一度目の下山と、まだ届かない荷
谷へ来て、ひと月が経った。
朝、ルームの食卓で紙を広げ、昨日の線の横へ一本足した。エンデの宿では月に一度くらい下りると言った。手紙を出す日を忘れないよう、夜ごとに印をつけていた。
雨の多い、ヒンメルの月に入っていた。谷でも、午後になると山の向こうから雲がかかる日が増えていた。
俺は手紙を一通、鞄へ入れた。その脇には空の袋を二つ。塩と粉を買い足すためのものだった。
外へ出ると、ルーチェは竜の姿で岩棚の縁に腹をつけていた。隣にはティオがいる。俺が荷物を持ち上げると、金色の首がこちらへ向いた。
——三日で、町に着く?
「道が前と同じならな。三日で下りて、一日買い物をして、三日で戻る。七日くらいだ」
——七日か。……長い。
ルーチェが繰り返した。俺も鞄の紐を握ったまま、この子を見た。
旅に出てから、自分たちで決めて七日も離れたことはなかった。迷い穴では、この子をルームに閉じ込めたまま戻れなくなった。今度は、谷へ残していく。
「……ルームに入るか?」
——入らない。
返事はすぐに来た。
——ここで、待つ。ティオといる。
「夜も、外になるぞ。俺がいないと、ルームは開かない」
——うん。あの岩のかげで、竜のまま寝る。
ルーチェが川原の奥を見た。風を避けられる岩陰があり、ティオもよくそこで腹をつけていた。ほかの棚にも、丸くなった竜がいる。ここは竜の巣だった。
——待つのは、嫌いだけど。
顔が俺へ戻った。
——ここなら、待てる。
「分かった。戻ったら、ここで会おう」
ルーチェが頷いた。俺は首の付け根へ一度触れ、鞄を背負った。
*
岩棚を下り、川原の石を踏んで道へ向かった。
振り返ると、金色と赤茶が並んでいた。ルーチェの方が少し大きい。ティオは鼻を鳴らしたあと、また腹をつけた。
——レイ、行ってらっしゃい。
足が止まった。
谷へ着くまでは、次の場所へ行くときも二人で荷をまとめていた。今は、この子を向こうに見ながら、俺だけが出ていく。
「……行ってきます」
手を上げると、ルーチェも首を上げた。俺はもう一度頷き、山道へ足を向けた。
*
繋がりは、離れても感じられた。
尾根を越えるころには、そばにいるときより細くなっていた。それでも、向こうにこの子がいる感じは残っている。言葉までは分からなかった。
俺は足元へ目を戻した。沢の水が増え、雨で土が崩れたところもあった。道を確かめながら下り、夜は人目のない場所から一人でルームへ入った。
寝床を見ると、何もいなかった。
当たり前だと思いながら、毛布を敷く場所を少し迷った。いつもルーチェの隣にしていたところへ、結局そのまま敷いた。
三日目の夕方、町の屋根が見えた。
荷馬車が一台止まっていた。宿の前には男の人が二人いて、荷の上へ布を掛け直している。俺を見ると、そのうちの一人が道を空けた。
人に目を向けられるのも、ひと月ぶりだった。隣を確かめかけて、今日は布の結び目を見る必要がないことを思い出した。
俺は宿の戸を開けた。
*
「来たか」
主人が帳場から顔を上げた。
「はい。泊まりたいんですが」
「空いとる。荷は、まだないぞ」
聞く前に言われた。俺は頷いた。
春に包みを託してから、ようやくひと月あまりだ。アシェンへ届くまでに、月が二度満ちるくらいはかかると思っていた。着いていても、トーマが作って、こちらへ送り返す時間が要る。
分かっていたが、帳場の下へ一度目が行った。
「手紙をお願いします」
ヒンメルの月のぶんを、鞄から出した。谷へ無事に着いたこと、竜に会ったこと、ティオと名づけたことを書いた。送り先は前の手紙で知らせてある。今回も、この宿で受け取るつもりだと添えておいた。
主人は運び賃を数え、手紙を箱へ入れた。
「荷の方も、引き続きお願いします」
「名前は書いてある。来たら取っとく」
「預かり賃は、受け取るときでいいんですよね?」
「ああ。届いた月から、ひと月ぶんずつだ。まだ来とらんから、今は要らん」
俺は礼を言い、泊まるぶんの銅貨を払った。
*
翌朝、塩と粉を買った。
谷では塩が減る。豆にも使うし、ティオが持ってくる肉を焼くときにも使っていた。なくても食べられるが、少し振るだけで味が違う。
「山の上へ持っていくのかい?」
女主人が塩の袋を台へ載せた。
「はい。ひと月くらい暮らせるぶんを」
「一人ぶんかい?」
「二人です。妹が上にいます」
女主人は頷いて、塩を量った。
妹、と言った。外の人へ話すときの言い方だった。ルーチェと、妹じゃなくても家族だと話したことを思い出した。
粉と豆も買い、干した果物を少し足した。これはティオに取られないよう、出すたびに袋を閉めようと思った。
宿へ戻り、裏の炊事場で豆を煮た。
椀は一つでいい。さじも一本だけ置いて、鍋の前へ座った。
塩を足し、ひと口食べた。向こうから、どうだったと聞く声はしなかった。
ルーチェの食べ物は、出発前に谷へ出しておいた。今ごろティオと何をしているだろう。繋がりを確かめても、姿が見えるわけではなかった。
俺はもう一口すくった。鍋には、まだ少し多く残っていた。
*
次の朝、荷を背負って帳場へ挨拶に行った。
主人は俺を見てから、山の方へ目をやった。
「この前話した四人は、うちには戻っとらん」
「まだ山にいるんでしょうか?」
「さあな。南へは、この町を通らんでもいけるからな」
「秋にも、山へ入る人は来ますか?」
「来る年はある。雪の前に、もう一度拾いに行く奴がな。あの四人がどうするかは知らん」
主人は帳面を閉じた。
「上に長くいるなら、帰りの道を忘れるな。雪が降り出してからでは遅いぞ」
「はい。ありがとうございます」
外へ出て、山を見上げた。
四人が北の森の男たちと同じなのか、まだ分からない。けれど、谷からいなくなったとも言えなかった。戻ったらルーチェにも伝えようと思った。
*
谷へ戻るのに、三日かかった。
最後の尾根を越えると、繋がりが近く感じられた。川を見下ろすところまで来ると、金色の首がこちらへ向いた。
足を速めた。石の多い下りで一度滑りかけ、歩幅を戻した。向こうにはもう見えているのに、着くまでにはまだ歩かなければならなかった。
岩棚の手前で、ティオが顔を上げた。その隣に、ルーチェがいた。
ティオより、大きかった。
——おかえり。
「ただいま。ルーチェ……お前、デカくなったな」
荷馬車ほどのところを越えた体が、川原の広い場所に腹をつけていた。ルーチェは前脚を見てから、隣のティオへ顔を向けた。
——あ。小さくするの、忘れてた。
「その大きさで過ごしてたのか?」
——うん。寝るときも。ここなら、ぶつからないから。
七日で急に大きくなったのではなかった。尾根で飛んだときにも、この子は大きな姿になれた。今は飛ぶためでなく、休むときも小さく保っていなかった。
俺は鞄を下ろし、首の付け根へ手を置いた。鱗の下は、いつもと同じように温かかった。
「待たせたな」
——うん。長かった。
「荷は、まだだった」
——そっか。何か買ってきた?
「ああ。いろいろ買ってきた。果物も」
ルーチェの目が鞄へ動いた。ティオも鼻を近づけてきたので、俺は袋を抱え直した。
「先に飯にしよう。町で聞いた話もある」
——うん。
ルーチェは少しずつ体を縮め、人の姿へ戻った。服を渡すと、袖を通して俺の隣へ座った。
火をおこし、鍋に水を入れた。荷物から椀を二つ出す。七日ぶりに、二つ並んだ。




