幕間 ルーチェの心情 わたしの中に、ある
レイの手は、冷たいときと、温かいときがある。
外から帰ったときは、冷たい。鍋を持ったあとは、温かい。紙の前に長く座っていると、外に出ていないのに、冷たくなることがある。
今日も、そうだった。
「レイ、てがつめたい」
レイはペンを置いて、自分の指を見た。それから、わたしの手を取った。
言いたかったのは、それだけじゃない。
さっきから紙ばかり見ている。わたしは隣にいる。少しは、こっちも見てほしい。そういうのが、いっぺんに口へ来て、どれを先に言えばいいか分からなくなる。
言えることは、増えた。水をどこへ運ぶかも、葉をどっちへ分けるかも聞ける。おばさんたちと話して、一緒に笑える。
なのに、こういうときは難しい。
レイが、こっちを見た。
わたしは手を握り返した。嬉しい。でも、それで言わずにすんだ言葉が、まだ中に残っている。
*
わたしの中には、レイのものがある。
いつからあるのかは、覚えていない。卵のころから、たぶん、ずっと。細くて、温かい糸。レイが遠くへ行っても、つながっている。
迷い穴のときも、糸はあった。
痛いのが来た。寒いのも来た。レイが逃げているのが分かった。それから、動かなくなった。
わたしはルームの中で、何もできなかった。
入口を叩いた。名前を呼んだ。レイからは来るのに、わたしの声は向こうへ行かなかった。
あれから、一人で待つのがいやになった。レイが帰るまで開かないところで、また待つのはいやだった。
帰ってきた夜、眠ったレイの唇に、わたしの血を一滴だけ落とした。何か、できることがほしかった。言えば困った顔をするから、レイには言わない。
*
少し前、レイがわたしの頭に手を置いた。
布の上からだった。
糸が、少し太くなった気がした。レイは「印」と言った。どんな形かは分からない。でも、わたしの中にあるレイのものが、前より増えた。
嬉しかった。
嬉しかったのに、口から出たのは「なにも、かんじない」だった。
痛くも、くすぐったくもなかった。何かが触っている感じもしなかった。だから、嘘ではない。
でも、あるのは分かった。
そのことも、言えばよかった。あとになって思った。
次の朝、レイはわたしのところへ来た。外から歩いてくる音は、しなかった。気づいたら、そこにいた。
あの夜と同じだった。
でも、今度は怖い人はいなかった。わたしは笑えた。レイは、座って肩で息をしながら、こっちを見ていた。
*
森の人が、わたしに何か言った。
レイには分からない言葉だった。わたしにも分からなかった。
それなのに、わたしの中に入ってきた。
わたしの覚えていない、ずっと奥。卵の中にいたころより、もっと前のようなところ。そんなところが本当にあるかは分からない。ただ、そこを呼ばれた気がした。
懐かしい、とレイには言った。
それも本当。でも、足りなかった。
名前を呼ばれたのとは、違う。わたしがルーチェになる前から、そこにあったものへ、声が来た感じだった。
レイは手を取ってくれた。わたしも、握り返した。
糸とは違うものが、わたしの中にある。
怖くはなかった。もう一度あの言葉を聞いたら、今度は何か分かるだろうかと思った。
*
爪を渡したとき、レイは、すぐには受け取ったと言わなかった。
手に載せたまま、こっちを見ていた。
わたしは、窓が割れた夜のことを考えていた。手が来て、腕を掴まれた。布が取れた。あの人の目が、わたしの髪を見た。
港で箱の中を見ていた人を、思い出した。
あのときは箱の中だった。今度は、わたしだった。
竜になろうとしたのに、できなかった。腕を引いても離れなかった。レイを呼んだ。
そしたら、いた。
あの人の後ろに、レイがいた。
レイが手を伸ばしたから、わたしも体を引いた。指が外れて、レイの手に触れた。そのあと、レイはわたしの前に立った。
手を上げているあいだ、糸が細くなっていった。
レイが、また動かなくなるかと思った。
*
爪は、生え変わるから痛くない。
それは本当だ。もうぐらぐらしていた。レイが支えてくれると、手の上に落ちた。
でも、いらなくなったから渡しただけじゃない。
レイは、知らない人と戦うのが、うまくない。教わっているけれど、まだ難しいと言う。そのレイが、わたしの前へ来た。
わたしにも、渡せるものがほしかった。
あの爪なら、何かを止めてくれるかもしれない。レイが手に持てるものに、なるかもしれない。
痛くなかったか、とレイはまた聞いた。
——はえかわりだもん。
そのときは、それしか言えなかった。
あとで、レイは爪の絵を描いた。トーマに頼む紙だった。できなければ返してほしい、と書いたところを読んでくれた。
なくしてもいいものには、していなかった。
包むとき、わたしは布を押さえた。レイが紐を結んだ。あの包みの中に、わたしの爪がある。
*
この集落でも、わたしはレイの妹と呼ばれている。
頭に布を巻いて、水を運んだ。名前を呼ばれた。桶を並べて、一緒に洗った。
妹というのは、レイが外の人に言うために選んだ言葉だ。竜だとは言えない。でも、家族だから、妹でいい。
でも、わたしがした仕事は、本当だった。水をこぼさないように歩いた。おばさんの話が面白くて、桶を持ったまま笑った。
休むと伝えた朝、また顔を見せてなと言ってもらった。
あれは、嬉しかった。
春になったら、また歩く。レイはそのための荷を、少しずつまとめている。わたしも、谷へ行きたい。
でも、ここの人に会えなくなるのは、寂しい。
行きたいのと、寂しいのは、両方ある。片方を言ったら、もう片方がなくなるわけじゃない。
帰り道ができたら、また来られるだろうか。
まだ分からない。だから、出る前にはちゃんと言いたい。水汲みも、棚の仕事も、楽しかったこと。一緒に働かせてくれて、嬉しかったこと。
*
レイにも、言いたいことがある。
わたしは、妹だ。でも、妹というだけじゃない。
レイが拾った卵だった。レイが名前をつけた竜だ。レイの作ったものを食べる。レイに粥を作ったこともある。
レイが、小屋まで飛んで来てくれた先にいた。
家族、という言葉を知っている。
アシェンの家には、わたしのほかにも、いろいろな子がいた。親の違う子が集まって、一緒に暮らしていた。同じ鍋から食べて、同じ屋根の下で眠る。レイはそこを、家と呼ぶ。
わたしは卵から来た。レイと血は同じじゃない。それでも、レイはわたしの分を、いつも一緒に作る。
それが、わたしには嬉しい。
ただ嬉しいと言うだけじゃなくて、どうしてなのかも、わたしの言葉で伝えたい。
頭の中にはあるのに、口にしようとすると、うまく並ばない。名前を呼んで、手を取るだけになる。
でも、前より言葉は増えた。
レイの言い方。洗い場のおばさんたちの声。おばあさんが、葉を見せろと言う声。みんな、ここにある。
レイも、初めは印の置き方を知らなかった。
何も起きなくて、違うやり方を考えて、それから、できた。
わたしも、少しずつでも、やってみようと思う。
春に、ここを出る前に。




