火の当番の夜と、離せなくなった手
ルーチェが水汲みを休み始めて、六日が経った。
最初の朝は、一緒に洗い場へ行った。ルーチェが自分で、しばらく婆さんの棚を手伝うと話した。桶を洗っていた人は少し残念そうにして、それでも、また顔を見せてなと言ってくれた。
今は俺の隣で、葉を選り分けている。傷んだところを見つけると、勝手に捨てずに婆さんへ見せた。より分けた葉より、確かめてもらう小皿の方が先にいっぱいになる日もあった。
イルサさんは、まだ連中の居場所を掴めていなかった。沢筋を三本調べて、火の跡は見つけたという。ただ、灰の上には雪が積もり、誰もいなかった。
「同じところには、いないようだね」
そう聞いた日の夜も、火の当番は続いた。
俺は三日に一度、真夜中の組に入っていた。四人のうち、俺以外は大人だ。森へ見回りに出る人や、朝から薪を運ぶ人が少しでも眠れるように、火を保つ手伝いを頼まれた。
ガレスさんには、広場を離れず、用があれば同じ組の人に言えと言われていた。知らない人影を見つけても追わず、大人を呼ぶ。それが俺の役目だった。
*
出る前に、ルームを開こうとした。
ルーチェは首を振った。俺が当番で外にいる夜は、ルームには入らない。前の当番で中へ寝かせたときも、戻って開けるまで眠らずに待っていた。
「今夜も、広場にいるだけだぞ」
「うん。でも、ここでまつ」
迷い穴では、俺の声が聞こえても、ルーチェの声は届かなかった。俺が戻るまで自分では出られないルームに、また一人で入れとは言えなかった。
だから、当番の夜だけは小屋の寝床を使っていた。頭に布を巻き、人の姿のまま毛布にくるまって眠る。いつもとは違う寝方だった。
俺が戸を出たあと、ルーチェが内側から棒を掛け、戸を開けないようにした。木の触れ合う音を聞いてから、迎えに来ていた槍の人と広場へ向かった。
今夜も、小屋ではルーチェが眠っている。
そう思いながら、俺は火へ細い薪を足した。
*
当番は俺と槍の人、それに集落の男の人が二人だった。
火は高くしすぎない。明るくしようと薪を重ねると、その外側がかえって見にくくなる。ヨルクさんにそう言われ、足す前に周りを見るようにしていた。
夜半を過ぎたころ、煙の匂いが変わった。
目の前の火ではない。顔を上げると、槍の人も立っていた。西の屋根の向こうが赤くなっている。
「薪小屋だ」
集落の人が声を上げた。もう一人がヨルクさんの家へ走り、軒の鉄の板を叩いた。硬い音が重なり、家々の戸が開いた。
人が桶を持って走り出した。西の外れには、ひと冬ぶんの薪を積んだ小屋がある。その屋根から、火が見えていた。
「坊主、お前は井戸だ」
槍の人が俺の肩を掴んだ。
「水を汲んで、運ぶ人間に渡せ。火のそばには来るな。井戸の者と一緒にいろ」
「はい」
槍の人は西へ向かった。俺は水場へ走った。
すれ違う人たちは、みんな火の方を見ていた。井戸も、婆さんの家も、俺たちの小屋も、集落の東寄りにある。
走りながら小屋の方を見たが、ほかの家の陰になっていた。先に井戸へ行けば、そちらへ少し近づける。
*
井戸には、洗い場の女の人が二人来ていた。
少し前まで、ルーチェと並んで桶を運んでいた人たちだ。釣瓶を引き上げ、桶へ移し、運びに来た人へ渡す。俺も空の桶を受け取り、その列に入った。
三つ目へ水を移していると、一人が俺の肩越しを見て止まった。
振り向くと、倉の角に男が二人いた。革を重ねた上着に、雪に紛れるような白い外套。集落で見た顔ではなかった。
一人は袋を背負っていた。もう一人は、短い弓に柄をつけたようなものを両手で構えていた。
弩だ。前世でいう、ボウガンのようなものだ。
「動くな」
女の人が釣瓶の縄から手を離した。桶が石の縁に当たり、水がこぼれた。
「倉の鍵を出せ! 女、持ってるだろう?」
首が横に振られた。袋を背負った男が倉の戸へ移り、金具を引いたが、開かなかった。
俺たちの後ろには井戸がある。脇へ回れば、倉の角に立つ男の前へ出る。その男の弩が、女の人の胸へ向いた。
俺は桶を放し、二人の前へ出た。
腕が上がった。何を出そうとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、あの矢をこちらへ通したくなかった。
手のひらの先で、空気が厚くなった。
見えない板を押さえているような重さだった。指を曲げる前に弦が鳴り、目の前で何かが止まった。
短い矢が、目の前の空中で止まっていた。先をこちらへ向けたまま、落ちてこない。
*
男が矢を見て、俺を見た。
「……なんだ、それは」
俺にも分からなかった。
下ろしかけた手の先で、厚みが揺らいだ。慌てて押し返すと、また同じところに重さが戻った。そのあいだにも、魔力が手のひらから出ていく。
男が次の矢をつがえ始めた。後ろの一人が井戸の脇へ動こうとすると、その方へ弩の向きが変わった。
「下がって。俺の後ろに」
二人が身を寄せた。俺も一緒に下がろうとして、足へ力を入れた。
手のひらの抵抗が急に薄くなった。
足を元へ戻すと、重さが戻った。次の矢が来る。手を突き出し直したところで、また弦が鳴った。
二本目も、一本目の隣で止まった。
ここから動かせない。手だけでなく、足までこの場に縫い留められたようだった。
「誰か! 井戸に来てくれ!」
後ろの人が叫んだ。西では鉄の板を叩く音と、火を消す声が続いていた。俺も呼ぼうとしたが、息が短く切れた。
指先がしびれ始めていた。
*
三本目も止まった。
男は宙に浮いたままの矢を見てから、また新しい矢をつがえた。今度は撃たず、俺へ向けたまま口を開いた。
「使えないのか、使わないのか?」
俺は答えなかった。何を聞いているのか考える余裕もなかった。
倉の戸で金具が鳴った。もう一人の男が、戸の隙間へ道具を差し込んでいた。俺たちをここに留めたまま、開けるつもりらしい。
俺は横へ目をやった。いちばん近い家の壁までも、雪の上を何歩か渡らなければならない。二人をそこへ行かせるあいだ、あの弩を止め続けられるだろうか。
考えたところで、胸の奥が跳ねた。
冷たいものが流れ込んできた。目の前の弩を見ている俺の怖さとは、別のところから来た。
ルーチェだった。
いつもは眠いとか落ち着かないとか、その程度しか分からない繋がりの向こうで、何かが急に強くなった。
怖い。
その感じだけが、はっきり届いた。
*
東の外れにある小屋へ、顔を向けかけた。
弩が動いた。俺は正面へ目を戻し、手を伸ばし直した。
小屋までは、走ってもそんなに距離はない。
背後では、女の人がもう一度助けを呼んだ。俺の上着を掴んでいる手が震えていた。こちらも離せない。
繋がりの向こうで、木が割れるようなものが響いた。耳で聞いたのか、あちらから来たのか、区別がつかなかった。そのあと、腕をきつく掴まれたような痛みが走った。
俺の腕には、誰も触れていない。
ルーチェが掴まれている。
そう思った途端、足が前へ出かけた。見えない板が薄れ、俺はまた踏みとどまった。
手のひらへ力を込める。魔力が出ていく。そのたびに、胸の奥からルーチェへ続くものが、頼りなく細くなる気がした。
向こうで何が起きているのか、全部は分からない。分からないまま、今度は頭の周りが冷えるような感じがした。
布。
この子の髪が、見られてしまう。
俺は小屋へ帰る道を思い浮かべた。いつも二人で通る、家の間の細い道だった。すぐそこなのに、一歩目が出せなかった。
*
倉の戸が開いた。袋の男が中へ消えたが、弩はまだ俺たちに向いていた。
上げた腕が重い。肩から下を支えている感覚が薄れ、指を伸ばしているのかさえ分からなくなってきた。
「——ルーチェ」
声に出すと、息がひとつ余計に漏れた。
向こうから、俺の名を呼ばれた。
耳元に声がしたわけではなかった。それでも、ルーチェが呼んだと分かった。俺がそこにいないのに、俺を呼んでいる。
行かなければと思った。
手の先には、止めた矢が三本、浮いたままになっている。背中には二人分の息がある。
俺は、まだ一歩も動けなかった。




