壁の向こうと、届いた手
西の方から、足音が聞こえた。
手のひらから魔力を出し続けたまま顔だけ向けると、槍の人が走ってきた。後ろには、桶を持った人もいる。
「坊主、下がってろ!」
倉の中から男が出てきた。背の袋が膨らんでいる。弩の男は矢先をこちらへ向けたまま後退し、倉の角で仲間と並んだ。
槍の人が俺たちの前へ出た。二人の男は、倉の向こうへ消えた。
「追わなくていい! こっちに来て二人を避難させてくれ!」
槍の人が後ろへ声を掛けた。女の人たちが、桶を持った人に支えられて井戸の脇を離れていく。
もう、俺が手を上げていなくてもいい。
そう思ったとき、手のひらの重さが消えた。三本の矢が、雪へ落ちた。
力が戻ったわけではなかった。出ていった魔力は戻らず、膝は震えていた。ただ、これ以上は出ていかない。
ルーチェのところへ。
俺は小屋へ向かおうとした。
*
その瞬間、景色が変わり、室内に移動していた。
井戸のそばには雪があった。今は、踏み固めた土間の感触がする。囲炉裏の灰の匂いがした。
俺たちの小屋だった。
歩いていない。走ってもいない。そのあいだに通るはずの道が、なかった。
目の前に、男の背中があった。白い外套の下から腕が伸び、その手がルーチェを掴んでいる。頭の布は土間に落ち、ほどけた髪が残り火に照らされていた。
ルーチェの目が、俺を見た。
男はまだ背中を向けていた。俺は腕を伸ばしかけ、それより先に足を出した。
今なら、手が届く。
男の腕へ両手を掛けた。固かった。引いても、思ったようには動かなかった。
男が肩越しに振り返った。その動きで、掴んでいた腕が横へ引かれた。
「ルーチェ、こっち!」
俺が手を伸ばすと、ルーチェも体を引いた。男の指が外れ、この子の手が俺の手を掴み、そして下がった。
踵が寝床の端に当たり、膝が折れかけた。ルーチェが後ろで俺の上着を掴んだ。俺は足を踏み直し、男との間に立った。
男はすぐにこちらを向いた。押さえられたわけでも、倒せたわけでもない。俺たちとの間に、ほんの少し隙間ができただけだった。
*
男の目が、俺からルーチェへ動いた。
それから腰に手をやり、短い刃を抜いた。
俺の腰にも短剣はあった。けれど、柄を探すより早く、さっきと同じように手が上がった。
空気に、厚みが戻った。
男の刃が、手のひらの向こうで止まった。井戸のときより、魔力が一気に出ていく。足の裏が土間を押した。
今度は、ルーチェが背中にいる。
上着を掴んだ指の位置が分かる。そこまで来られた。けれど、壁は井戸のときより薄く感じた。保とうとするだけで、息が上がった。
男が刃を引いた。俺の手の前を見て、少し横へ動こうとした。
小屋の外で、呼ぶ声がした。
「レイ! 中にいるのか!」
ガレスさんの声だった。別の人が、窓が破られていると叫んだ。板の隙間を松明の光が横切った。
男は窓へ目をやった。それから、俺の肩越しにルーチェを見た。
髪も、目も、隠れていなかった。
俺は手を上げたまま、男を見ていた。顔を覚えようと思ったのに、刃と、こちらを見る目から視線を動かせなかった。
男が身を翻した。破れた窓の縁に手を掛け、外へ出ていった。
外で怒鳴り声がした。誰かが走り、その足音が遠ざかった。
俺はまだ、手を下ろせなかった。
窓から何も戻ってこないと分かったところで、手のひらの厚みが消えた。そのまま膝が折れ、土間へ座り込んだ。
*
「レイ、けがしてない?」
ルーチェが前へ回り、俺の顔を覗き込んだ。頷こうとしたが、首まで重かった。
「してない。お前は?」
「うでが、いたい」
袖を持ち上げようとするので、俺も手を伸ばした。指が思ったところへ行かなかった。
「……あとで、婆さんに見てもらおう」
外からまた声がした。戸を押す音もする。
「レイ、開けられるか?」
「ルーチェ。棒を、外してくれるか?」
ルーチェは戸と俺を見比べた。それから立ち上がり、戸の棒を外した。
ガレスさんが入ってきた。続いてイルサさん、ヨルクさん。松明の光で、土間に散った木の欠片が見えた。
ガレスさんは破れた窓を見て、俺たちへ目を戻した。ルーチェが俺の隣へしゃがんだ。髪を手で押さえ、顔を伏せたが、さっきまでの金色は見られている。
誰も、それを尋ねなかった。
ヨルクさんが落ちていた布を拾い、埃を払って差し出した。
「巻いときな」
ルーチェは受け取り、俺を見た。俺が頷くと、髪を布の中へ収め始めた。いつもはすぐ結べる端を、一度取り落とした。
*
「中にいたのは、一人か?」
ガレスさんが俺の前へしゃがんだ。
「見たのは、一人です。妹の腕を掴んでました」
「どこから逃げた?」
「窓です」
イルサさんが窓のそばへ行った。ヨルクさんは外の人に、板と、婆さんを呼ぶよう頼んだ。
「立てるか?」
ガレスさんに聞かれ、床へ手をついた。腕に力が入らず、体を浮かせられなかった。
「……今は、無理です」
抱えるようにして寝床へ移された。ルームを広げたときの疲れを思い出したが、今は体を置き直すのも、人の手を借りなければできなかった。
ガレスさんが毛布を掛け、俺の顔を見た。
「井戸の二人が、お前が矢を止めたと言ってる。三本とも、触りもしなかったと」
「……はい」
「ここへは、どう来た?」
俺は答えようとして、口を閉じた。
井戸にいた。ルーチェに呼ばれた気がした。手を下ろせるようになって、それから、気づいたら、この子のすぐ後ろにいた。どこに出るかを選んだ覚えはない。
「分かりません」
ガレスさんは黙って待っていた。
「ここに来ようとは、思いました。でも、道を走った覚えがなくて」
自分で言っても、説明にならなかった。
「そうか。今は、それでいい」
ガレスさんは立ち上がり、窓へ向かった。俺は隣に座ったルーチェを見た。布の端をまだ握っていた。
「妹のところへは、行けたんだな」
振り向いたガレスさんに言われ、俺は頷いた。
「はい」
それだけは、答えられた。
*
婆さんが来て、ルーチェの腕を見た。袖を上げたところには、掴まれた跡が残っていた。指を動かし、曲げて伸ばすところまで確かめられた。
俺も、痛む場所はないか聞かれた。体を動かすのがつらいと言うと、今夜はそのまま寝ていろと言われた。
窓へ板を当てる音がしていた。戸口には人の声があり、外でも二人が見ていてくれることになった。
婆さんたちが出たあと、ルーチェは俺の手を取った。
「わたし、りゅうになれなかった」
俺は顔を横へ向けた。
「つかまれて、こわくて。なろうとしたのに、できなかった」
繋がりの向こうから来た冷たさを思い出した。あのあいだ、俺は壁を保つだけで精いっぱいだった。ルーチェへ流れるものも、細くなっていたように感じた。
何ができなくしたのか、今は分からなかった。
「ああ。怖かったな」
ルーチェは頷いた。手は離さなかった。
「俺も、すぐには行けなかった」
「でも、きてくれた」
声が少し強くなった。
「まどやとびらからじゃなくて、きゅうに、あのひとのうしろにいた」
俺は、窓に打ちつけられた板を見た。あそこを通った覚えはない。戸を開けたのも、さっきのルーチェだった。
「俺も、どうやったか分からないんだ」
「……そっか」
王都で、二つの箱の中が繋がっていたらと考えたことがあった。手紙を入れれば、遠くの箱から取り出せる。自分で運ばなくても、届くようにしたかった。
今夜、あいだの道を通らずに動いたのは、俺だった。
同じことなのかは、まだ分からなかった。
*
その夜は、ルームを開く力も残っていなかった。
窓は板で塞がれ、戸には棒が戻っていた。ルーチェは人の姿のまま、隣で毛布にくるまった。布を巻いた頭が、俺の肩のすぐそばにある。
「レイ、もううごける?」
「まだだな」
「じゃあ、わたしがここにいる」
そう言って、俺の手を握り直した。熱い手だった。握り返す力はほとんど出なかったが、触れているところだけは、よく分かった。
井戸の前で、足を動かそうとするたびに壁が薄れた。その感触を思い出すと、今も手を下ろしてはいけないような気がした。
けれど、ここにはルーチェがいる。今掴んでいるのは俺だ。
けど、どうしてここに来られたのかはわからない。もう一度、同じことができるのか。
考えかけても、目を閉じると土間の感触ばかりが戻ってきた。雪を踏んでいたはずの足が、あそこにあった。
「レイ、もうねていいよ」
ルーチェの声がした。
俺は手の温かさを確かめ、今度は目を閉じたままにした。




