頭を垂れた長老竜と、よくわかんなかった言葉
朝、ルーチェは赤茶の竜と言い合いをしていた。
川原の石の上で二頭が向かい合い、短い声を交互に出している。ルーチェの尾が石を打つと、赤茶の尾も一度動いた。
原因は、干した果物だった。
エンデの町で買い足しておいたものだ。鞄から出して火の脇へ置いたところを、赤茶の竜が一つ口に入れた。すぐに吐き出し、その前へルーチェが首を伸ばした。
——わたしのなのに。
「まだ袋にあるよ」
——そういうことじゃない。
ルーチェがまた低く鳴いた。赤茶の竜は口を動かし、舌を出している。残りの果物を袋へ戻して口を結ぶと、今度は袋の匂いをかぎに来た。
「気に入らなかったんじゃないのか?」
俺の問いには答えず、鼻先で袋を押した。
昨夜は、食事のあとにルーチェとルームへ入った。赤茶の竜はその前に上流の岩陰へ去っていったが、今朝、外へ出て火をおこしていると、また現れた。
ルーチェはまだ竜の姿だった。近づいてくる相手に顔を向け、昨日より先に自分から声をかけた。そのときは、こんな言い合いになると思っていなかった。
俺は二頭の間から袋を引き上げ、鍋をかき混ぜた。
頭の上の岩には日が当たっている。けれど、谷の底はまだ冷たかった。棚の上の竜たちも、丸くなったまま動かない。
*
赤茶の竜が、ふいに首を上げた。
上流へ顔を向け、さっきとは違う声を出した。ルーチェの尾が止まる。
——いちばん古い竜が、来るって。
「昨日、奥にいた竜か?」
ルーチェがそちらを見た。俺も鍋から顔を上げた。
ほかの棚でも、竜たちが同じ方を向いていた。ときどき聞こえていた声がやみ、川の音がはっきり聞こえる。
上流の岩の間に、大きな頭が現れた。
昨日は暗くて、首の形しか分からなかった。今は、その後ろに続く体まで見えた。丘のようだった。川原をゆっくり進み、歩くたびに肩の上の翼が少し揺れる。
俺は立ち上がり、鍋を火から下ろした。目は上流を向いたままで、危うく熱い石へ指をつきそうになった。
体の色は、ほかの竜より深かった。湿った岩にこけが重なったような色だ。たたまれた翼の先にも、長い首にも、古い傷らしい線があった。
近づいてきて、目が見えた。
白に近い、薄い色だった。その目が川原をゆっくり見渡す。
俺の上を通った。鞄も、火も、ほとんど同じ速さで見ていく。赤茶の竜を過ぎ、その隣で止まった。
ルーチェを見ていた。
*
ルーチェは竜の姿で立っていた。
さっきまで果物の袋へ伸ばしていた首を上げ、相手を見返している。逃げようとはしていなかった。俺もすぐ横で、動かずに待った。
いちばん古い竜。谷の長老と呼べばいいのだろうか。
その大きな体が止まった。
しばらく何も起きなかった。薄い色の目と、金色の目が向かい合っていた。
やがて、長い首が下りてきた。
俺は思わず足を引いた。けれど、頭はこちらへ近づく途中で止まらず、もっと下へ動いた。ルーチェの前で、鼻先が川原の石に触れそうな高さまで下がる。
頭を下げている。
そう思ってからも、目の前の姿を見直した。この子がしたことといえば、昨日ここへ来て、俺の近くに座ったくらいだった。
見える範囲の竜は、じっとしていた。赤茶の竜だけが首を動かし、大きな頭とルーチェを交互に見ていた。
低い声が響いた。
これまで聞いたものより長く、体の奥へ響く声だった。足の裏にも震えが伝わった。俺はルーチェを見た。この子は少し首をかしげ、最後まで聞いていた。
声がやんだ。
長老の頭は、まだ下がっていた。
——レイ。
「……何て言った?」
——ふるきひかりの、けいふ。
俺は、その音を頭の中で並べ直した。
古き光の系譜。
「お前に、そう言ったのか?」
——うん。わたしを見てた。
生まれた朝に見た、鑑定の一行が浮かんだ。
エンシェントドラゴン。
伝説どころか、おとぎ話に出てくるような竜だと思った。正体が知られれば、何が起こるか分からない。だから家族の前でも、初めは言えなかった。
あのとき膝に載っていた子が、今、ここにいる。
古いという言葉は同じだった。けれど、それだけで目の前の竜が何を見ているのかまでは分からなかった。俺はルーチェの金色と、下げられた頭を見比べた。
*
「ほかにも、何か言ったか?」
ルーチェは、まだ相手を見ていた。
——……よく分かんなかった。
「聞き取れなかったのか?」
——聞こえたけど、うまく言えない。さっきの言葉も、どうしてわたしに言うのか、分からない。
ルーチェが顔をこちらへ向けた。
——どうして、頭を下げるの?
「俺にも分からない」
——わたし、何もしてないよ。さっきまで、果物のことで怒ってただけ。
俺は火の脇へ置いた袋を見た。それから、もう一度大きな竜を見た。
ルーチェが短く鳴いた。尋ねたのか、ただ声をかけたのか、俺には分からなかった。
長い首が上がった。
下りたときと同じように、ゆっくりだった。薄い色の目がルーチェを見て、それから俺の上を通った。今度も、そこで止まりはしなかった。
大きな体が上流へ向きを変えた。
俺は道を空けたまま見送った。岩の角へ頭が隠れてからも、長い背中と尾が続いていた。
棚の上で翼をたたみ直す音がした。別の場所から低い声が返る。赤茶の竜は、隣にいるルーチェの匂いをもう一度かいだ。
——また、変な竜だって。
「……まだ言うのか」
ルーチェが鼻を鳴らした。
俺は鍋を火へ戻した。すくった具には、まだ少し芯が残っていた。
*
スープが煮える間に、ルーチェは人の姿へ戻った。
服を着て、俺の隣へ座る。果物の袋を渡すと、残っていた一つを取り出し、口へ入れた。
「取られてないの、あった」
「先にしまったからな」
赤茶の竜は少し離れた石の上へ寝そべり、こちらを見ていた。もう袋へ手を出すつもりはないらしい。
俺はスープを椀へよそった。ルーチェが受け取り、さじで冷ましながら食べ始める。俺も隣で食べたが、何度か川の上流を見てしまった。
「レイ、あの子は、いつもと同じだね」
ルーチェが赤茶の竜を見ていた。
「そうだな」
「大きい竜が帰っても、わたしの匂いをかいでた」
「気になるんだろうな」
ルーチェは、自分の袖へ鼻を寄せた。
「火の匂いは、する」
俺も袖を見た。薪を拾い、火をおこして、鍋を動かした服だった。鼻を近づけると、確かに煙の匂いがした。
上流には、もう大きな姿は見えなかった。奥の岩の間に、薄い霧がかかっていた。そこまで見て、俺は椀へ目を戻した。
古き光の系譜。
言葉を思い返しても、ルーチェの生まれや、あの竜が頭を下げた理由が分かるわけではなかった。ルーチェも何か考えるように、椀の底に残った具をさじで寄せていた。
食べ終えると、こちらへ椀が差し出された。
「おかわり」
「まだ食べるか?」
「うん」
俺は受け取り、もう一杯よそった。湯気が顔へかかると、ルーチェは少し目を細め、さじを持ち直した。




