峠の開いた朝と、ちゃんと言えた言葉
峠が開いたのは、ヴェークの月の終わりだった。
朝、集落の南から鈴の音がした。荷馬車だ。戸口へ出ると、向かいの家からも人が出てきた。洗い場にいた女の人が桶を下ろし、道の方へ手を振っている。
半年近く待った便が、ようやく来た。
俺はいったん小屋へ戻り、戸を閉めた。ルームに置いていた手紙と包みを運び出し、鞄へ移した。
アリア姉へ書いたものが六通。月に一度ずつ、書いては出せずに取っておいた。それにリーナ宛の一通と、トーマへの包みが一つ。包みの紐を確かめてから、鞄の口を閉じた。
「レイ、今日渡すの?」
「戻りの便に載せてもらえるか、聞いてくる」
「わたしも行く」
ルーチェが頭の布を巻き直すのを待ち、二人で広場へ向かった。
*
南へ戻る日に引き受けてもらえることになった。
行き先を確かめ、運び賃を聞いた。荷馬車はここから直接アシェンへ行くわけではない。途中でほかの便へ渡される。道の具合によっては、さらに待つこともあるという。
出発の日、御者へ手紙を渡したあと、包みを持つ手が止まった。
鱗が三枚と、爪が一本。港町では、こういうものを売り買いしていた。それを今から、俺の見えないところへ預ける。
隣でルーチェが包みを見ていた。布の端を押さえてくれたときと、同じ顔だった。
歩いているあいだも、ずっと届いている途中なのだと、この子は言った。
俺は宛先をもう一度読んでから、包みを渡した。御者がほかの荷の間へ収める。荷台の布が掛かると、もう見えなくなった。
*
俺たちも、その日に集落を出ることにした。
ガレスさんたち五人は南へ下る。冬の間に調べたことを、ギルドへ報告しに行くのだという。広場の端で、イルサさんが荷紐を締め直していた。
「前に言ったとおり、妹の容姿のことは書かん」
ガレスさんが俺に言った。
「だが、北へ行った連中が黙ってるとは限らん。町に入るときも気をつけろ」
「はい。……冬の間、ありがとうございました」
頭を下げると、ガレスさんの目が俺の腰へ動いた。
「そいつは、持っていけ」
短剣の柄へ手を添えた。体が治ってから使えと預けられ、そのままずっと借りていたものだ。
「返さなくて、いいんですか?」
「ああ。お前にやる。手入れはできるな?」
「はい」
「怠るなよ」
鞘を留める紐に触れた。今までもここにあったのに、返さなくていいと言われると、持ち方まで確かめたくなった。
「教えてもらったことを、これからも練習していきます」
「足の運びからな。武器を持ってるからといって、無理に近づくなよ」
俺は頷いた。鞘に入ったままの刃を、人の胸へ向けられなかった朝を思い出した。教わったことは増えたが、今も苦手なものは残っていた。
イルサさんが俺の肩を一度叩いた。それから、ルーチェの頭の布の端を指した。
「そこ、浮いてるよ」
ルーチェが押さえると、イルサさんが脇を少し折り込んだ。
「うん。それでいい」
「ありがとう。気をつけてね」
「あんたたちもね」
南へ向かう五人を、荷馬車の鈴が鳴り出すまで見送った。
*
ハンナ婆さんは、家の戸口に立っていた。
声をかけて近づくと、顔を寄せて俺を見た。つられて背を伸ばすと、胸へ布袋を押しつけられた。
「坊主。持っていきな」
口を少し開くと、覚えのある匂いがした。
「ハイマツヨモギですか?」
「あんたが摘んだやつだ。乾かして、粉にしといた」
止血に使う粉だった。俺は袋の口を締め直した。
「ありがとうございます」
「使わずに済むのが、いちばんいい」
婆さんはルーチェの方へ顔を向けた。
「あんたも、よく働いた」
ルーチェは頷いた。それから俺を見ずに、一歩、婆さんへ近づいた。
「おばあさん、ありがとう。棚の仕事、楽しかった」
「楽しいだけじゃ、薬は作れんよ」
「うん。間違えたら、困るって教わった。だから、分からない葉っぱは、おばあさんに聞いた」
「そうだね」
「それでも、一緒にできて、嬉しかった」
婆さんの手が、ルーチェの肩に触れた。軽く叩き、すぐに離れた。
「また来たら、手伝っておくれ」
「うん」
俺ももう一度礼を言った。婆さんは戸口から片手を上げ、俺たちが道へ出ると、家の中へ戻っていった。
*
洗い場の女の人たちも、道まで出てきてくれた。
「気をつけな」
「また顔を見せなよ」
ルーチェは一人ずつ顔を見て、頭を下げた。
「一緒にお水を運べて、楽しかった。休んでからも、呼んでくれてありがとう」
「戻ってきたら、また頼むよ」
いつも桶を並べていた人が笑った。ルーチェも笑い、手を振った。俺に手を取られる前に、もう一度振った。
ヨルクさんは集落の外れの丸太に腰掛けていた。借りていた小屋を片づけたことを伝えると、頷いてくれた。
「長い間、お世話になりました。窓も直してもらって……」
「あれは謝ることじゃない。破ったのはお前じゃなかろう」
言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「……ありがとうございました」
「おう」
ヨルクさんは、俺の鞄から靴へ目を移した。
「雪が消えても、山は冷えるぞ」
「はい」
街道は森の縁を北へ延びていた。ルーチェと並んで歩き出す。何度か振り返ると、そのたびに丸太の上の人が片手を上げた。
*
集落が見えなくなってから、道の脇で休んだ。
木陰へ鞄を下ろすと、ルーチェが頭の布へ触れた。
「レイ、ここでちょっと取ってもいい?」
街道の前後を見た。人影はない。俺が頷くと、ルーチェは木の幹の陰で布をほどいた。束ねられていた髪が肩へ落ちる。
「気持ちいい」
指で髪をすき、それから、たたんだ布を膝に置いた。
「……ちゃんと言えた」
「婆さんたちに?」
「うん。出る前に、言いたかったの」
さっき、肩へ置かれていた婆さんの手を思い出した。
「また手伝ってくれって、言ってたな」
「うん」
ルーチェは笑った。けれど、すぐには立たず、膝の布を指でなぞっていた。
「レイにも、ある」
「言いたいことか?」
「うん。前からあったけど、どう言えばいいか、分からなかった」
俺は鞄へ伸ばしかけた手を戻した。
「聞くよ」
ルーチェが俺の手を取った。
「わたしは、レイの妹じゃないでしょ?」
「ああ。外では、そう言ってもらってる」
「うん。でも、それだけだと、足りない」
繋いだ指へ目を落としたまま、続けた。
「レイが卵を拾って、名前をつけてくれた。一緒にご飯を食べて、わたしがおかゆを作った日もあった」
「うまかったよ」
「ちょっと、硬かったけどね」
二人で笑った。ルーチェの指が、少し強く握り直した。
「怖かった夜も、来てくれた。だから……わたしも、レイに何かしたいの。守ってもらうだけじゃ、いや」
荷馬車へ渡した包みを思い出した。爪を手に載せられたとき、俺は痛くなかったかと何度も聞いた。この子が何を渡そうとしていたのかを、今、もう一度聞いていた。
「妹じゃなくても、家族だよ」
「うん。それが、言いたかった」
ルーチェが顔を上げた。
「わたしたちは家族だから、わたしのことも頼ってね」
俺は頷いた。すぐにうまい返事が出ず、手を握り返した。
「……頼む」
ようやくそれだけ言うと、ルーチェはもう一度頷いた。
*
休みを終えると、ルーチェは自分で布を巻き直した。道へ戻る前に、後ろの結び目だけ俺が確かめた。
半日歩くうちに木がまばらになり、北の山が見えてきた。上の方には、まだ雪が残っている。あの山々の間に、谷があるという。
四人は、その方へ向かった。今もそこにいるかは分からない。次に人のいるところへ着いたら、道のことと一緒に聞いてみるつもりだった。
腰には、もらった短剣がある。鞄には婆さんの薬。戻ってきた写しは、濡らさないようボックスへしまってある。同じ中には、家族に食べてもらいたくて港町で買った魚も残っていた。
リーナの一行は、まだ全部は読めない。いつか道が開くと言われたが、いつかは分からなかった。杭も爪も、まだトーマの手にさえ届いていない。
ルーチェに置いた印は、今も感じられる。けれど、試したのは小屋の裏から戸口までの、ほんの短い距離だ。離れても必ず戻れると、この子に約束できるところまでは来ていなかった。
「レイ、谷まで何日で行けるの?」
「まだ分からない。道を聞きながら行こう」
「じゃあ、歩かないとね」
差し出された手を取った。ルーチェの歩幅が少し広がったので、俺も足を速めた。
南から来た道を、二人で北へ歩いていった。




