三日で消える印と、繋いだままの手
翌日は、一日中、寝床から出られなかった。
婆さんに確かめてもらったが、新しい傷はなかった。ただ、起きようとしても力が入らず起き上がれない。ルームを広げたときにも疲れたが、食事のときでも、自分で椀を持つのもつらかった。
ルーチェが粥を運んできた。頭には、昨夜拾ってもらった布を巻いていた。
「レイ、おかゆが、できたからたべよう」
寝床の脇に椀を置き、小皿の塩を少し振った。婆さんと混ぜた、香草入りの塩だった。
「お前が作ったのか?」
「おばあさんに、おしえてもらった」
俺は匙を持った。口へ運ぶ前に手が震え、椀へ戻した。
「わたしがやる」
匙を受け取ったルーチェが、ひと口すくって冷ました。俺は背中を支えてもらい、口を開けた。
麦の粒が少し硬かったが、飲み込むと、鼻へ葉の香りが抜けた。
「……うまい」
「まだ、かたい?」
「少しな。でも、食べられる」
ルーチェは椀の中を見てから、もう一度すくった。
「つぎは、やわらかくなるように、もうすこしにるね」
俺は頷いた。昨日できたことを考えるより先に、次の匙を待った。
*
昼過ぎに、ガレスさんが来た。
戸口で雪を払い、寝床の脇へ腰を下ろした。ルーチェは空の椀を持ち上げたが、外へは出ず、台へ置いて俺の隣に座った。
「連中は、北へ向かった」
ガレスさんが言った。
「イルサたちが跡を追った。沢を越えて、森の縁に沿ってる。見分けられた足跡は四人ぶんだ」
「また、戻ってきますか?」
「分からん。見つけた跡は外へ向かってた。それ以上は言えん」
俺は、板で塞いだ窓を見た。昨日までなかった板が、朝の光を遮っていた。
「麦を三袋持っていかれた。薪小屋は半分焼けた。大きな怪我をした者はいない。お前の妹の腕は?」
「掴まれたところが、まだ痛むそうです」
ルーチェも頷いた。
「痛みが引かんなら、婆さんにまた見せろ」
ガレスさんは窓へ目をやった。
「お前たちの小屋については、窓を破って入られて、中にいた妹が連れ去られそうになった、とだけ書く。妹の容姿については、報告しない」
俺は顔を戻した。
「井戸の二人にも、力のことは言いふらすなと頼んだ。あの二人は、お前に助けられたと言ってる」
「……ガレスさん」
「詳しくは聞かん。あの貼り紙は、おれも見たが、おれはギルドの依頼で密猟を調べに来ただけだ」
ルーチェの指が、俺の袖を掴んだ。
俺は礼を言おうとした。ガレスさんが、その前に続けた。
「ただし、集落を襲いにきた奴は見てる。口を塞げたわけじゃない。春に南へ人が通れば、話が伝わると思っとけ」
昨日、窓へ向く前にこちらを見た目を思い出した。
「春から先、どこへ行くかも考えとけ。今すぐ、ここを出ろという話じゃないぞ」
「はい」
頷くと、ルーチェの指が少し動いた。
*
ガレスさんが立ちかけたところで、呼び止めた。
「昨日、井戸からここへ来たことなんですが」
「ああ」
「もう一度できるか、分からないんです」
ガレスさんは俺の腕へ目を落とした。毛布の上に置いたまま、まだろくに動かせなかった。
「なら、次はできないものと思って動け」
「……はい」
「確かめるなら、体が戻ってからだ」
短剣を持ったときも、使えるつもりになるなと言われた。昨日は来られた。その一度を当てにして、今度は遠くへ行くところだったかもしれない。
「分かりました」
「今のお前は、体を治す方が先だ」
ガレスさんはそう言って、戸口へ向かった。
*
あれから、体調が戻るまで、四日かかった。
初めは椀を自分で持てるようになり、次に寝床から起きられるようになった。婆さんの家まで歩けるようになっても、戻ればすぐ寝床で横になった。
五日目、俺は小屋で試した。
戸を閉め、ルーチェに見ていてもらった。窓の補修も済み、外から覗かれる隙間は塞がれている。
土間の反対側、いつも靴を置く場所を思い浮かべた。あそこへ行く、と考えても、足の下は変わらなかった。次は戸口を思い浮かべたが、やはり何も起きなかった。
「レイ、どこにいこうとしてるの?」
「最初は靴のところ。その次は、戸の前」
ルーチェは順にそちらを見た。
「あのよるも、ここのことをかんがえたの?」
「ルーチェが助けを呼ぶ声が聞こえた気がして、ここへ来る直前は……お前のことを考えていた」
「じゃあ、わたしのほうは、どう?」
ルーチェが少し離れて立った。
試してみた。繋がりは感じる。この子がこちらを待っていることも分かる。けれど、俺は土間に立ったままだった。
「これだけじゃ、できないみたいだ」
「そっか」
ルーチェが戻ってきた。俺は手を取った。普通に歩けば、すぐ届く距離だった。
*
その晩は、久しぶりに二人でルームへ入った。
ルーチェが竜へ戻り、寝床で丸くなるのを見ながら、あの夜の感じを思い出した。井戸から小屋へ走ろうとした。そのとき、繋がりの先にはルーチェがいた。
場所を思い浮かべるだけでは、届かなかった。ルーチェを思うだけでも、足りなかった。
もっとはっきり、辿れるものが要るのかもしれない。
ルームには、俺が注いだ魔力が残っている。あの子にも、離れているあいだずっと流れている。なら、行きたいところへ魔力を少し残せたらどうだろう。
俺は食卓へ紙を出し、試したことを書いた。その下に、魔力を置く、と足した。
——レイ、まだねないの?
「もう寝る。試すのは明日にする」
ペンを置いて、灯りを落とした。
*
翌朝、小屋の裏で手を雪へかざした。
家と薪積み場の間の、普段は人の通らない場所だった。ルーチェと周りを見てから、雪を少し平らにした。
手の下へ、魔力を出そうとした。最初は、出した感じがするだけで消えた。ルームを作るときとは違い、何を形にすればいいのか分からなかった。
何度かやり直し、広げず、同じところへ留めるつもりで力を込めた。
手を離したあとにも、何かが残った。
雪の色は変わらない。指で触れても分からない。けれど、少し離れても、あそこに自分の魔力があるように感じた。
「できたの?」
「残った気がする」
俺は小屋まで歩いて戻った。ルーチェもついてきた。小屋の戸口まで離れても、さっきの場所は感じられた。
戸を閉め、土間へ立った。ルーチェはすぐ隣にいる。
雪の景色ではなく、そこに残したものを辿った。
足が沈んだ。
*
目を開けると、薪積み場の裏にいた。
さっき手をかざした雪の上だった。風が頬へ当たっている。息を吸うと、冷たい空気が喉へ入った。
来た。
そう思ったところで、膝が震えた。俺はしゃがみ、雪へ手をついた。小屋からここまで移動するより、ずっと疲れていた。
小屋の戸が開き、ルーチェが顔を出した。俺を見つけて近づいてきた。
「レイ、だいじょうぶ?」
「ああ。できたみたいだ。でも慣れてないせいか少し疲れたから、今日はもうやめる」
ルーチェの手を借りて立った。帰りは二人で歩いた。小屋へ戻ると、俺は椅子へ座り、息が整うまで待った。
紙には、置いたものを「印」と書いた。
翌朝、同じ印へもう一度行けた。その次の日は移動を試さず、残っている感じだけを確かめた。
置いてから三日経った朝、その感じが消えていた。
小屋の中で辿ろうとしても、景色は変わらなかった。歩いて確かめに行ったが、手をかざしても何も分からない。印だけがなくなっていた。
別の日に、もう一度置いた。今度も三日経つと消えた。
雪に残したものは、長くはもたなかった。
*
「ルーチェ。お前にも印をつけてみたい」
夜、小屋の戸を閉めてから話した。
ルーチェは布をほどいていた手を止めた。
「わたしのところに、これるように?」
「ああ。雪へ置いたものは、二度とも消えた。お前ならどうなるか、確かめたい」
ルーチェは考えてから、ほどきかけた布を巻き直した。
「それは、いたかったりするの?」
「雪につけたときは、熱くもならなかった。ただ、お前にやるのは初めてだ。変な感じがしたら、すぐ言ってくれ」
「うん。いいよ」
俺は布の上から、頭へ手を置いた。
布越しでも、雪よりずっと温かい。その下には、いつも感じている繋がりがあった。そこへ、さっきまで雪に残していたものと同じつもりで、少しだけ魔力を留めた。
指を離しても、印は感じられた。元からあった繋がりと重なって、今までより見つけやすい。
「どうだ?」
「なにも、かんじない。もう、ついたの?」
「たぶん。明日、試してみよう」
ルーチェは自分の頭へ触れ、それから俺の手を取った。
「つかれたら、おわりにしてね」
「ああ」
迷い穴でも、井戸でも、この子がいるところへ行けなかった。今度は必ず、と思いたくなったが、その約束はまだできなかった。
*
翌朝は、ルーチェが小屋の中で待った。
俺は裏へ出て、戸から離れた。雪につけていた印はもうない。今、感じるのは小屋の中にいるルーチェと、そこに残したものだった。
周りを確かめてから、それを辿った。
靴の下が、硬い土間に変わった。
目の前でルーチェが振り向いた。頭の布を巻き終え、こちらを待っていたところだった。
「きた」
「……来たな」
ルーチェが笑った。俺は寝床の端へ座った。やはり足が重くなったが、今度は自分で座るところまで行けた。
三日経っても、印は残っていた。日を空け、つけてから五日後にも同じ距離から試した。
小屋の中へ来られた。
雪のときとは違う。理由はまだ分からないが、少なくとも、この子に置いた印は消えていなかった。
紙にそう書き、そこでペンを止めた。もっと遠くからも来られるのか、疲れているときにも使えるのかは、別に確かめなければならない。
*
印をつけて五日経った夜、ルームへ入ってからも、俺は食卓で紙を見ていた。
ルーチェはまだ人の姿で、隣の椅子にいた。頭の布をたたみ、紙の端を覗いている。
「これで、はぐれてもあえる?」
「今日みたいに使えればな。でも、遠くはまだ試してないし、疲れていたらできないかもしれない」
「じゃあ、まだてをつなぐ?」
俺はペンを置いた。差し出されるのを待たずに、隣の手を取った。
「繋ぐ。飛べるようになっても」
ルーチェが、握った手を見た。
「どうして?」
「……繋いでいたいから」
言うと、ルーチェが笑った。
「うん。わたしも」
指が握り返してきた。
王都で、この子は手を繋ぐとうれしいと言った。あのとき聞いた言葉を、今度は俺が言うのに少し時間がかかった。
紙には、試していないことがまだ残っていた。明日も同じように来られるか、これから確かめることも増えるだろう。
今はペンを取らず、もう少し、その手を握っていた。




