凍った寝床と、たたんだ布
ハンナ婆さんの家は、集落で唯一の薬師のため、薬草の匂いが充満している。
棚に乗っている籠を下ろし、傷んだ葉を除いて、束ね直して戻す。外でそりの音がするたび、顔を上げてしまった。森へ出ていた人が戻ったのか、それとも薪を移しているだけなのか。
あの鹿を見つけてから、森へは二人以上で入るようになった。日暮れ前にはヨルクさんの家で、出た人が揃ったか確かめる。戻りの遅い人がいると、広場を横切る音が大きくなった。
東の斜面の罠は、今は猟師の人たちが回っている。兎は変わらずかかるらしい。知らない鋼の罠は、六つのほかは見つかっていないという。
「もう、ほかへ行ったんでしょうか」
言うと、婆さんが籠の縁を叩いた。
「増えてないからって、いなくなったとは限らんよ」
俺は、分けかけの葉へ目を戻した。いなくなったと思える話を、探していたのかもしれなかった。
*
昼前、婆さんの使いで麻紐を借りに出た。
井戸のそばでは女の人たちが働いていた。桶へ水を移す音のあとに、笑い声がして、その中にルーチェもいた。
頭に布を巻き、両手で桶を運んでいる。洗い場の端へ下ろすと、隣の人に何か言われて笑った。言葉までは聞こえなかった。
「あんたの妹、働き者だねえ」
通りがかった人に言われ、俺は礼を言った。
ここへ来て、月が三度ほど満ちた。初めはどの桶を使うか聞いていたルーチェが、今は空になったものを自分で見つけて運んでいた。俺が見ていないあいだにも、覚えたことが増えている。
水汲みの時間は、急には変えられなかった。ほかの仕事をする人が、その水を待っている。道も、雪をどかしたところへみんなの足が集まる。
俺たちは一緒に家を出て、帰りもなるべく合わせるようにした。それでも、俺が婆さんのところにいるあいだに、ルーチェはここを何度も往復する。
洗い場には大人もいる。そう思って、麻紐を借りに向かった。戻るときには、もう一度井戸の方を見た。女の人たちとルーチェが楽しそうにしゃべりながら水を運んでいた。
*
槍を持った調査隊の人が戻ったのは、その日の昼過ぎだった。
三日前、ギルドへ知らせを届けるため、集落の猟師の人と二人で峠へ向かった。雪山を知る人が道を選び、通れなければ戻る。ガレスさんからは、そう聞いていた。
二人は峠を越えられなかった。
全身に雪がついていて、それを払いながらこちらに近づいてきた。濡れた上着を外し、火のそばへ座らされると、槍の人が椀を受け取った。
「峠の手前で、もう胸まで埋まる。尾根の縁に雪がひさしみたいに張り出してて、崩れたら下を歩く者ごと埋まる。あそこは通れん」
隣の猟師の人も頷いた。二人の靴が、火から少し離れたところに並べられた。
夜、ヨルクさんの家に人が集まった。ガレスさんとイルサさん、集落で森へ入る人たち。俺も、今後の見回りの話を聞くよう呼ばれた。
囲炉裏には薬缶がかかり、白湯の椀が回ってきた。
「今の道では、知らせを出せん」
ガレスさんが言った。
「春まで応援は来ないつもりで備える。おれたち五人と、ここにいる者でな」
ヨルクさんが、火へ薪を一本足した。
「向こうも、あの峠から荷は出せんだろう。雪解けを待ってるなら、その前に見つけたい」
「春まで待って、峠で押さえるのはどうだ?」
集落の人が聞いた。
「それまで獲り続けられたら、遅い。別の道を使うかもしれんしな」
ガレスさんは、椀を両手で持ち直した。
「沢筋の火の跡を、イルサが調べてる。まだ、居場所は掴めてない」
俺は湯を飲んだ。春まで同じ森にいるのかもしれない相手の、顔も人数も分からなかった。
*
「今日、南の尾根で見つけたものがある」
イルサさんが言った。話していた人たちが口を閉じた。
「雪のくぼみに、松の枝が敷いてあった。人が横になれる長さで、四つ並んでる。底は凍ってた」
「寝床ということか?」
ヨルクさんが聞いた。
「そう見えた。古い枝の上に新しいのを重ねてある。出入りした跡も重なってるから、一度きりじゃなさそうだ」
俺は椀を膝の上へ下ろした。
「そこに伏せると、木の間からこっちが見える。獣の道は尾根の向こうだよ」
「こっちというと?」
「この集落」
薬缶の蓋が、小さく鳴った。
雪の上に寝転がっている人間を、俺は思い浮かべた。俺たちが森の方を見ているあいだに、向こうは家から出てくる人を見ていたのかもしれない。
ガレスさんがイルサさんを見た。
「四人はいると見ておくか」
「同時に寝たかまでは分からない。ただ、あそこなら何人か並んで隠れられる」
「罠の跡の二人だけと思わん方がいいな」
ヨルクさんが、薪を押し込んだ。
「蓄えを狙っとるのか?」
「あり得る。誰が外へ出て、誰が残るか。押し込むつもりなら、先に見る」
麦も、塩も、干した肉もある。冬を越すために狙うものなら、この集落にはいくつもあった。
けれど、俺が聞きたいのは別のことだった。
「イルサさん。その場所から、どこが見えますか?」
イルサさんは少し考えた。
「井戸と、洗い場。あとは、広場の半分だね」
昼に見た桶を思い出した。水を運び終えたルーチェが、隣の人へ顔を上げて笑っていた。
頭の布は巻いていた。髪は出ていなかったはずだ。
それでも、あそこで毎朝働く子がいることは、見える。
俺は椀を床へ置いた。少し音がしたので、隣の人がこちらを見た。
*
集まりが終わる前に、夜の火の当番が決まった。広場の火を絶やさず、何かあれば家々へ知らせる。ひとりでは歩かないことも、改めて言われた。
俺は帰りに婆さんの家へ寄った。
婆さんはまだ起きていて、囲炉裏の灰をならしていた。
「婆さん。明日から妹も、棚の仕事を手伝わせてもらえませんか?」
「水汲みは?」
「休ませたいんです。集落を見ていたらしい場所から、洗い場が見えるそうで」
婆さんの火箸が止まった。
「ほかの連中にも、言ったんだろうね?」
「はい。ヨルクさんのところで」
「そうか。……あの子には話したか?」
俺は口をつぐんだ。
先に働く場所を決めてしまえば、連れていけると思っていた。
「まだです。帰ったら話します」
「手伝いなら構わんよ。明日、連れてきな」
婆さんはそう言って、灰へ火箸を戻した。
俺は礼を言った。戸を閉めたあと、すぐには歩き出せなかった。
*
小屋へ戻ると、ルーチェは残り火の前に座っていた。ほどいた頭の布が膝にある。
「おかえり」
「ただいま。……ルーチェ、話があるんだ」
隣へ座った。火へ手をかざすと、指先がじわじわ痛んだ。
「明日から、水汲みは休もう。婆さんに、棚の手伝いを頼んできた」
「わたしも?」
「うん。俺と一緒に」
ルーチェは膝の布を見た。
「……なんで?」
同じ道を歩かない方がいい、と言いかけた。それは、この前も話したことだった。
「洗い場の見えるところに、人がいたらしい。隠れて、こっちを見てたのかもしれない」
「あの、わなをおいたひと?」
「同じ奴かどうかは、まだ分からない」
ルーチェは少し黙った。布の端を、膝の上で揃えていた。
「……わたしのせい?」
「違う」
すぐに答えた。そこだけは、待たせたくなかった。
「雪のせいだ。道が限られるし、今は外を歩いてほしくない」
「……うん」
返事は小さかった。
雪のせいなら、俺は昼にも同じことを言えた。尾根から何が見えるか聞いて、急にこの子の仕事を変えたくなったのだ。
ルーチェは何も聞き返さなかった。俺は火を見たまま、続けた。
「先に、婆さんに話してきた。お前に聞く前に」
「あしたからって、いったの?」
「……ああ」
ルーチェは布を二つに折った。重なった端を、もう一度指で伸ばした。
「おばさんには、わたしがいう」
「洗い場の?」
「うん。あしたもくるって、いったから」
俺は頷いた。俺が決めてきた話の中には、その約束が入っていなかった。
「朝、一緒に行こう」
「うん」
*
ルーチェは、たたんだ布を手のひらに載せた。
「あしたも、これをまいていくの?」
「ああ。婆さんの家へ行くときも」
布はしまえなかった。水を運ばなくなっても、髪を見せて歩けるわけではない。
ルーチェは立ち上がり、明日着る上着の上へ布を置いた。
「はるになったら、おみずくみにもどっていい?」
春になったらな、と言いそうになった。
峠が開いても、尾根にいた誰かがいなくなるとは限らない。婆さんに言われたばかりだった。
「戻れるか、また一緒に確かめよう。今は、いつまでって言えない」
「……うん」
俺も立った。ルーチェが袖を掴んだ。
「レイも、ひとりではいかない?」
「行かない」
「やくそくして」
「約束する」
指が袖から離れた。ルーチェは俺が戸の棒を確かめるのを待っていた。
*
小屋の火を始末し、ルームへ入った。
ルーチェは竜の姿に戻ると、寝床へ腹をつけた。俺はその隣に毛布を敷いた。いつもの場所だったが、横になっても目が閉じなかった。
戸締まりのとき、外にはまた雪が降り始めていた。南の尾根の枝の上にも、今ごろ積もっているのだろう。
あのくぼみが埋まってしまえばいいと思った。人が伏せられなくなるほど、何も見えなくなるほど。
掘り返せば、また同じ場所にいられる。そのことを考えて、毛布を肩まで引いた。
隣でルーチェが頭を動かした。俺の腕に鼻先が触れ、そこで止まった。
明日は一緒に洗い場へ行く。この子が自分で休むと伝えるあいだ、俺も隣にいようと思った。




