霜の降りた広場と、詰められない一歩
朝、上着の袖に腕を通すのが、昨日より楽だった。
左肩を上げるとまだ少し痛む。腹の方も、引きつる感じがまだする。それでも、ルーチェに袖を引いてもらわずに着られた。
小屋から出ると、辺りの土に霜が降りていた。踏んだところだけ白さが崩れ、靴の先に小さな粒がついた。
先にハンナ婆さんのところへ寄った。
「広場へ行くのか?」
「はい。見せてもらおうと思って」
婆さんは脇腹へ顔を近づけ、右腕も確かめた。それから、戸口まで歩いて戻るように言った。
普通に歩くぶんには、昨日ほど腹を庇わずに済んだ。
「走るんじゃないよ。傷が痛むなら、そこで終わりだ。昼には顔を見せな」
「分かりました」
「よくなったところで、いっぺんに取り返そうとするんじゃない。見るなら、座って見な」
返事をしたら、今度はルーチェが頷いた。
婆さんから借りた椅子は、ルーチェが運んだ。俺が持とうとすると、背もたれを自分の方へ引き寄せた。
「レイは、あとでこれにすわるの」
*
ガレスさんは広場の端に立っていた。
剣は抜いていない。俺たちを見ると、まず椅子へ目をやった。
「椅子か」
「婆さんに、座って見るならと言われて」
「そうか。ほかには?」
「走らないことと、傷が痛んだら終わりだと言われました」
「じゃあ今日は、それまでだな」
椅子を置くと、ルーチェは洗い場の方を見た。
「おみずをはこんだら、またみにくるね」
「ああ。わかった」
頭の布を確かめてから、小走りで離れていった。俺は椅子へ座り、ガレスさんへ向き直った。
ガレスさんが、少し離れたところで止まった。
「ここまで、何歩くらいある?」
「俺の足なら、六歩くらいです」
「では、歩いて確かめてみろ」
立って、ゆっくり歩いた。五歩では足りず、六歩目を少し狭めると、ガレスさんの前へ着いた。
「だいたい合ってたな」
ガレスさんはそう言って、俺を元の場所へ戻した。
「今度は、最後に手を出せ。肩に触るだけでいい。ゆっくりでいいぞ」
*
六歩進めば届くはずだった。
同じくらいの歩幅で近づき、右手を伸ばした。
ガレスさんが半歩下がった。
指先が空を掻いた。体を前へ寄せかけたところで、ガレスさんの手が上がった。
「そこまで」
俺は手を下ろした。
「もう一度、やってもいいですか?」
「ああ」
二度目は、少し近くまで行ってから手を出した。
また下がられた。追おうとして足を出すより先に、腕が伸びた。
そのとき、脇腹が引きつり、俺の動きが遅くなった。
俺が止まると、ガレスさんは椅子を指した。
「座れ」
「もう少しで……」
「少しも届かなかっただろう」
言い返せなかった。
椅子へ戻ると、伸ばした腹の辺りがまだ重かった。息はすぐに戻ったが、やり直そうとする気は、見抜かれていたらしい。
「とりあえず、ここまでだ」
ガレスさんは俺の前へしゃがんだ。
「何を見てた?」
「肩です。触るところを」
「じゃあそこで、動きをよく見ていろ」
*
ちょうど、イルサさんが広場へ来た。
ガレスさんに呼ばれ、面倒そうな顔をしながら向かい合った。
「触ればいいんだな?」
「ゆっくりで頼む」
イルサさんが手を伸ばした。ガレスさんが下がる。
その靴が、霜の上を動いた。
次はイルサさんが足も進めた。ガレスさんはもう一歩下がり、それから横へ避けた。
動き自体は速くはないが、あの動きを見ていると、思わず体が動いていた。
「今のはどうだった?」
ガレスさんに聞かれ、足元へ目を戻した。
「相手の動きに合わせて下がってから、横に避けました」
「さっき、お前の足はどこにあった?」
自分の跡を見た。
最後の足跡の先には、何もない。そこに立ったまま、腕だけを伸ばしていた。
「手を出したところに、残ってました」
「相手はお前との間合いを見ながら動いている。相手との間合いを見ないと、いつまで経っても当たらないぞ」
イルサさんが、今度は先に半歩下がった。ガレスさんが近づきかけて止まり、二人とも元の位置へ戻った。
俺は霜に残った跡を見比べた。新しい跡が古い跡に重なり、靴の向きが少しずつ違っていた。
「どうすれば、相手に届きますか?」
「相手を見るだけじゃあダメだ。相手の動きを見る。今はまず、おれが何をしたか見ていろ」
ガレスさんはそう言って、もう一度同じところへ立った。
*
水を飲み、上着の前を閉めた。動かずにいると、指先が冷えた。
イルサさんが用を済ませに離れたあとも、ガレスさんは何度か足を動かして見せてくれた。
一度、靴が動く前に、膝が少し緩むのが見えた。
「そっちへ下がりますか?」
言うと、ガレスさんが止まった。
「なぜそう思った?」
「膝が動いて、その足の跡が、さっきもそっちにあったので」
ガレスさんは後ろを見た。それから、同じ方向へ一歩動いた。
「今はな。相手の動きによって、動き方は変わる」
「はい」
当たったのは、それだけだった。
次は横へ行くと思ったら、その場に残った。何を見れば分かるのか、まだはっきりしなかった。
それでも、上半身を見ていたときには、気づかなかった動きだった。
*
昼になる前に、ガレスさんが短剣を出した。
鞘に入れたまま、俺へ柄を向けた。
「立たなくていいから、こいつを持ってみてくれ」
受け取ると、小刀より重かった。柄の革は擦れて色が変わり、飾りはなかった。
言われて少し抜き、刃を確かめた。小刀と同じつもりで握ると、手の中の収まりが違った。
指の位置を直したところで、戻ってきたイルサさんが言った。
「ガレス、その持ち方は?」
「肉屋で習ったそうだ」
俺は手元を見た。
「違いますか?」
「獲物を解体するときの持ち方だな。昨日言ったとおり、動く相手には別のことも要る」
ガレスさんは柄を指した。
「そうだな。まずは、握り方からだ。柄は力を抜いて握る。やってみろ」
言われて、握りしめていた指を緩めた。
そのまま何度か持ち直し、鞘へ戻した。今日は振ることも、誰かへ向けることもしなかった。
「こいつは預けとく。使うのは、体が治ってからだ」
「いいんですか?」
「持たせるために出したんだ。寝床で振り回すなよ」
「分かりました」
俺は短剣を膝へ置き、鞘の先まで見た。ベックさんの店で、初めて道具を渡されたときのように、置く場所が気になった。
*
婆さんのところへ戻ると、何をしたか聞かれた。
「最初に少し動いて、あとは座って見ていました」
「傷は大丈夫だったか?」
「手を伸ばしたときに、少し痛みました」
婆さんは腹を確かめ、昼飯のあとは横になれと言った。
午後の練習はなかった。
眠って起きると、広場から薪を下ろす音がした。俺は窓の方を見て、また寝床へ背中をつけた。
短剣は鞄の横にあった。手を伸ばしかけたが、そのまま置いておいた。
*
夕方、ルーチェが椅子を返しに来た。
俺のそばへ座り、鞄の横を見た。
「それも、おそわったの?」
「今日は持っただけ。使うのは、まだ先だって」
「レイ、あのひとにさわれなかったね」
「ああ。そうだな」
ルーチェは膝の上で、指を伸ばして見せた。
「レイがてをだすまえに、あのひとはあしをうごかしてた」
「見てたのか?」
「おみずをはこぶまえに。とりも、とぶまえにあしがうごくことがあるよ」
俺は朝の靴の跡を思い出した。
この子は、俺とは違うものを見慣れている。
「今度、気づいたら教えてくれ」
「うん。あしたもみにいく」
立ち上がろうとすると、ルーチェが手を出した。俺は慌てて掴まず、先に足を床へ置いた。
「レイは、わたしがてをのばしたら、ちゃんとつかんでね」
顔を上げた。
ルーチェは笑っていなかった。差し出した手を引かず、俺の返事を待っていた。
「……ああ。わかっている」
その手を取った。小さな指が、すぐ握り返してきた。
小屋へ戻るとき、広場を通った。朝の霜は薄くなり、俺の二度ぶんの足跡も、人の往来に混じっていた。
明日は手を出す前に、もう一度足元を見ようと思った。




