人の海と、屋根裏のふた部屋
王都の中は、ひとでいっぱいだった。
脇道から表通りへ戻った瞬間、波みたいに押し寄せてきた。呼び込みの声、荷馬車の車輪、鍛冶の槌、どこかの鐘の音、そして人、人、人。ミューレの市場を十個束ねて、通りにぜんぶぶちまけたみたいだった。
「……レイ。ひとがいっぱい」
「そうだな」
人の流れは、フードの子供ひとりを気に留めもしない。
それは、俺たちには、追い風だった。
*
大通りの屋台で、俺は驚いた。
パンひとつ、銅貨五枚。
アシェンなら二枚だ。ミューレでも三枚だった。試しに隣の串焼き屋を見ると、こっちは一本で銅貨六枚。屋台の親父は平然と焼いていて、客も平然と買っていく。
俺の中の物差しが、悲鳴を上げていた。
「たかいの?」
「高い。……けど、売れてる。つまりここでは、これが普通なんだ」
物の値段は、場所と人が決める。需要と供給——ベックさんの店先で覚えたことの、これが王都の答えらしい。飯のたびにこの調子なら、路銀の減りは町の倍。宿を取るにしても、この物価だ。オスカルさんの紹介状が、どこまで効いてくれるか。
考えごとをしながら歩いていたのが、まずかった。
人波が急に厚くなって、袖をつかんでいた小さな手が、離れた。
「ルーチェ?」
振り向くと、フードの頭が、人の流れの三つ向こうで、ぽつんと止まっていた。たった三歩の距離が、都会では川幅になる。俺は人を掻き分けて戻って、その手を、今度はしっかり握った。
「て、つないでれば、まいごに、ならない」
「……そうだな。そうしよう」
理屈はルーチェの方が正しい。兄妹は手を繋ぐものだ。
交差路の角を曲がるとき、視界の端に、細い路地が見えた。表通りの賑わいから一枚裏に入った、日の当たらない道。その奥に、座り込んでいる小さな影が、ふたつ。
一瞬だけ、俺の物差しが疼いた。
でも、今日の俺には、届かない。まずは自分たちの寝床と飯だ。俺は視線を戻して、握った手に少しだけ力を入れた。
*
薬師ギルドの会館は、商業区の大通りに面していた。
石造りの三階建てで、入り口の上に、乳鉢と杵の紋章。扉をくぐる前から、薬草の匂いが道まで漂っている。オスカルさんの店を百倍にしたような匂いだった。
受付の男は、俺を見て、あからさまに面倒そうな顔をした。
「坊や、薬草の買い取りならあっちだ」
「薬草の買い取りじゃないです。紹介状を持ってきました」
封筒を差し出す。男は気のない手つきで受け取って、封蝋の印を見て——手が、止まった。
「……アシェンの、オスカル?」
「はい。僕の師匠です」
師匠、という言葉は初めて口に出したが、嘘ではないはずだ。弟子入りしたわけじゃない。七年、薬草を売りに通ううちに、あの店先で仕込まれた。
受付の男は俺をもう一度見て、それから慌てたように奥へ引っ込んだ。廊下の向こうで「オスカルの紹介状だと」「あのオスカルか?」と声が跳ねるのが聞こえた。
……あの朴念仁、王都で何をした人なんだ。
*
出てきたのは、大柄な女の人だった。
白髪まじりの髪をきっちり結い上げて、袖をまくった腕は職人のそれで、目つきは、値踏みのそれだった。
「あたしがマルタだ。ギルドの世話役と、そこの角で薬種屋をやってる。……オスカルの、姉弟子でね」
マルタさんは、紹介状をその場で開いて、読んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「……あの朴念仁が、人に頭を下げる文を書くとはね。明日は槍でも降るのかい」
「降ったら、屋根の修理を手伝います」
「口は回るね」
マルタさんは笑わなかったが、目つきが少しだけ変わった。紹介状を畳んで、懐にしまう。
「オスカルから、あんたを頼まれたよ。うちで面倒を見てやってくれ、とさ。……あいつが人に物を頼むのを、あたしは初めて見た」
「……そんなことが、書いてあるんですか」
「読むかい」
「いえ」
オスカルさんが俺に見せなかったものを、俺から覗く気にはならなかった。
「賢いね。……だがね、坊や。頼まれたから置く、ってわけにはいかないんだよ。うちは薬屋だ」
それから、突然、後ろの棚から乾燥した草の束をふたつ掴んで、卓に放った。
「坊や。どっちが本物のハクハ草だい」
試された、と分かるより先に、手が動いていた。
束を持ち上げて、裏返して、根元を見る。片方は根の切り口が黒ずんで、乾かすときに束ねたままだった証拠の、蒸れた癖がある。もう片方は切り口が白く、一本ずつ吊るした跡。葉の縁のぎざぎざも、本物の方が細かい。
「こっちです。偽物の方は、たぶんヨシバ草。葉は似てますが、根が甘い匂いなので……嗅げば分かります。あと、乾かし方が雑です。束ねたまま干すと中が蒸れるって、師匠なら怒ります」
マルタさんは、しばらく黙って俺を見ていた。
それから、初めて笑った。
「合格だ。明日から店においで。住み込みだね?」
「え……いいんですか」
「オスカルの弟子を追い返したとあっちゃ、あたしの沽券に関わる。それに——」
マルタさんの目が、俺の後ろの、フードの小さな頭に移った。
「妹かい」
「はい。ルーチェっていいます」
ルーチェが、フードの下から、ぺこりと頭を下げた。マルタさんは目を細めて、それから、事務的な声に戻った。
「部屋は屋根裏がふた間空いてる。狭いが、二人なら文句はないだろ。まかない付き、妹の分は家の雑務で払いな」
「がんばります」
ルーチェが即答した。マルタさんの口の端が、ほんの少しだけ、上がった。
*
クロイター通りは、商業区の外れにあった。
薬種の店が軒を並べる細い通りで、どの店先にも乾燥草の束と薬瓶。マルタさんの店は、その角の一軒だった。会館の偉い人なのに、店は思ったより小さくて、そして、隅々まで手入れされていた。
屋根裏のふた間は、本当に狭かった。天井は斜めで、立てるのは部屋の真ん中だけ。でも、窓があった。小さな四角い窓から、夕暮れの屋根の海と、丘の上の城が見えた。
「せまいね」
「ああ」
「……でも、まどが、ある」
「ああ」
石の部屋を思い出しているんだと思う。狭いことと、冷たいことは、違う。
*
店じまいのあと、台所で賄いが出た。
豆と燻し肉の、具だくさんのスープ。黒パンは山盛りで、お代わりしたいなら自分でやれ、という置き方だった。
スープは、うまかった。豆の煮え方に芯が残るぎりぎりの、火加減の腕を感じる味だった。アリア姉のシチューとは、違う味。違うのに、うまい。うまいのに、少しだけ、遠い。
その「少しだけ」を、俺は匙と一緒に飲み込んだ。
「もっと食いな。そんな細い見た目だと、あたしの沽券に関わるんだよ」
マルタさんはそう言って、俺の椀に、勝手にお代わりをよそった。辛口の人の優しさは、いつも皿の上に載ってくる。オスカルさんの姉弟子だというのが、よく分かった。
*
夜、屋根裏の窓辺で、ルーチェは竜の姿に戻って、丸くなった。
人の姿の一日は、まだ長い。せめて寝る間くらいは、生まれたままの形でいればいい。窓の外では、丘の上の城の灯りが、星より低いところで光っていた。
「レイ」
「ん」
「おうかんのまち、ごはん、おいしいね」
「ああ」
「……あしたから、いっぱいがんばる」
「ほどほどでいいぞ」
返事の代わりに、小さな寝息が聞こえた。
鞄の中には、もう一通の封筒が残っている。監察庁の、あの人宛ての、少しだけ分厚いやつ。それは明日からの、俺の宿題だ。
俺は窓の外の灯りをもう一度だけ見て、毛布にもぐった。
旅が、暮らしになった夜だった。




