昼の空の金色と、誰もいない山道
山道に入って半日が過ぎ、振り返っても町は見えなくなっていた。
道は岩の間を縫い、折り返しながら登っていた。道幅は狭く、車輪の跡はない。雪解け水が脇の溝を流れ、俺たちとは反対の方へ下っていく。
振り返ると、森の縁が見えた。その先は霞んでいる。町との間には、さっき越えた尾根があった。
「レイ、辺りには、もう人はいない?」
ルーチェが頭の布へ触れた。俺は道の上と下を見た。
「見えるところには、いないな」
町を出てから、すれ違った人はいなかった。それでも、曲がり角の向こうまでは見えない。先に登った四人が、どこにいるかも分からなかった。
「あの岩の陰で、休もうか?」
道から少し外れたところに、風の弱そうなくぼみがあった。二人で足元を見ながら入った。壁を張るときの感じを、薄く周りへ広げてみる。くぼみの奥まで、動くものはなかった。
鞄を下ろすと、ルーチェが布をほどいた。金色の髪が肩へ落ち、額に張りついていたところを指で離した。
「髪が蒸れてた」
「歩くと暑いな」
俺も襟元を緩めた。岩の切れ目から道が見える。水を飲み、息が落ち着くまで座った。
ルーチェは布を膝へ広げ、湿ったところを風に当てていた。道へ戻るときには、乾いた方を額に当てて巻き直した。
*
その夜は、道から外れた岩棚で火をおこした。
周囲に人の気配はなく、低い岩が道との間を遮っていた。乾かしたこけをほぐし、火打石を打つ。火が細枝へ移る間に、次にくべる薪を手元へ寄せた。
旅に出たばかりのころは、ついた火を消さないことばかり考えていた。今は鍋を置く石を選び、風が変わると煙を避けて座り直せる。
ルーチェは水を張った器で根菜を洗っていた。土の残ったところを指でこすり、一つずつ確かめている。婆さんの棚で葉を選り分けていたときと同じ手だった。
「レイ、明日は飛びたい」
俺は薪を置いた。
「竜になってか?」
「うん。明るいうちに」
目の前では髪を出していても、道へ戻ればまた隠していた。この子が空を見上げるたび、俺は近くに人がいないか見ていた。
「飛べそうなところを探そう。ただ、上がれば遠くからも見える」
「町のほうからも?」
「ここは山の陰だけど、高く上がったら分からない。先に行った人たちもいるかもしれないし」
ルーチェは器の根菜へ目を落とした。それから、岩の上に見える空を見た。
「じゃあ、高くなくてもいい。翼を広げられるところがいい」
「……ああ。明日、一緒に見よう」
頷くと、ルーチェは洗った根菜を鍋へ移した。
食事を終え、火を消してからもう一度道を確かめた。人が来ていないのを見て、岩陰でルームを開いた。中へ入ると、ルーチェは竜へ戻り、寝床で丸くなった。
俺はその隣へ毛布を敷いて、横になった。
*
二日目の朝、道を進んでいくと、尾根へ出た。
風が強かった。北の山は、もう一枚の壁には見えない。白い峰の間に黒い切れ目があり、その奥にも別の山が重なっている。
道は尾根の内側へ折れ、広いくぼ地の縁を回っていた。周りを岩の稜線が囲み、南側の空は隠れている。底には雪がまだらに残っていたが、手前の平らな岩場は乾いていた。
俺たちは道を外れ、見渡せるところまで歩いた。
人影はなかった。焚き火の煙も、荷を置いた跡も見当たらない。壁の感じを薄く広げてみても、動くものはなかった。先に入った四人が、ここで足を止めた跡もない。道へ戻る斜面と、その先の曲がり角を確かめてから、ルーチェを見た。
「ここなら、翼を広げられそうだな」
ルーチェが左右の岩を見て、頷いた。
「あの上までは、出ないほうがいい?」
周りの尾根を指していた。
「うん。まずは、この中で。人や煙が見えたら戻ってくれ。俺も道の方を見てる」
「分かった」
ルーチェは布を外して懐へしまい、服を脱いでたたんだ。受け取ると、布越しに体の温かさが残っていた。
俺は岩の陰へ服を置き、少し離れた。
金色の体が膨らんだ。
*
いつも木の間で戻るときより、大きかった。
馬ほどの大きさのところを越え、荷馬車くらいの体が岩場に立った。首を持ち上げ、左右へゆっくり翼を開く。俺はさらに一歩下がった。
ルーチェがこちらを見た。
——レイ、大きすぎる?
「いや。ここなら、当たらないと思う」
翼の先と岩の間を見た。まだ余裕があった。
——いつもは、もっと小さくしてるの。
「そうか。今日は、その大きさで飛ぶんだな?」
——うん。
前脚が地面を押した。翼が一度、二度と動く。砂が飛び、俺は顔を背けて岩へ手をついた。
見上げると、金色が浮いていた。
くぼ地の中を大きく回り、岩壁の手前で曲がった。翼の裏へ日が当たり、向きを変えるたびに明るさが変わる。町へ続く南の尾根より低いところを、もう一周した。
昼の光で、この子の翼をこんなに長く見ているのは久しぶりだった。
旅立ったころにも、空へ上がったことはある。背に乗ったこともある。それでも、人の暮らすところへ近づくたび、降りる場所を探し、髪を隠す布を出してきた。
今、ルーチェは俺を運んでいない。行き先を急いでもいない。同じ岩を回って、少し傾き、風へ翼を預けている。
俺は道へ目を戻した。まだ人は来ていない。
空へ視線を上げると、この子がこちらへ向きを変えた。頭の中へ、言葉になる前の弾む感じが来た。
「見えてるよ」
聞こえたかは分からなかった。ルーチェは俺の上を回り、また岩壁の方へ戻った。
もう降りろ、と言う代わりに、俺は岩へ腰を下ろした。時々道を確かめながら、その金色を目で追った。
*
しばらくして、ルーチェがくぼ地の北側へ寄った。
あちらだけ稜線が低く切れている。そこで一度大きく旋回し、それ以上は進まずに戻ってきた。
岩場へ前脚をつき、翼をたたむ。近づいた鼻先から温かい息がかかった。
——レイ、谷が見えた。
「どっちだ?」
——あの切れてるところの、向こう。山と山のあいだにあった。
俺もそちらを見た。立っている高さからは、手前の岩しか見えなかった。
「近いのか?」
——もう一つ、山の後ろ。川が見えた。
「ほかには?」
ルーチェが口を閉じた。鼻先が俺から少し離れる。
——大きいのが、動いてた。
「大きいもの?」
——うん。岩だと思ったら、翼が開いた。一つじゃなかった。
竜だろうか。
俺は北側の岩の切れ目を見た。この子以外の竜を、まだ見たことがない。ルーチェも、俺と暮らすようになってからは会っていないはずだった。
「向こうも、お前に気づいたか?」
——分からない。ちょっと見えただけだから。
「人はいた?」
——見えなかった。でも、谷の下までは見てない。
頷いて、鼻先へ手を当てた。
「怖かったか?」
——ううん。
今度はすぐに返事が来た。
——でも、変な感じだった。
「変な感じ?」
ルーチェは首を北へ向けた。しばらくそうしてから、俺の方へ戻した。
——もう一度、見たい。
「ああ」
飛び立つ前とは、声が少し違っていた。はしゃいでいるのでも、怖がっているのでもなかった。俺はそれ以上聞かず、翼が落ち着くのを待った。
*
ルーチェは体を縮め、人の姿へ戻った。
服を渡すと、袖を通しながら北を見た。懐から頭の布を出したが、すぐには巻かず、手に持っていた。
「明日、着くかな?」
「道が聞いたとおりなら。今日は、もう少し先まで行こう」
「うん。今日は、早く寝たい」
「早く寝ても、朝が早く来るわけじゃないぞ」
「でも、起きたら明日でしょ?」
それには、頷くしかなかった。
ルーチェは布を巻こうとして、指を止めた。もう一度だけ空を見上げ、それから髪をまとめた。
「楽しかった」
「見てた。何度も回ってたな」
「また飛びたい」
「また、広いところを探そう」
ルーチェが笑った。俺は鞄を背負い、二人で道へ戻った。
谷に何がいるか、俺はまだ自分の目で見ていない。人がいないとも言えなかった。今は教わった道を辿り、近づいてから確かめようと思った。
先へ立ったルーチェが、曲がり角で振り返った。
「レイ、こっちだね?」
紙の道順を確かめ、頷いた。俺が隣へ追いつくと、この子は北の岩の間へ顔を向けた。
その向こうに見えたものを、早く見せたそうにしていた。




