谷の入口と、こっちを見ない竜
谷は、山と山の間に深く落ち込んでいた。
山道に入って三日目の昼、尾根の道が下りに変わった。岩の角を曲がると、足元の先が大きく開けた。底に川が光り、その両側には岩の斜面が続いている。ところどころ、平らな棚のように張り出した場所があった。
その上の岩が、動いた。
俺は足を止めた。丸まっていたものが首を伸ばし、背中から翼を広げる。日に当たった表面が鈍く光った。
一頭ではなかった。隣でも、その上でも、岩だと思ったものが少しずつ動いた。十までは数えたが、奥を見ると、まだいた。
「レイ、いっぱいいる」
「……ああ」
ルーチェは静かな声で言った。昨日、空から見て変な感じがしたと話していた声に似ていた。
隣に立つこの子は、人の姿で手を繋いだまま、岩棚の竜たちを見ていた。俺も同じ方を見た。この子と同じ竜が、あそこに何頭もいる。
川沿いに家や人影は見つからなかった。ただ、岩の陰までは見えない。俺たちは道の先を確かめ、ゆっくり下り始めた。
*
近くで見る竜は、大きかった。
道の脇の岩棚には、家ほどもある一頭が横になっていた。首を岩へ載せ、翼を背中に重ねている。
鑑定をかけようとして、やめた。名前を知るより、今はこの道を通っていいのか知りたかった。足を緩めて様子を見たが、竜は動かなかった。
その前を通ったとき、目が開いた。
黄色い目だった。俺の方へ動いてきたので、肩に力が入った。
けれど、視線は俺の上を通り過ぎた。後ろのルーチェで少し止まり、また目が閉じた。
俺は息を吐き、先へ進んだ。何歩か行って振り返っても、首は岩に載ったままだった。
王都でも港町でも、子供二人で歩いていると目を向けられた。どこから来たのか聞かれた。ここでは、俺に気づいているのかさえ分からない。
見られないなら、その方がいいはずだった。それなのに、通り過ぎた目が気になった。
「レイ、聞こえる」
ルーチェが手を引いた。
「何が?」
「あの子たちの声」
耳を澄ますと、川と風の音に、低い響きが混じっていた。岩がこすれるような音だった。腹へ響いてから、耳に届く気がした。
「これか?」
「うん。何か、分かる」
「何て言ってるんだ?」
ルーチェは口を開き、少し考えてから閉じた。
「……うまく言えない。分かるところはあるのに、言葉にできない」
空いている手が、自分の胸元へ触れた。
生まれたときから、この子の感情は俺の頭へ流れ込んできた。初めは、うれしいとか、おなかがすいたとか、そういう感じだった。今は同じように、俺には聞き取れないものを受け取っているのだろうか。
「急がなくていい。聞いていたら、分かることもあるかもしれない」
「うん」
ルーチェはまた岩棚へ顔を向けた。歩く間にも、低い音が何度か谷を渡った。
*
底へ着いたころには、日が傾き始めていた。
川は思ったより広く、浅かった。白い丸い石の間を水が流れている。手を入れると、指の先がすぐに痛くなった。
竜のいる棚から離れたところで、川原より少し高い岩場へ上がった。奥には風を避けられそうな岩がある。周りを歩いてみたが、人や荷物は見当たらなかった。
「ここで休もう」
鞄を下ろすと、ルーチェも隣へ座った。頭の布をほどき、たたんで懐へ入れる。髪を両手で持ち上げて風を通し、ようやく肩を下ろした。
俺は火をおこす場所へ石を寄せた。乾いた細枝を置いたところで、ルーチェが川の上流を見た。
一頭、近づいてきていた。
馬ほどの大きさで、歩くたびに川原の石が鳴った。ほかの竜のような灰色ではない。さびた鉄に似た、赤茶の体をしていた。
俺は立ち上がった。ルーチェの前へ出ようとすると、この子も立ち、俺の横へ並んだ。
「ルーチェ」
「ちょっと、待って」
赤茶の竜は、俺たちの前で止まった。首を伸ばし、ルーチェの顔の近くで鼻を鳴らす。息に押され、金色の髪が後ろへ流れた。
匂いをかいでいるみたいだ。俺の方へは鼻を向けない。伸ばしかけた手をどうしたものかと思いながら、すぐ隣で待った。
竜が短く鳴いた。
ルーチェがきょとんとして、俺を振り向いた。
「……変な竜だって」
「お前のことか?」
「うん。今、そう言った」
赤茶の竜は、ルーチェの肩の辺りをかいでいた。人の姿をしているせいだろうか。けれど、竜だとは分かるらしい。
ルーチェは自分の手を見てから、上着へ触れた。
「レイ、服を持ってて。わたしも竜になる」
俺は頷き、脱いだ服を受け取った。布と一緒に岩へ置き、二頭から離れた。
*
金色の体が川原に広がった。
昨日の荷馬車ほどの姿までは大きくならず、馬ほどのところで止まった。ルーチェは赤茶の竜と顔を向き合わせ、首の高さをそろえた。
——このくらいなら、同じでしょ?
「ああ。同じくらいだ」
ルーチェが喉から低い音を出した。短く、終わりだけ少し高くなる音だった。
赤茶の竜が返した。またルーチェが鳴く。俺はたたみかけていた服を手に持ったまま、二頭を見ていた。この子がほかの竜と声を交わすのを見るのは、初めてだった。
やがて、こちらへ首が向いた。
——レイ、まだ変な竜って言ってる。
「そうか」
——ちゃんと竜になったのに。どうして?
「俺にも分からないよ」
赤茶の竜は、ルーチェの周りを一周した。翼の付け根に鼻を近づけ、それから石の上へ腹をつけた。追い払う様子はない。ルーチェも隣へ座り、相手の顔をのぞき込んだ。
俺は服を置き、細枝のところへ戻った。
乾かしたこけをほぐし、火打石を打つ。火がつくと、赤茶の竜が首を上げた。小さな炎を見て、俺の手を見た。
一度だけ、目が合った。
すぐに炎へ戻った。薪を足すと、首がその動きを追ってくる。俺より、手元の方が気になるらしかった。
——レイ、この子、人が火をつけるの、見たことないみたい。
「初めて見るのかな」
——わたしは、知ってる。
「いつも一緒に見てるからな」
ルーチェも炎へ顔を向けた。
——……それが、変なのかな。
赤茶の竜から返事はなかった。俺が鍋を置くまで、じっと火を見ていた。
*
日が山の向こうへ落ちた。
空にはまだ明るさが残っているのに、谷の底はもう暗かった。棚の上の竜たちは動かず、また岩のように見えていた。
そのとき、奥で大きな影が動いた。
川が岩の間へ隠れる辺りだった。山の一部かと思ったものが、ゆっくり首を上げた。暗くて全体の形は見えない。それでも、ほかの竜よりずっと大きいことは分かった。
低い響きが届いた。
棚の上で、いくつもの首が同じ方を向いた。赤茶の竜も腹をつけたまま、上流へ顔を向ける。
ルーチェだけが、火を見ていた。
——レイ、あれ、呼んでる。
「誰を?」
——分からない。でも、呼んでる。
俺は奥の影を見た。首を上げたまま、もう動いていなかった。
火へ薪を足すと、ルーチェがそばへ寄ってきた。その頭へ手を置いた。金色の目は、まだ上流へ向かなかった。




