罠を仕掛ける手と、触れる距離の刃
あれから、冬も半ばが過ぎていった。
脇腹を庇わずに動けるようになってから、預かった短剣を振る練習も始めた。最初は抜くたびに柄を握り直していたが、今は手元を見ずに持てる。
ガレスさんが集落にいる朝は、広場の雪を踏み固めてから向かい合う。相手が動けば、こっちも足を動かす。上半身ばかり見ていると、初日と同じように腕だけが伸びた。
最初の日は、二回やって一度も届かなかった。その後も、空振った回数の方がずっと多い。それでも、ゆっくり動いてもらえば、下がる足についていけることが増えた。
その朝、三度目に俺の指がガレスさんの上着へ触れた。胸の辺りの、厚い布だった。
「よし。次は、それを持ってやってみろ」
ガレスさんは俺の腰を指した。
「刃は抜くな。それで、胸にゆっくり当てるだけでいい」
*
短剣を持って向かい合った。
ガレスさんが一歩下がり、俺も足を進める。今度は腕だけを伸ばさずに済んだ。上着が、さっき指で触れたところにあった。
そこで、手が止まった。
鞘はついたままだ。強く当てる必要もない。そう分かっているのに、先端を胸へ向けると、肩から先に力が入った。
ガレスさんは動かなかった。俺はその前で、短剣を下ろした。
もう一度やっても、同じだった。届かないのではなかった。届くところまで来てから、自分で止めていた。
「……すみません」
「謝ることじゃない。何が気になったか?」
手元を見た。鞘の先には雪もついていない。
「これを、そっちへ向けるところで……。抜いてないのは、分かってるんですけど」
「そうか。一度、置こう」
俺は広場の端の丸太へ短剣を置いた。手を空けると、握っていた指がすぐには伸びなかった。
*
広場の脇の丸太へ腰を下ろした。ガレスさんは手袋を直しながら聞いた。
「獣を獲ったことはあるんだな?」
「あります。罠と、落とし穴で。穴に落ちたところへ、上から石を落としたこともあります」
初めて角ウサギを獲ったときのことを思い出した。穴の底でまだ動いていた。石を持ち上げて、落としたあとも、すぐには覗けなかった。
あれから何度も獲物を持ち帰った。ベックさんの店では腹を開き、肉を分けることも覚えた。血を見ただけで、手が動かなくなるわけではない。
「向かってくる獣に、刃物を使ったことはあるか?」
「ありません。穴の中でも、できなくて」
あの太い脚のそばへ、自分から入っていく気にはなれなかった。それは前にも話した。
「じゃあ、人に向けたことは?」
「……ありません」
考えたこともなかった。前世でも、こっちへ来てからも、刃物は肉を切るためのものだった。
ガレスさんは頷いた。
「罠を仕掛けるのと、動く相手に刃を向けるのは、勝手が違う。相手が人なら、なおさらだ」
「でも、今日は練習です」
「ああ。それでも止まった。だが、初めて人と向き合うときは、誰でもそうなる。ましてや、人に刃物を向けたことがないなら、仕方のないことだ。今は、そこからだ」
丸太の向こうに、俺の足跡があった。ガレスさんの前までは来ている。その先に、短剣の先端だけが出なかった。
人に触れるのが初めてだったわけじゃない。ルーチェの手も取るし、家族を抱き返したこともある。けれど、胸へ向けた鞘の中には刃がある。その先を考えると、さっき止まったところで、また腕が強張った。
*
「おれは十四で、初めて人を殺した」
ガレスさんが言った。俺は顔を上げた。
「ギルドの依頼だ。よくある、盗賊の討伐だった。ほかにどうしようもなかったと、あとで言われた。だが、しばらくは飯の匂いだけで吐いた」
手袋の端を引いていた指が止まった。
「だから、人に刃を向けるのを平気になれとは言わん。ただ、短剣を持っただけで使えるつもりになるな。さっき、手が止まった自分に驚いてただろう?」
「……はい」
止まるとは思っていなかった。足が届くようになれば、その先も同じようにできると思っていた。
「じゃあ、これを使えなかったらどうする?」
短剣を見て、それから広場の端へ目をやった。
「逃げます」
「妹が一緒なら?」
「連れて、下がります」
「そのとき、目の前に相手がいたら?」
すぐには答えられなかった。ルーチェの手を掴んでも、俺がつまずけば、二人とも転ぶ。
「相手を避けて、通れる方へ……行ければ」
「まずはそれをやろう。掴まれたときの外し方もな」
俺は短剣から目を離した。
「相手の武器を落とさせたりして無力化することも、教えてくれますか?」
「教えられるが、相手を、殺さないようにする方が大変だぞ。近づくことには変わりないからな」
ガレスさんは立ち上がり、俺が置いた短剣を拾った。鞘を確かめて、柄をこちらへ向ける。
「これで終わりにするか?」
「……もう少し、教えてください」
受け取ると、柄は冷えていた。握りしめかけた指を、少し緩めた。
*
休んでから、短剣を置いて、掴まれた腕を外す練習をした。最初は引っ張り返すことしかできず、ガレスさんの手が離れても、俺の方がよろけた。午後にも短く繰り返したが、手首だけ動かそうとすると、足が残った。
相手の腕へ手を当て、横を向いて下がる動きも教わった。ガレスさんが合わせてくれるあいだはできた。少し強く押さえられると、それだけで止まった。
「今は、やり方を確かめてるだけだ。これができたからといって、本物の相手を押さえられると思うなよ」
俺は頷いた。力いっぱい振りほどこうとする相手を、こんなふうに動かせるとは思えなかった。
最後にもう一度向かい合い、差し出された手を避けて下がった。腕が上がらなくなり始めたところで、その日は終わった。
「短剣の方は、またやる」
「はい」
「今日は、できなかったところを覚えとけ」
俺は鞘の革についた雪を払った。今朝できなかったことを、夕方にはできるようになったわけではない。それでも、腕を掴まれたら引っ張り返すだけだった俺に、試せる動きが一つ増えた。
腰へ短剣を戻すと、ガレスさんは薪割り場へ歩いていった。
*
夜、小屋の戸口から空を見た。雪は止み、森の上に星が出ていた。上着の中へ手を引っ込めても、指の冷たさがなかなか取れない。
後ろで床が鳴った。ルーチェが頭の布を巻き直し、毛布を持ってきた。
「レイ、さむいよ」
「先に入ってていいぞ」
「レイもはいればいいのに」
「もう少しだけ」
ルーチェは毛布の半分を俺の背中へ掛け、残りに自分でくるまった。二人で使うには、少し狭かった。
「きょうは、なにをおそわったの?」
「腕を掴まれたときに、外すやり方とか。まだ、うまくできないけどな」
「あのひと、つよいから?」
「それもある。……短剣を向けるのも、できなかった」
ルーチェは俺の腰へ目を落とした。
「あのひとに?」
「鞘をつけたまま、当てるだけだったんだけど」
言ってみても、止まった理由をうまく伝えられなかった。怖かった、と言えばそうなのだが、あの獣が迫ってきたときとは違っていた。
ルーチェが俺の袖を引いた。毛布の外へ出た手を取って、自分の頭へ載せる。
「これなら、できる?」
「……ああ」
布の上から、そっと撫でた。これは、何度もしている。
ルーチェは目を細めたが、すぐ俺の手を頭から下ろした。
「でも、てがつめたい」
「そっか。悪い」
離そうとすると、両手で包まれた。指の間から、少しずつ熱が戻ってきた。
誰かがこの手を掴んだとき、自分は動けるだろうか。刃を向けるところでまた止まるかもしれない。できるつもりで前へ出て、そこで驚くのは嫌だった。
だからといって、今日覚えた動きだけで、この子を連れて逃げられるとも思えない。ルームが開かなかったことには、まだ答えがなかった。
「レイ、もうはいろう」
ルーチェが戸の方へ手を引いた。
「ああ」
今度は俺も握り返した。毛布の端を踏まないよう持ち上げ、二人で小屋へ戻った。
戸を閉めてからルームを開くと、ルーチェは布をほどき始めた。俺は預かった短剣を腰から外し、鞘ごと食卓の端へ置いた。
明日の朝も、持っていこうと思った。




