名前のない竜と、呼んで振り向いた音
赤茶の竜は、朝になると来た。
川原の石を鳴らして歩いてきて、ルーチェのそばに座る。俺が鍋を運んでいれば、顔を上げることもある。谷へ来て五日で、その姿を見るのが当たり前になっていた。
夜、俺たちがルームへ入ったあと、どこで眠るのかは知らない。朝に来る方角も、いつも同じとは限らなかった。
ほかの竜は近づいてこなかった。
俺たちは初日に荷を置いた岩棚を、そのまま使っていた。長老らしい竜が頭を下げたあとも、追い払われることはなかったが、集まってくることもない。
赤茶の竜だけが、今日も鞄へ鼻を寄せていた。
「レイ、この子、ご飯が出てくるのを待ってる」
ルーチェは人の姿で、火のそばに座っていた。赤茶の竜が鼻で鞄を押したので、俺は持ち上げた。
「こっちの朝飯だぞ」
「レイが袋を開けると、食べ物が出てくるって、覚えたみたい」
上げた鞄を、鼻先が追ってくる。
「俺を、餌の袋だと思ってないか?」
「……そうかもしれない」
ルーチェが笑った。
干した果物は、もう外へ置かない。吐き出された残りを片づけてからは、食べるぶんだけ手元へ出すようにした。それでも鞄の匂いは気になるみたいだった。
俺が岩の奥へ置き直すと、赤茶の竜も少し近づいた。
「これは、やらない」
鞄の前に立った俺を見て、鼻を鳴らした。声の意味は分からない。しばらくして、ルーチェのそばへ戻っていった。
俺はようやく鍋を火にかけた。
*
「レイ、この子には、名前がないんだって」
その日の昼、ルーチェが言った。
赤茶の竜は岩棚の下で、丸い石を転がしていた。前脚で押し、追いかけ、また押す。川へ落ちそうになると、鼻先で向きを変えていた。
「聞いたのか?」
「うん。でも、名前って何だって、聞かれた」
「ほかの竜は?」
「ここでは、名前で呼ばないみたい。あの大きい竜も、いちばん古いのって言うだけ」
長老というのは、俺が当てた呼び方だった。ルーチェが聞いた言い方も、名前ではないらしい。
赤茶の竜が石へ顔を寄せた。短い声がしたので、ルーチェが岩棚から何か答えた。向こうはそのまま石を転がし続けた。
「今も、呼んだんじゃないのか?」
「うん。こうすれば、分かる。でも、レイにも分かる呼び方がほしい」
ルーチェは膝を抱えた。
「わたしが名前を呼んだら、あの子が振り向くのがいい」
石が転がる音を聞きながら、俺も隣へ座った。
「じゃあ、お前がつけてみたらどうだ?」
「わたしが?」
「一番よく話してるだろう」
ルーチェは川原を見たまま考えていた。それから、こちらへ顔を向けた。
「わたしの名前は、リーナが本から見つけたんだよね」
「ああ。古い言葉で、光っていう意味だって」
「みんな、食堂にいた。ニナは、パンがいいって言った」
思い出して、笑ってしまった。
「黒板の隅に、残ってたな」
食卓の真ん中には、わらを敷いた籠があった。その中の金色を囲んで、みんなが好きなことを言っていた。リーナが本を見せると、それまで首を横に振っていたトーマも、初めて頷いた。
俺は籠をのぞき込み、ルーチェ、と呼んだ。どうだと聞いたら、頭の中へうれしい感じが弾けてきた。
「今日は、みんながいないね」
ルーチェが膝の上へあごを載せた。
「そうだな」
「レイが、考えてくれる?」
「俺か?」
「うん。わたしも、一緒に呼ぶ」
川原では、石がまた一つ転がった。赤茶の竜はこちらの相談など知らず、前脚を伸ばしていた。
*
俺一人で名前を考えたことは、あっただろうか。
ルーチェのときには、リーナが見つけた名前をみんなで選んだ。あの本はここにはない。竜を見れば何か浮かぶかと思い、川原へ下りた。
赤茶の竜が顔を上げた。俺の脇へ鼻を伸ばし、鞄がないと分かると、また石へ向き直った。
少し離れてしゃがんだ。
赤茶で、馬ほどの大きさ。干した果物は気に入らず、火をじっと見ている。ルーチェには、自分から会いに来る。
この竜のことを、まだそれくらいしか知らなかった。
「……ロカ」
思いついた音を口にしてみた。顔は上がらなかった。
「ノア」
今度も、石を見ていた。
「ラト」
前脚が石を押した。石は浅い水へ入り、そこで止まった。
名前を選んでいるのは俺だけだ。この竜には、ただ知らない声が続いているだけかもしれない。
少し間を置き、もう一つ呼んでみた。
「ティオ」
首がこちらへ向いた。
水に入った石から目を離し、俺を見ている。もう一度、同じ音を口にした。
「ティオ」
首が少し傾いた。
返事らしいものはなかった。頭の中へ何か流れ込んでくることもない。それでも、今は俺の声がした方を見ていた。
岩棚へ顔を上げた。
「ティオは、どうだ?」
ルーチェが膝から顔を上げた。口の中で一度確かめてから、川原へ向かって呼んだ。
「ティオ」
赤茶の竜が振り向いた。今度は首だけではなかった。石を置いたまま体を向け、岩棚の下まで歩いていった。
ルーチェが身を乗り出す。伸びてきた鼻先へ手を置き、もう一度名前を呼んだ。
赤茶の竜は鼻を鳴らした。ルーチェが低い声を返すと、そのまま岩棚の下へ腹をつけた。
俺は川原に残った石を見て、立ち上がった。
*
夕方、火のそばでルーチェが尋ねた。
「ティオって、どういう意味?」
「意味は、考えてない」
「ないの?」
「あいつが振り向いた音だよ」
ルーチェは少し考え、それから頷いた。
「じゃあ、いい」
「いいのか?」
「うん。呼んだら、こっちを見たもん」
俺も頷いた。
ルーチェの名前は、光という意味だった。長老らしい竜の言葉にも、光があった。ふと二つが重なったが、リーナがあの日見ていたのは、灯りの下で光る小さな竜だ。
名前を聞いてうれしそうに鳴いた、この子だった。
「リーナにも、知らせたいな」
「ティオのこと?」
「ああ。谷で会った竜に、名前をつけたって」
「わたしが呼んだら、来たことも書いて」
「それも書く」
ルーチェは満足そうに頷き、火の向こうを見た。
ティオは少し離れた石の上で寝そべっていた。ルーチェが竜の姿だと、もっと近くへ来る。人の姿の今は、鼻を伸ばせば届くくらいの場所にいた。
「寝ちゃった?」
「みたいだな」
目は閉じていた。尾の先が一度だけ動き、また止まった。
*
「レイ、わたし、名前をつけるほうは、初めて」
ルーチェが言った。
「考えたのは、俺だぞ」
「うん。レイが考えて、わたしも呼んだ」
「そうだな」
「でも、わたしのほうに来たね」
こちらを見る顔が笑っていた。
「俺には、首を向けただけだったな」
「悔しい?」
「……別に」
ルーチェが声を上げて笑った。ティオの目が薄く開き、すぐに閉じた。
俺が頼まれて考えたのに、呼び終えるとルーチェの方へ行ってしまった。少し残念ではあった。けれど、あのとき岩棚から身を乗り出したこの子の顔も、覚えていた。
「明日も、呼んでみよう」
「うん。レイのほうにも、来るかもしれないよ」
「鞄があればな」
また笑われた。
俺は火に薪を一本足した。ティオが寝返りを打ち、石がいくつか鳴った。名前が決まったからといって、こちらの言葉が全部分かるようにはならない。明日も果物は食べないだろうし、鞄へ鼻を入れに来るかもしれない。
それでも、もう赤茶の竜とだけ呼ばなくてよかった。
「ティオ」
ルーチェが、小さく呼んだ。
返事はなかった。眠っている背中を見ながら、この子は口元を緩めた。
俺も、もう起こさずにおいた。




