またティオの方へ戻った。
*
夏の盛りの、ハイラの月に、二度目の下山をした。
今度も俺だけで行った。ルーチェは谷に残り、夜も竜の姿でティオたちと外で眠る。町へ下りて、買い物をして、戻るまで七日。出る前にその日数を伝えると、頷いて見送ってくれた。
荷はまだ届いていなかった。
手紙を出し、塩と粉を買い足した。宿の主人は、四人組も見ていないと言った。それ以上のことは分からなかった。
帰りに谷の底へ下りたところで、水の流れが緩い場所を見つけた。
川が大きく曲がり、その内側に石がたまっていた。流木や折れた枝が引っかかっている。その間に、薄いものが何枚も沈んでいた。
鱗だった。
岩と同じ灰色で、大きいものは手のひらほどある。爪ほどの小さなものも混じっていた。水が揺れると、縁だけが鈍く光った。
俺は岸にしゃがんだ。
乾いた泥に、靴の跡があった。端が崩れ、底の模様ははっきりしない。少し離れた石の間には、羽根のついた短い棒が引っかかっていた。折れた矢の後ろ側のようだった。
人が来た跡だろう。けれど、いつ歩いたものかまでは分からなかった。
周りを見た。川の音が続いているだけで、人影はなかった。
鱗を拾いに来たのだろうか。四人組の跡なのか、ほかの人なのかも、俺には見分けられなかった。
*
水の中に、何十枚もあった。
港町で聞いた、金貨二枚という声が浮かんだ。目の前の鱗が同じ値段なのかは知らない。それでも、売りに来る人がいる理由は分かった。
袋は持っている。浅いところのものなら、靴を濡らさずに取れそうだった。
俺は水へ伸ばしかけた手を止めた。
トーマへ送った三枚も鱗だった。ルーチェが落としたもので、杭へ使っていいか聞いてから包んだ。今ごろ、どこまで運ばれているだろう。
目の前のものは、どの竜のものかも分からない。上流から流れてきたのか、その場で落ちたのか。持っていっても、誰も気にしないかもしれなかった。
けれど、拾ってはいけない気がした。
俺は袋の口に触れていた手を離した。立ち上がり、膝についた土を払って道へ戻った。
鱗も、折れた矢も、そのまま残した。
*
岩棚が見えるところまで来ると、空に金色と赤茶がいた。片手を上げると、ルーチェがこちらへ向きを変えた。
先に岩棚へ上がり、鞄を下ろした。二頭は大きく回ってから、川原へ向かって降り始めた。
俺は荷を下ろし、火を使う場所から落ち葉を払った。
足元に、金色のものがあった。
鱗が一枚。手のひらの半分ほどで、前に送った三枚より大きかった。岩棚の奥、ルーチェがよく腹をつけるところに落ちていた。
拾い上げ、明るい方へ向けた。薄い縁に光が通る。ひとまず布の上へ置き、風で飛ばないよう包んだ。
ルーチェがそばへ来た。ティオより大きな姿のまま、鼻先を俺へ近づける。
——おかえり。
「ただいま。荷はまだだったよ」
——うん。待ってるあいだ、ティオがまたお肉を持ってきた。
「そうか。あとで見せてくれ」
首の付け根へ手を置いてから、布を広げた。
「ここに落ちてた。お前の鱗だと思う」
金色の鼻先が近づいた。
——うん。わたしのだね。
「これも預かっていいか?」
——いいよ。また、杭にするの?
「まだ決めてない。服の内側へ入れられたら、身を守る役にも立つかなと思ってる」
——レイが着るの?
「ああ。使える形にできればな」
ルーチェは鱗を見てから、俺を見た。
——じゃあ、使って。
「ありがとう」
人が来ていないのを確かめ、ボックスから空の布包みを出した。三枚をトーマへ送ってから、何も入れていなかった包みだった。そこへ一枚を移し、包み直してボックスへ戻した。
トーマに頼んだのは、杭と爪を使う刃物だ。上着は頼んでいない。鱗をどう留めるかも、俺にはまだ分からなかった。
今は、折らずになくさず、取っておこうと思った。
*
翌日も、ルーチェはティオと飛んだ。
二頭が休みに降りるたび、俺は薬草を干す場所を少しずらした。風で葉を飛ばされたくなかった。ルーチェも覚え、岩棚から離れたところで翼を動かすようになった。
夕方、金色が川原へ降りた。少し遅れてティオが着地し、そのまま石へ腹をつける。ルーチェは俺の方へ歩いてきた。
——レイ、今日は、ずっとこの形だった。
「朝から、竜のままだったな」
——うん。ティオの前でも、小さくしなくていい。
首を下ろし、俺と目の高さを合わせた。
——隠さないの、楽。
「そうか」
——でも、なんか、足りない。
俺は葉を包む手を止めた。
「何が?」
ルーチェは少し考えて、首を横に振った。
——まだ、分からない。
俺も、すぐに答えられることはなかった。空を飛びたいと言っていたこの子が、今日は好きなだけ翼を動かしていた。それでも足りないものがあるらしかった。
「飯にするか?」
——うん。
ルーチェが人の姿に戻り、服を着た。俺は鍋を火から下ろし、椀を二つ並べた。さじを渡すと、この子は指の間で一度持ち直した。
「レイ、頭の布は、どこ?」
「鞄の底。預かったまま、しまってある。要るか?」
「ううん。今は、いらない」
ルーチェは椀を受け取り、豆をすくった。
布を出しかけた手を戻し、俺も隣へ座った。火の向こうでは、ティオが目を閉じている。
布は鞄へ入れたままにしておいた。




