戻ってきた写しと、いつか開く道
積もった雪が硬くなってきた。
昼には軒から滴が落ち、夜になると凍った。朝、戸を開けると、短い氷が何本も下がっている。ヨルクさんはそれを見て、峠が開くまではまだひと月はかかると言った。
森の入口へも、また歩けるようになっていた。道の具合を聞き、婆さんに行き先を伝えてから、ルーチェと出た。森に預けた二枚の紙を、春までには受け取りたかった。
雪は木の根元を埋めていたが、道を塞ぐ二本の幹は見えた。俺たちは、秋にも待ったその手前で止まった。
ルーチェは頭の布にフードを重ねている。繋いだ手が少し引かれ、そちらを見ると、枝の先の滴を目で追っていた。
印を置いてからも、一緒に歩くときは手を繋いだ。小屋の裏から飛べることと、この森へ入って戻ってこられることは、同じではない。今日も、待つのはここまでだった。
「——来たな」
声の方を見ると、幹の向こうに人が立っていた。
雪と木の色に紛れる外套。長い耳が、フードの脇から少し出ている。秋に二枚を預かったエルフだった。
*
エルフは幹の上へ油紙の包みを置いた。
「二枚とも、返す」
俺は礼を言って受け取った。開くと、リーナの母親が遺した一行の写しと、大書庫で写した注釈が出てきた。
余白には、俺が足した言葉がある。
星。還る。待っている。
出発したときと同じ字を見て、ようやく返ってきたのだと思った。
「読めましたか?」
「読めた」
「何と書いてあるか、教えてもらえますか?」
「お前には教えることはできない」
紙を持つ指に力が入った。端が曲がりかけ、慌てて緩めた。
「俺には、ここに書き足した言葉しか分かりません。家族も、ずっと読もうとしているんです」
「この字を読める者が、確かめた。その上で返している」
「読めても、俺には伝えられないということですか?」
「そうだ」
俺は二枚を見下ろした。冬になるかもしれないと言われて待った。読めなかった、と返されることは考えたが、読めたのに聞けないとは思っていなかった。
エルフは、一行の写しを指した。
「これを書いた者は、我らが同胞だ。森の外で書かれたものだが、我らの書き方だ」
「リーナの母親です。前にも話しましたが、もう本人には聞けません」
「聞いた」
短い返事だった。俺は続きを待ったが、相手の手はもう紙を指していなかった。
*
「それなら、リーナが来たらどうですか?」
エルフがこちらを見た。
「この森に、入れますか?」
前にも尋ねたことだった。あのときは、入れないとしか返ってこなかった。
「今は、入れない」
俺は息を吐いた。紙を包み直そうとしたところで、言葉が続いた。
「だが、この紙を書いた者の縁者になら、いつか道は開く」
手を止めた。
「いつか、ですか?」
「そうだ」
「それは、いつですか?」
「森が決める。私ではない」
それではリーナに、いつ来ればいいと伝えればいいのだろう。聞き直しかけたが、エルフが先に口を開いた。
「家族に伝えろ。急いではならない。急ぐ者に、森は開かない」
俺は相手の顔を見た。フードの下の表情から、ほかに何か読み取れないかと思った。分からなかった。
「……その言葉のまま、伝えます」
頷いたように見えた。俺は二枚を油紙で包み、鞄の中へ入れた。
*
鞄の口を閉じたとき、エルフが俺の手を見た。
「お前は、世界を切って歩いている」
「……どういうことですか?」
「切って、しまって、また切る」
俺は手元を見た。写しは鞄の中にある。ボックスもルームも開いていない。
それなのに、四歳のころから繰り返してきた動きが頭に浮かんだ。石や草をしまい、必要なときに取り出す。俺には、それだけのことだった。
「俺は、しまっているだけだと思っていました」
口にしてから、どこまで知っている相手に答えたのか、気になった。
「そうか」
エルフは、それ以上説明しなかった。
世界を切る。俺の使っている力を、そう呼んでいるのだろうか。何か別のことを言われたのだろうか。
鞄の留め具へ触れたまま、俺は相手の手を見た。何かを示してくれる様子はなかった。
*
「北へ抜けた者たちがいる」
エルフが言った。
「森の縁を、外側から回っていった。四人だ。荷を引いていた」
俺は顔を上げた。
ガレスさんから聞いた人数と、方角が同じだった。集落へ入ってきた連中かもしれない。
「止めなかったんですか?」
「森の外のことに、我らは関わらない」
それだけだった。俺は、紙を預かったときの「ここまでだ」という言い方を思い出した。
「その先は、谷へ続いていますか?」
「谷へ続く道は、森の外にもある。あの者たちは、そちらへ向かった」
ルーチェの指が、俺の袖へ移った。
俺たちも北へ行くつもりだった。その先に、あの男がいるかもしれない。布を剥がされ、腕を掴まれていたルーチェの姿が浮かんだ。
「その子を、谷へ連れていくのか?」
「……はい。そのつもりです」
俺が答えると、ルーチェも小さく頷いた。
エルフはしばらく、この子を見ていた。それから、聞き取れない言葉を一つだけ発した。
歌の出だしのような響きだった。
ルーチェの肩が動いた。俺の腕を掴み、フードの奥から相手を見上げた。
「今、何と言ったんですか?」
「その子に言った。お前には言っていない」
エルフは背を向けた。
「返すものは返した。お前が返事を待つ用は、もうない」
「春になっても、ここからは通れませんか?」
「通れない」
外套が木々に重なった。もう一度目を向けたときには、どこを歩いているのか分からなくなっていた。
*
帰り道、ルーチェはしばらく黙っていた。
俺も何度か口を開きかけた。聞きたいことはあったが、この子は歩きながら何かを確かめるように、自分の胸元へ触れていた。
集落の屋根が見えてから、小さな声がした。
「レイ、さっきのことば」
「分かったのか?」
「ううん。なんていったかは、わかんなかった。でも、こわくなかった」
「そうか」
「なんか、なつかしいかんじがした」
俺はルーチェを見た。知らない言葉なのに懐かしいとは、どんな感じなのだろう。
「前に、聞いたことがあるのか?」
「……それも、わからない」
ルーチェは自分の手を胸元から下ろした。俺はその手を取り、歩き出した。しばらくして、向こうからも握り返してきた。
集落へ戻ると、ガレスさんに四人の話を伝えた。エルフが見たということと、荷を引いて谷へ続く道を進んだということを、聞いた順に話した。
ガレスさんは方角を確かめ、イルサさんにも伝えると言った。
俺は礼を言って、小屋へ戻った。
*
その夜、ルームの食卓で二枚を広げた。
手元に残していた写しも出した。幹を下敷きにして書き直した方は、急いだところの線が太い。預けていた方にも、俺が書いた三つの言葉が残っている。
新しい訳は、一つも増えていなかった。
俺は別の紙を取り、リーナの名を書いた。春に出す手紙へ、これも入れる。
——預けた写しは、二枚とも戻ってきました。読めたと言われましたが、何と書いてあるかは、教えてもらえませんでした。
書いてから、次の行で手が止まった。冬のあいだ待っていた答えとしては、あまりに短かった。
寝床で竜に戻っていたルーチェが、頭を上げた。
——もりのひとが、いったこともかく?
「ああ。今、書く」
俺は言葉を思い出し、一つずつ書き足した。
——この紙を書いた者の縁者になら、いつか道は開く。そう言われました。いつになるかは森が決める、とも。
——急いではならない。急ぐ者に、森は開かない。この言葉を家族に伝えるよう、頼まれました。
読み返すと、今すぐ来れば入れるとは、どこにも書いていない。俺がうれしかったところだけを拾って伝えないように、もう一度確かめた。
リーナなら、何を聞き返すだろう。どうして俺には教えないのか、森が決めるとはどういうことか。俺にも答えられないことばかりだった。
紙が乾くまで、返ってきた写しを包み直した。
しまって、また切る。
エルフの言葉が浮かび、手が止まった。今も、俺は何を切っているのか分からない。
包みを食卓へ置き、手紙の最後に「写しを返してもらった日」と書き添えた。




