音のない切り口と、読めない石板
※今回は、冒頭の一場面だけ三人称で書いています。【レイ視点】からは、いつもの形に戻ります。
そこから先のことを、俺は覚えていない。
*
【???視点】
倒れた少年の胸は、動いていなかった。
右手は床に投げ出され、指が半ば曲がっている。脇腹に巻かれた布の下から、血がゆっくりと滲んでいた。
獣が近づき、鼻先を下げて、少年の上へ前脚を振り下ろしたが、爪は届かなかった。
体に触れる寸前で前脚の動きが鈍り、深い水へ突っ込んだように止まって、押し返された。獣は後ろへ下がり、低く唸って、今度は体ごとぶつかったが、また押し戻された。
少年の上着の端が、床からわずかに浮いていた。転がってきた石の欠片も、体に触れる手前で止まっている。守られているのは、倒れた体のすぐ周りだけだった。
そして、獣が跳んだ。
そのとき、少年の指が一本ずつ、ゆっくりと開いた。瞼は閉じたままだった。
手の先の空気がたわみ、薄い面が床から天井へ伸びた。
光もなく、音もなかった。
跳んだ獣がそこを通り、そのままの勢いで床へ落ちた。落ちてから、二つに分かれた。切り口から血が広がるころには、面は消えていた。
少年の上着が床へ戻り、止まっていた石の欠片が袖に触れた。
脇腹の傷が閉じ始めた。開いた縁が寄り、合わさり、細い線になっていく。巻かれた布も、裂けた服も、そのままだった。染み込んだ血も戻らなかった。
少年の胸が、大きく動いた。間を置いて、もう一度。
曲がっていた指が、床の上で緩んだ。
少年は、そのまま床に横たわっていた。
*
【レイ視点】
目が開いていることに、しばらくしてから気づいた。
暗かった。ただ、足の方の暗がりが少し薄い。顔を動かすと、遠くにぼんやりした明るさがあった。
俺は耳を澄ました。床を抉る音も、あの太い息遣いも聞こえない。
逃げないと。
右手を動かしかけて、別のことを思い出した。
ルーチェ。
目を閉じて繋がりを探すと、残っていた。そこに意識を向けたまま、ルームを開こうとした。魔力は集まりかけて、散った。入口は現れなかった。
「ルーチェ」
声がかすれた。返事はない。
もう一度やろうとして、脇腹が引きつった。右手を当てると包帯があった。表面が硬くなり、指で押すとかすかに音がした。
俺は肘をつき、少しずつ体を起こした。起こせた。そのまま、しばらく動けなかった。
倒れる前は、立つだけで精いっぱいだった。最後には、脇腹へ手も届かなかった。今は、腹に触れられる。
痛みはあった。左肩も、右腕も痛い。体は重く、口の中は乾いていた。けれど、さっきまでとは違っていた。
*
上着の裂け目を探ると、固まった布が肌に張りついていた。包帯の結び目を緩め、動くところだけ少しずつずらす。
指が傷の端に触れた。
閉じている。
俺は手を止め、もう一度そっと触れた。さっきまで血が流れていたところに、細い筋があった。周りは痛む。それでも、触れた指が新しい血で濡れることはなかった。
いつからだ。どのくらい、倒れていた。
穴へ落ちてから、何回か眠ったのは覚えている。そのあとに歩いて、獣に追われて、ここへ倒れた。最後に聞こえたのは、鍋の蓋を置く音だった。あれは、ここでした音ではない。
俺は服を掴んだ。脇腹から下がごわついていて、布を曲げると、乾いたところが割れた。これだけ血がついている。包帯を巻いたときの痛みも、まだ覚えている。それなのに、傷は閉じている。
何日も経ったのか。そう思っても、確かめるものがなかった。
俺は包帯を戻し、緩めたところを結び直した。水袋が体の脇にあったので、少し飲んだ。喉を通ったあとも、体の重さは変わらなかった。
*
右手を床につき、立ち上がった。膝が震えたので、すぐには歩かず、壁へ寄った。
目を凝らすと、薄い明かりの方に黒い塊があった。動かない。
俺は止まった。待っても、動かなかった。
少し近づくと血の匂いがして、そこで形が分かった。
獣だった。
脚が横へ投げ出されている。窪みの入口で見た、あの太い脚だ。その先が、妙だった。胴の途中に隙間がある。
俺は壁に手をついたまま、しゃがんだ。
二つに分かれていた。
目を凝らしても、細かいところまでは見えない。右手を伸ばしかけ、一度引いた。動くかもしれないと思い、しばらく待った。何も起きなかった。
今度は、手を伸ばした。毛のあるところから、切り口の縁へ指を移す。皮が途切れ、その内側も同じところで終わっていた。硬いものに触れた。骨だった。そこも、平らだった。
俺は手を引いた。
ベックさんの店で、獣は何度も捌いた。刃を入れる場所を探して、関節を曲げて、それでも切り離せずに手間取ったことがある。この体は、骨のあるところまで、一続きに断ち切られていた。
どんな刃物なら、こうなる。俺の小刀では無理だ。ヨルクさんの斧でも、こんな切り口になるとは思えなかった。
腰へ手をやった。小刀は鞘に収まっている。布を切ってから戻し、そのあとは抜いていないはずだ。斧は、逃げる途中に置いてきた。
誰かがいたのか。俺が倒れたあと、ここへ来たのか。
「誰か、いるのか?」
返事はなかった。
声の返る暗がりを、しばらく見ていた。
*
明るい方へ進んだ。獣の脇を通るときはできるだけ距離を取り、背後で音がしないか、何度も足を止めた。
通路に入ると、明るさが少しずつ増した。壁の継ぎ目が見える。床の石も見える。足を出す先が見えるだけで、歩き方が変わった。
前を見ると、上から細い光が落ちていた。高い天井の隙間が白く光り、そこから斜めに差す光の中に、埃が浮いていた。
外だ。
俺は顔を上げたまま、しばらく見ていた。
遠かった。隙間は細く、見えるところには、そこまで登れる足場もなかった。
目を下ろすと、光の届く床に柱が立っていた。
*
二本あった。
俺の背丈の倍ほどの、四角い石の柱だった。表面は平らに削られ、互いに向かい合って、人が何人か並んで通れるだけの間が空いている。上を繋ぐ石はない。柱の向こうにも、同じ床が続いていた。
門なのか。
近づいて、内側を見た。目の高さに、手のひらほどの丸い窪みがあった。指を入れると奥まで届き、縁は滑らかに削られている。反対側にも、同じ高さに同じものがあった。どちらも空だった。
何かを嵌めるのかもしれない。
俺は窪みへ意識を向け、鑑定を試した。何も出なかった。ルームも試したが、開かない。光があっても、ここではまだ使えないみたいだ。
俺は柱に手をつき、少し休んだ。
足元に、石板が立てかけてあった。
*
石板には、文字があった。
壁で見たものと同じ、縦に長い形の文字だった。今度は、はっきり見えた。細い溝が何行も並び、石板を埋めている。
俺はしゃがんだ。
この石板をリーナに見せたかった。大書庫で探して、ようやく見つけたのは、本の余白に残された短い注釈だった。ここには、こんなにある。
上から順に目で追い、知っている形を探した。星、還る、待っている。
あの一行から拾えた意味を思い出しても、目の前の文章は読めなかった。どこで言葉が切れるのかさえ、分からない。
写しと比べたかった。写しも、ペンも、ボックスの中だ。俺はもう一度ボックスを開こうとして、途中で手を下ろした。さっき駄目だったばかりだ。
指を石板へ戻した。
持って帰れないかと思い、両端に手を掛けた。少し動かしたところで脇腹が痛み、落とす前に戻した。この体で抱えて歩くのは無理だった。
仕方がないので、形だけでも覚えるしかないと思った。
俺は最初の行を、指でなぞり始めた。
*
途中で、指が止まった。さっきまで触れていた溝が、浅くなっている。
顔を近づけると、石が剥がれたのでも、粉が落ちたのでもなかった。彫り込まれた線そのものが、ゆっくり薄くなっていた。
「待て」
手のひらで押さえても止まらず、指の間で文字が消えていく。慌てて手を退け、読めなくても形だけは覚えようと上から追ったが、最初の行はもうなく、次の行も、その下も、見ているそばから消えていった。
最後の四文字だけが、少し長く残った。一つ目、二つ目と目で追い、触れようとしたところで、そこも平らになった。指が石の上を滑り、もう引っ掛かるところはなかった。
*
柱の間が揺れているように見えた。
俺は石板から顔を上げた。向こうの床がわずかに歪み、二本の柱の間に、薄い面ができている。水を通して見たように、その奥の輪郭が揺れていた。音はしなかった。
俺は座ったまま、それを見ていた。
出口なのだろうか。
向こうに何があるのかは分からなかった。それなのに、そこを通れるという感じだけは、はっきりあった。
ルームを開くときに似ている。いや、同じではない。俺が作ったものではなかったし、どうやってできているのかも分からない。それでも、そこが壁のように塞がっている感じはしなかった。
俺は柱に掴まり、立ち上がった。
もう一度、ルーチェへ繋がる感触を確かめた。残っていた。この先で、ルームが開けられるかもしれない。
振り返った。
石板は、足元に立てかけられたままだった。光が斜めに当たっている。どこにも、文字の影はなかった。
俺は柱の間へ右手を伸ばした。
指先は、何にも止められなかった。
そのまま、一歩踏み出した。
*
頬に、冷たいものが触れた。
足が石の床を踏まず、柔らかいものへ沈んで、膝が折れた。右手をつくと、土だった。濡れた葉が、指の間に入った。
顔を上げた。
木の枝があった。枝の間に、白い空が見えた。
風が吹き、裂けた上着の中へ入って、背中を冷やした。俺は息を吸った。土と、濡れた草の匂いがした。
外へ出た。
そう思ってから、振り返った。
柱はなかった。石の床も、光の差す天井もない。木と、斜面と、その間を流れる霧があった。
尾根なのか。落ちた場所へ戻ったのか。
俺は座ったまま、周りを見た。見える範囲に穴はなかった。けれど、霧の向こうまでは見えない。どの岩が、座っていた岩なのかも分からなかった。
少し離れた落ち葉の上に、斧があった。
柄が折れている。
ヨルクさんの斧だった。
俺はそれを見つめた。
置いてきたはずだ。地下で、拾わずに逃げた。ここまで持ってきていない。
右手を見た。何も持っていなかった。腰には小刀がある。水袋も、財布も、身につけたところに残っている。腹に触れると、硬くなった包帯があった。
夢だったわけではない。
斧の折れたところへ、霧が流れた。
俺はそこから目を離し、震える右手を胸の前へ持ち上げた。




