雪に残った跡と、要らなかった肉
翌朝は、広場へ行く前に罠を見に出た。
夜のあいだにかかったものを、鳥や狐に取られる前に回収する。体が戻ってから任されたのは、集落の東の斜面にある六つだった。場所は猟師の人に教わり、獣の通る跡を見ながら、輪を置く位置を少しずつ変えていた。
ルーチェも、水汲みの前に一緒に行くと言ってついてきた。頭の布をフードで覆い、俺が踏んだ跡を歩いている。
四つ目までは空で、五つ目に兎が一匹かかっていた。袋へ収めてから、最後の罠へ向かった。
六つ目の手前で、足が止まった。
俺が張った紐が、雪の上に落ちていた。輪のあった場所は踏み荒らされ、その脇に黒いものが埋まっている。
「ルーチェ、そこで待っててくれ」
近づきすぎないところで、腰を落とした。
半円の歯が二枚、向かい合っていた。鋼の罠だった。太い針金が木の根まで延びている。雪から出ているところだけでも、俺の括り罠よりずっと重そうだった。
こんなものを、ここで見たことはない。
俺の紐は、輪の途中で切れていた。裂けて細くなったのではなく、端が揃っている。獣に壊されたのではなさそうだった。
誰かが先にあった罠を切って、自分のものを置いた。
そう考えると、足元の跡も気になった。
*
兎の跡に重なって、靴の跡が続いていた。大きさと歩幅の違う列が、二つある。片方は深く沈み、何か所かで向きが変わっていた。
足跡は斜面を上がり、尾根の手前で木の陰へ消えている。
俺はそちらへ一歩出しかけた。誰が置いたのか、まだ近くにいるのか。それを確かめればと思ったところで、袖が引かれた。
「レイ、そっちにいくの?」
ルーチェが、俺の足元を見ていた。
この先の跡を辿れば、罠を壊した相手に追いつくかもしれない。追いついて、それからどうするのかは、考えていなかった。
「……戻ろう。ガレスさんに見てもらう」
ルーチェが頷いた。俺は先に来た道へ向き直り、二人で離れた。背中の袋では、兎が一匹ぶんだけ重かった。
*
ガレスさんは薪割り場にいた。
俺は、切られた紐と鋼の罠のことを話した。足跡は二人ぶんに見えたこと、尾根の方へ続いていたことも。
「罠は触ったか?」
「触ってません。足跡も、途中から先は見ていません」
「分かった。案内できるか?」
「はい」
ガレスさんは斧を置き、そばの人にイルサさんを呼んでくれるよう頼んだ。それから、俺たちの靴についた雪を見た。
「それより先に入ってないな?」
「何があるかわからないので、戻ってきました」
呼ばれてきたイルサさんにも、もう一度場所を伝えた。俺が向かった方を指すと、弓の紐を肩へ掛け直した。
「それより先に追わなかったのは、いい判断。とりあえず、見たところまで連れていって」
ルーチェは、俺の隣で聞いていた。
「ガレスさんたちと見てくる。婆さんのところで待っててくれるか?」
「わかった。レイも、ちゃんとかえってきてね」
「うん。帰ったら、そっちへ行く」
婆さんの家まで一緒に行き、袋を預けた。ルーチェは俺から袋を受け取って、中を覗いた。
「これも、わたしておく」
「頼む」
俺は戸が閉まるのを見てから、広場へ戻った。
*
三人で東の斜面へ向かった。
イルサさんは俺を後ろへ残し、罠の周りを確かめた。しばらくして、雪から出ている金具を指した。
「王都の工房の仕事だね」
「イルサさんは、分かるんですか?」
「留め金と蝶番に癖がある。同じ作りのを、向こうで見た。一つで銀貨一枚はするよ」
俺はもう一度、雪に埋まった歯を見た。
これを背負って、山を越えてきたのだろうか。紐を切ってまでここへ置いたのなら、獲物を取りに戻ってくるつもりなのだろう。
イルサさんは周囲の跡を見て、ガレスさんと短く話した。俺たちは少し離れたところで待ち、イルサさんが指した方へ移る、ということを繰り返した。
同じ鋼の罠が、あと五つ見つかった。
俺の六つとは別に、重い罠が六つ、獣の道を塞いでいた。
「去年の報告は、一つだった」
ガレスさんが低い声で言った。
それ以上は話さず、イルサさんが戻ってくるのを待った。
*
尾根の向こうへ少し下りたところで、イルサさんが足を止めた。
木の根元に、大きな塊があった。薄く雪をかぶっている。その上に角が出ていた。
鹿だった。
ガレスさんが先に周りを見た。呼ばれて近づくと、腹が開いているのが分かった。
腿も、背の肉も残っていた。皮さえ剥いでいない。腹の中だけが、空だった。
イルサさんが切り口のそばの雪を少し払った。俺は目を逸らしかけ、もう一度見た。
ベックさんの店で、同じように腹を開いてきた。内臓を傷つけないように刃を入れ、取り出したあとは、肉を分ける。持ってきた人も、それを待っていた。
この鹿は、その途中で置いていかれていた。
「肉は、持っていってないんですね」
「ああ」
ガレスさんが答えた。
「内臓だけだな」
切り口の周りには、小さな血の跡が飛んでいた。下の雪も赤かったが、見えている分だけでは、この大きさの獣にしては少ない気がした。
「血も、取ったんでしょうか」
「そう思うか?」
「店で解体したときより、少なく見えます。ただ、下の雪までは分からないので」
血を受けた器があったのかもしれない。まだ生きているうちに腹を開いたのかもしれない。考え始めると、港町で聞いた声が戻ってきた。
あれは生きてるうちに取らなきゃ、値が落ちる。
桟橋の男は、肝の値段を話していた。あのとき隣にいたルーチェも、その言葉を聞いた。
俺は口を閉じた。目の前にある切り口と、知っている手順とが、勝手に繋がっていった。
*
イルサさんは鹿の周りを回り、足跡の続く方を見た。
「戻ろう。レイ、帰りも私たちのあとを歩いて」
「はい」
立ち上がったとき、鞘が上着の裾に当たった。昨日はこれを人へ向けられなかった。ここへ来た誰かは、腹を開いて、中身を持っていった。
同じことではない。それでも、柄へ触れかけた手を引っ込めた。
ガレスさんが、切られた罠の方へ目をやった。
「しばらく見回りには来るな。こっちで、猟師たちと話す」
「俺の罠も、任せていいんですか?」
「ああ。置いた場所は、戻ってから全部教えろ」
俺は頷いた。ガレスさんは俺が歩き出すまで待っていた。
*
帰り道、イルサさんが横に並んだ。
「あんたの罠は、場所をどうやって決めた?」
「猟師の人に教わって、あとは獣の跡を見ました。何度も通ってるところに」
「そうだね。通りやすい道は、繰り返し使う」
イルサさんは、俺たちが朝つけた跡へ目を落とした。
「人も同じだよ」
自分の靴の脇に、ルーチェの小さな跡が並んでいた。
ここへ来てから、月が三度ほど満ちた。婆さんの家へ行く道も、罠を見る順番も、いつの間にか決まっていた。水を運ぶルーチェがどこで休むかまで、俺は知っている。
俺以外でも、何日か見ていれば覚えられるのだ。
「……気をつけます」
「ひとりで歩かないこと。通る時間も道も変えな」
俺は頷いた。朝の俺は、まさに一人で、罠の先へ足を出しかけていた。
*
戻ると、ガレスさんはヨルクさんのところへ行った。俺は罠の場所を伝えてから、婆さんの家へ寄った。
ルーチェは棚の前で、ほどいた紐を巻いていた。俺を見ると立ち上がり、外へ目を向けた。
「あのひとたちも、もどった?」
「戻った。今、ヨルクさんと話してる」
それを聞いて、また腰を下ろした。
夕方には、ガレスさんが婆さんの家にも来た。森へは二人以上で行き、日が落ちる前に戻ること。見慣れない罠を見つけても、外さず知らせること。婆さんは話を聞き終えると、俺へ顔を向けた。
「坊主。明日からは、朝もここの棚を手伝いな。斜面は大人に任せときな」
「……はい」
まだ直したい罠はあった。けれど、今朝の続きへ行っていい理由にはならなかった。
ルーチェは紐を巻く手を止めて、俺たちを見ていた。
*
小屋へ戻ってからも、鹿の状態を思い返していた。
あれは、もっと大きな獣を扱うための練習だったのではないか。内臓を傷つけずに取り出し、血を受ける。その手順を、鹿で確かめていたのではないか。
そう思う理由は、俺が先に竜の話を知っているからだった。肝の値段も、血を飲めば不老不死になるという噂も。
鹿の中身だけを欲しがる理由が、ほかにもあるのかもしれない。誰が獲ったのかさえ分かっていない。それなのに、考えがそこへ戻った。
ルーチェが、ほどいた頭の布を椅子へ置いた。
「レイ、なにをみてきたの?」
「……鹿がいた。誰かが獲って、置いていったんだ」
「おにくを?」
「うん。肉は、残ってた」
ルーチェはしばらく考えてから聞いた。
「たべないの?」
「食べるために獲ったんじゃ、なかったみたいだ」
「……もったいない」
俺は頷いた。朝、この子が婆さんへ渡した兎は、明日の鍋に入ると言われた。骨からも出汁を取る。そのつもりで、俺は獲った。
ルーチェは俺の手を取り、指を握った。
「レイ、もうみつけても、おいかけないでね」
「ああ。今日は途中で戻ってよかった」
返事をすると、指の力が少し緩んだ。
俺はルームを開いた。ルーチェが先に入り、寝床の前で振り向いた。その腹を誰かの刃が開くところを、想像しかけた。
俺は短剣の柄から手を離し、あとに続いた。




