四日目の帰還と、数の合わない話
※今回は、最後の一場面だけルーチェの視点で書いています。
集落の屋根が見えた。
煙が上がっていた。一本だけではない。手前の家からも、奥の家からも、細い煙が夕空へ伸びていた。
「レイ、むらがみえた」
「ああ」
「けむりも、みえるね」
ルーチェはそう言って、俺の手を握り直した。
あの下には火があって、鍋がある。椀を出したり、薪を足したりしている人がいる。
俺は坂の途中で足を止めた。息を整えていると、ルーチェも止まった。手は離さなかった。
*
最初に気づいたのは、水場にいた女の人だった。桶を持ち上げかけたまま、こちらを見た。それから地面へ置き直し、家の方へ声を上げた。
ヨルクさんが出てきた。大股で近づいてきて、俺の前で止まった。
「おまえ達、どこに行っとった?」
「尾根に……」
言いかけて、息が切れた。
ヨルクさんの目が、俺の顔から、支えているルーチェの手へ移った。
「四日目だぞ。二日で戻ると言っとっただろうが」
「……四日目、ですか?」
「出てから、今日で四日目だ」
俺は集落の屋根を見て、もう一度、煙を見た。ここでは、四日目の夕方なのか。
「歩けるか?」
「ゆっくりなら」
返事をして一歩進むと、脇腹が引きつった。ヨルクさんが俺の腕を取った。
「それで、どこをやった?」
「腹と、腕を。肩も、少し」
「とりあえず、ハンナのところに行くぞ。話はあとでいい」
水場の女の人が、反対側へ回った。ルーチェは手を離す場所がなくて、少し迷ったあと、俺の袖口を掴んだ。
*
ハンナ婆さんの家で、肩に掛けていた毛布を外した。裂けた上着を見て、婆さんが眉を寄せた。
固まったところを湿らせてもらい、少しずつ服を外した。包帯も、血で硬くなっていた。
婆さんは椅子を寄せ、顔を近づけた。
「これ、自分で巻いたのか?」
「はい」
結び目をほどく間、ルーチェが水の入った器を持っていた。
固まった布を外すと、婆さんの手が止まった。脇腹へ、さらに顔を近づける。
「坊主。ここをやられたのは、いつだ?」
「……分からないんです」
「出る前からあった傷か?」
「いえ。穴の中で、獣に」
婆さんは外した包帯を見た。それから、傷の周りを指で確かめた。
「この血は、そのときのか?」
「はい。巻いてからも、出てました」
「ふうむ」
婆さんはそれ以上言わず、右の袖を上げさせた。腕の傷を洗われると、顔が引きつった。左肩は、動かせるところまで動かして見せた。その間、婆さんの目は何度も脇腹へ戻った。
俺が眠っていた時間に、何日も経ったのかもしれない。地下では、そう考えた。けれど、集落を出てからまだ四日目だ。
落ちてすぐに獣に襲われたわけではない。何度も歩いて、休んで、そのあとだった。どこから、どこまでが一日なのか。思い返そうとしても、暗い床と壁しか浮かばなかった。
「坊主、こっちを見な」
婆さんに言われ、顔を上げた。
「傷が閉じとるからって、働けると思うなよ。そんな顔で立つもんじゃない。まず何日かは休め」
「そんなにですか?」
「今、そこまで歩いてみるか?」
婆さんは戸口を指した。俺は座ったまま、首を振った。
手当てが済むと、着るものを貸してもらった。血のついた上着は畳まれ、寝床の脇へ置かれた。
*
煮込みを持ってきてもらった。湯気が顔へ上がってきた。
最初の一口を飲んだあと、俺はしばらく匙を持ったままでいた。
「熱いか?」
ヨルクさんに聞かれて、首を振った。
「おいしいです」
それ以上、うまく言えなかった。隣で、ルーチェが自分の椀を両手で持っていた。
水場の女の人が、空いた器を取りに来た。
「おばさん」
ルーチェが呼び止めた。
「みずくみを、かわってもらったのに」
「いいんだよ、そんなことは」
「でも」
「戻ってきたんだから、まず食べな」
ルーチェは椀を見下ろした。少しして、匙を取った。
*
ヨルクさんには、小屋まで送ってもらった。
婆さんの家に泊まれと言われたが、ルーチェの寝る場所は、俺が用意しなければならない。借りている小屋で二人で休みたいと頼んだ。明日はまた婆さんのところへ顔を出すことになった。ふらつくようなら、自分で来ずに人を呼べとも言われた。
小屋の寝床へ腰を下ろすと、ヨルクさんは戸のそばに座った。
「少し、聞いてもいいか?」
「はい」
「何があった?」
俺は、霧が出たところから話した。採るのをやめて、近くの岩陰で待ったこと。座り直そうとしたとき、地面が崩れたこと。下に落ち、暗いところを歩いたこと。獣に追われて、怪我をしたこと。
ルーチェは横で聞いていた。
「妹は無事か?」
「はい。落ちたのは俺だけです」
霧が出る前に、ルーチェには荷物を持たせて岩陰で休ませていたこと。霧が出たら動くなと言われていたので、俺が落ちたあとも、そこから動かなかったことを話した。
「穴は、見えなかったのか?」
ヨルクさんがそちらを見ると、ルーチェは首を振った。
「三晩、一人でか。……次は、霧が晴れたら下りてこい。動くなと言ったのは、霧の間だけだ」
ルーチェは俺の袖を握ったまま、頷いた。
「で、どうやって戻った?」
俺は指を膝の上で組んだ。
「獣にやられて、一度、気を失いました。起きたのはまだ地下です。そのあと歩いて……出たところは、穴の底じゃなくて、斜面でした。妹を呼びながら歩いて、会えました」
「登って出たんじゃないのか?」
「はい。どう繋がっていたのか、説明できません」
柱の間を通ったことは言わなかった。二つに分かれた獣も、消えた文字も。
自分の身に起きたことを、俺自身が知らない。ルーチェの話まで持ち出せば、あの子に何を聞かれるか分からなかった。俺は、そこで話を止めた。
ヨルクさんはしばらく黙り、長く息を吐いた。
「……迷い穴かもしれんな」
*
「迷い穴?」
「この辺りじゃ、そう呼ぶ。尾根で人が消える。落ちたと言う奴もいる。探しに行っても、穴が見つからん」
「そういう場所が、あるんですか?」
「場所が分かっとれば、近づくなと言えるんだがな」
ヨルクさんは戸の方を見た。
「戻らんままの奴もいる。戻ってきて、話せた奴もいる」
「どんな話を?」
「中でどれだけ過ごしたか、日にちが合わん。出てきたところに穴がない。どうやって出たか、覚えとらんとな」
俺は膝の上の手を見た。
全部が同じではない。柱を通ったことは覚えている。穴も、見える範囲で見つけられなかっただけだ。それでも、知らない斜面へ出たときの感じを思い出した。
「戻ってきた人は、何人いるんですか?」
「おれが聞いたのは、三十年ほどで二人だ。子供のころに一人と、十年くらい前に一人」
「今も、いるんですか?」
「最初の一人は、その年の冬に死んだ。あとから戻った奴は、北の村で畑をやっとると聞いた」
ヨルクさんは言葉を切った。それから、俺の脇腹へ目を向けた。
「そいつも、服は血まみれなのに、傷が塞がっとったそうだ」
俺は顔を上げた。
「その人の傷を、見たんですか?」
「いや。おれが見たわけじゃない。戻ったあとに聞いた話だ」
俺はもう一度質問しようとして、口を閉じた。ヨルクさんも、それ以上は付け加えなかった。
*
「貸してもらった斧を、壊してしまいました」
帰り際に、俺は言った。
「持って戻れたのか?」
「はい。……柄が折れています」
「じゃあ、元気になったら持ってこい。頭が使えるなら、柄を替える」
俺は頷いた。地下で落としたはずだとは、言えなかった。
ヨルクさんは戸を開けかけ、こちらへ向き直った。
「調査の連中が来たら、話を聞きに来るかもしれん。今は休め」
「ありがとうございます」
戸が閉まった。外を歩く音が、少しずつ遠ざかった。
*
人の気配がなくなってから、ルームを開いた。食卓と寝床が見えた。
ルーチェは入口の前で止まった。俺は小屋の毛布を取り、先に中へ入った。
「今日は、俺もここで寝る」
寝床の横へ毛布を広げると、ルーチェも入ってきた。頭の布を外し、椅子に置く。竜の姿へ戻ってからも、俺が腰を下ろすまで横にならなかった。
俺は毛布の上で足を伸ばし、ゆっくり体を倒した。隣で、鱗が布を擦る音がした。
——レイ、ねてないの?
「今から寝る」
少し間があった。
——わたし、かぞえてた。
「何を?」
——レイが、あけないあいだ。
俺は顔を横へ向けた。
「何日だと思った?」
——よっか。
ヨルクさんと、同じ数だった。
「どうやって数えた?」
——ねて、おきて。こんどはあくかなって。……でも、あさなのか、わかんなかった。
俺も、同じだった。
何回か眠ったことは覚えている。それとは別に、倒れていた時間がある。短く眠ったつもりでも、長かったかもしれない。一晩だと思った眠りが、ほんの少しだったかもしれない。指を折って数えようとしても、そこから日付には戻れなかった。
ルーチェが頭を寄せた。俺は手を伸ばし、頬の鱗に触れた。
——ここに、いる?
「いる。ここで寝る」
指の下で、頭が少し沈んだ。俺はそのまま手を置いていた。
呼吸に合わせて、金色の鱗がゆっくり動いた。
*
【ルーチェ視点】
レイの手が、鱗の上で重くなった。息が長くなり、指がゆっくり滑って、毛布の上へ落ちた。
眠った。
わたしは頭を上げず、息の音だけを聞いていた。吸って、吐いて、また吸う。穴の中で、それが止まったときのことを、わたしはまだ忘れていない。糸の向こうから、痛いのも、寒いのも、何も来なくなった。あのときわたしは、ルームの中で、ただ入口を叩いていた。
この集落に来た日、囲炉裏の前で男の人が言った。竜の血を飲めば、不老不死になるって。レイは、わたしから血を取るつもりはないと言った。わたしは、誰かに取られるのは嫌だと言った。
取られるのは、嫌だ。今も、嫌だ。
でも、あげるのは、違う。
わたしは右の前脚を、レイの顔の近くへ寄せた。鱗の隙間に、爪の先を当てる。少しだけ力を入れると、細い痛みが走って、赤いものが一つ、膨らんだ。
一滴でいい。それより多いと、朝になってレイが気づく。
レイの唇に、それを落とした。
レイは目を開けなかった。喉が一度動いて、それきりだった。
前脚の傷は、もう塞がっていた。鱗を舐めると、鉄の味がした。
これが薬になるのかどうか、わたしには分からない。ならなくてもいい。ただ、糸の向こうが細くなっていくのを、もう一度あの場所で待つのは嫌だった。
レイには言わない。言えば、レイは困った顔をする。取らないと言った人だから。
わたしは頭を下ろし、レイの手の横へ頬を置いた。
寝息は、続いていた。




