飛び出してきた金色と、知らない時間
胸の前まで上げた手が、震えていた。
指を一度閉じる。ここでも開かなかったら——そう考えかけて、息を吐いた。
食卓を思い浮かべた。その奥の寝床と、そこにいるはずのルーチェを。
魔力が集まり、今度は散らなかった。目の前に入口ができた。
中を覗くより先に、金色が飛び出してきた。
ルーチェだった。人の姿で、俺の胸へぶつかってきた。
後ろへ倒れかけ、右手をついた。腕と脇腹が痛み、息が漏れた。それでも手を伸ばし、ルーチェの背中に触れた。温かかった。
「ルーチェ」
返事はなかった。両手で俺の上着を掴み、額を胸へ押しつけている。布を引く指に力が入って、離れない。
俺は背中に手を置いたまま、名前をもう一度呼んだ。
肩が震え始めた。声はほとんど聞こえない。ただ、息を吸おうとするたびに、体が小さく揺れた。
「……ごめん」
掴まれた上着が、さらに引かれた。俺はその手をほどかず、背中をゆっくり撫でた。
入口の向こうに、食卓が見えた。椅子も、寝床も、そのままだった。そこへ戻してやらなければと、ずっと思っていた。それなのに今は、目の前にいる子から手を離せなかった。
*
顔を上げたルーチェは、目の周りと鼻が赤くなっていた。
金色の目が、俺の顔から上着へ移った。固まった血を見て、袖の裂け目を見て、もう一度俺を見た。
「レイのばか!」
「……ああ」
「ばか。ばか!」
声が詰まった。
「なんで、あけないの!?」
「開けたかった。何度もやった。でも、開かなかった」
「あけてって、ずっといってたのに!」
「聞こえなかったんだ」
言ってから、また謝りそうになった。
「わたしは、ずっときこえてたのに」
俺は口を閉じた。
「……俺の声が?」
「うん。みずがみつかったって。それから、もじがあったって」
どちらも、暗いところで言った言葉だった。聞こえているか分からないまま、返事を待った言葉だった。
「……よんだのに」
ルーチェの指が、上着の裂け目を掴んだ。
「わたしはここだよって、いったのに!」
俺には届かなかった。お互いに同じように繋がっていると思っていた。けれど、向こうの声がこちらへ届くのかどうか、確かめたことはなかった。
「ごめん」
「あやまらないで」
ルーチェは顔を袖で拭いた。
「あやまるのは、ずるい!」
俺は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「……戻ってきた。今は、ちゃんと聞こえてる」
ルーチェは俺を見た。また口元が歪んだが、今度は小さく頷いた。
*
風が吹いて、破れた上着の背中が冷えた。
ルーチェがそれに気づき、俺の脇へ回り込んだ。
「ここも、やぶれてる」
「ああ。何か羽織る」
人の声も足音もしないのを確かめ、ボックスを開いた。こちらも開いた。
毛布と、水と食べ物を出した。毛布に指が触れたところで、俺はしばらく手を止めていた。穴の中で、何度も取り出そうとしたものだった。
「レイ?」
「……取れた」
それだけ言って、毛布を膝へ載せた。
着替えようとして、やめた。左の袖を抜こうとしただけで肩が痛み、手伝おうとしていたルーチェの手も止まった。固まった布は、脇腹に張りついている。剥がすのは、帰ってからでいい。
ルーチェが毛布を広げ、破れた背中へ掛けてくれた。裂け目から覗く包帯を見て、その手が止まった。
「まだ痛むけど、さっきよりは動ける」
「さっきって?」
「……倒れる前より」
そう答えると、ルーチェは包帯から目を離した。毛布の端を俺の肩へ寄せてから隣へ座り、水を受け取った。
ルームの入口を閉じるとき、ルーチェの手が止まった。俺はルーチェの肩に触れ、閉じたあとも、しばらくそのままにしていた。
*
「レイが、やられたとおもった」
水を飲んだあと、ルーチェが言った。
「……ああ。ひどい目に遭った」
「ちがう」
俺の胸の辺りを指した。
「たおれて、いきをしなくなった」
水袋を持つ手が止まった。
「痛くて、息ができなかったときか?」
「そのあと。なにも、こなくなった」
ルーチェは、自分の胸に手を当てた。
「ふって、なくなった」
「いつの話だ?」
「おっきいのに、おいかけられて、たおれたあと」
俺は、この子の顔を見た。追われたことは、まだ話していない。
「獣のことも、分かってたのか?」
「みてた」
「見えてた?」
ルーチェは頷きかけて、首を傾けた。
「まわりがくらくて、おとがして、レイがにげてた」
両手を胸に押し当てる。
「いたいのも、さむいのも、ここにながれてきてた」
どんなふうに見えていたのか、俺には分からなかった。それでも、この子に届いていたのは、俺の声だけではなかった。
「あけてって、ずっといってたのに」
また、その言葉へ戻った。
外で俺が逃げているあいだ、この子もルームの中で出口を求めていた。俺は、ただ待たせているつもりだった。
口を開きかけると、ルーチェがこっちを見た。謝る代わりに、差し出された手を握った。
*
「そのあと、どうなった?」
ルーチェは少し黙っていた。
「うごいた」
「俺が?」
「うん」
「立ったのか?」
「わかんない。てが、こんなふうに」
俺と繋いでいない方の手を持ち上げ、曲げた指をゆっくり開く。
「……なったとおもう」
俺は自分の手を見た。覚えていない。倒れて、脇腹へ手をやろうとして、届かなかった。そのあとに、孤児院の声を聞いた。指を開いた記憶はなかった。
「それから?」
「しずかになった。おっきいのの、おとがしなくなった」
俺は頷きながら、獣の切り口を思い出した。
「レイがうごいたとき、へんだった」
「変って?」
ルーチェは眉を寄せ、言いかけて、やめた。俺は待った。
「なんか、いた」
「誰かいたのか?」
「ひとじゃない。……わかんない。でも、なんか」
「怖かったか?」
答えが出るまで、少し間があった。
「……こわくなかった」
ルーチェは自分の手を見下ろした。
「ずっと、こわかったのに。あれは、こわくなかった」
指を曲げ、もう一度開いた。
「せつめい、できない」
「うん。話してくれて、ありがとう」
俺は、それ以上聞かなかった。指の動かし方だけが、目に残った。
*
俺の傷が閉じたのも、そのあいだなのか。獣を切ったものと、この子が感じたものは、同じなのか。
考えながら右手を握った。いつもの手だった。爪の間に土が残り、擦れたところが痛んだ。動かそうとすれば動いた。
ルーチェが、その手を見ていた。俺は力を抜いた。
「さあ、帰ろうか?」
「あるける?」
「休みながらなら。ただ、霧が晴れて道が見えるまで待ちたい」
木の間には、まだ霧が流れていた。もう一度どこかへ落ちたらと考えると、今座っている場所から足を出すのも怖かった。
俺たちは食べ物を少しずつ口に入れ、近くの木の根が見えるようになるまで待った。そのあいだ、ルーチェは俺のすぐ横にいた。
*
出発前にもう一度ルームを開けた。ルーチェは入口から中へ手を伸ばし、外してあった頭の布を取った。
結ぶのを手伝おうとすると、俺の右腕を見て言った。
「じぶんで、やる」
長い髪を少しずつ布の中へ収めていく。結び終えた顔を見ると、金色の目は、まだ涙で濡れていた。俺は布の端から出た髪を一本だけ入れ直した。
ルーチェが、折れた斧のところへ行った。
「これも?」
「ああ。ヨルクさんに返さないと」
渡された斧を、ボックスへ入れた。どうして地上にあったのかは、分からないままだった。
鞄から道順の紙を出した。地形と目印を確かめ、分かるところから戻ることにした。
立ち上がると、脇腹が引きつった。ルーチェが肩を支えようとして、届かずに腕を持ち直した。
「痛っ、そっちは、傷がある方だ」
「……こっち?」
「うん。ゆっくりでいい」
二人で足元を見て、一歩下りた。
「レイ、もういかないで」
次の足を出す前に、ルーチェが言った。
「ひとりでいかないで」
「……ああ。一緒に帰ろう」
握った手に、力が返ってきた。
俺たちは同じ石を避け、次の足場へ進んだ。




