追われた暗がりと、上着の中の包帯
通路を進んでいると、また天井が低くなった。
頭をぶつける前に気づいたのは、壁を伝っていた右手に、斜めに張り出した石が触れたからだった。
腰を屈め、鞄の斧が引っ掛からないように押さえて通った。
その先で、右の壁が途切れたので、足を止めた。
手を戻して角を探し、その向こうへ触れていく。壁は横へ続いている。
どうやら、広いところへ出たみたいだ。
水袋が体に当たる音が、さっきより遠くへ返った。
そのあとに、別の音がした。
硬いものが石に当たる音が聞こえた。
俺は動かずに息を潜めた。
また、鳴った。
その向こうから、低い息遣いが聞こえた。
自分の呼吸ではない。
口を閉じても、その音は聞こえていた。
右手を角から離さないまま、片足を後ろへ戻した。
そのとき、靴の下で小石が鳴ってしまった。
その音で、向こうの呼吸が止まった。
次の瞬間、向こうから足音が一気に近づいてきた。
*
俺は急いで反対側を向こうとして、肩を壁にぶつけた。左腕に痛みが走ったが、止まれなかった。
辺りを探る余裕はなかった。
靴が石に当たっても、そのまま踏み越えた。転びかけるたびに右手を壁へ突き、前へ進んだ。
背後で、鋭いもので床を抉るような音が聞こえた。
近い。
低いところ。
さっき屈んだ場所がある。
右手に張り出した石が触れ、俺は頭を下げた。
鞄を引き寄せ、ほとんど四つ這いで抜ける。
後ろで、何かがぶつかった。
石の欠片が背中に落ちた。
俺はそのまま這って進み、天井が高くなったところで立った。
足音は、そこで一度止まった。
息を吸った。
吸い終わる前に、石を擦る音がした。
続いて、硬いものが砕けた。
また、砕けた。
あそこを、通ってくる。
俺は壁に手を戻し、走った。
*
エルフの文字がある部屋へ戻ったのかどうかも、途中から分からなくなった。
何も見えないまま、右手の感覚だけを頼りに進んだ。角に触れれば曲がり、壁が途切れて手が届かなくなれば、別の壁を探した。
一度、細い隙間へ体を押し込み、口を袖で塞いだ。
足音が近づいてきた。
すぐ前を通り過ぎ、少し遠ざかった。
止まった。
俺も動けなかった。
足元に触れた石を拾い、音が遠ざかった方へ投げた。
石が跳ねた。
床を抉る音がそちらへ動いた。
俺は隙間を出た。
走り出すと、すぐに背後で足音が向きを変えた。
長くは離せなかった。
次に拾った石も投げた。今度は、その音が止まっただけだった。
少し待って、またこっちへ来た。
俺の息の音や匂いを、たどってくるのかもしれない。
服の擦れる音かもしれない。
何を頼りに追ってくるのか、分からなかった。
息を殺したくても、もう口を閉じていられなかった。
*
鞄が壁に引っ掛かった。
体だけが前へ行き、紐が肩に食い込んだ。
引き戻そうとしたとき、乾いた音がした。
次の瞬間、重いものが床に落ちて、鉄が石を打つ音が通路に響いた。
斧だった。
鞄から飛び出していた頭が、石の隙間に噛んだらしい。
ヨルクさんに借りたものだ。
とっさに伸ばした指に、途中で裂けた柄が触れた。
後ろで、また床を抉る音がした。
俺は手を離した。
立ち上がってからも、落とした場所へ戻りそうになった。
戻れなかった。
鞄が軽くなり、その分だけ速く動けるはずなのに、足はもう上がらなくなっていた。
*
壁の根元に、体を横にすれば入れる窪みがあった。
右手で奥を探り、頭から潜った。
背中を丸め、足を引き込む。
何かが入口の石を砕いた。
すぐ近くだった。
石の欠片が頬へ落ちた。
俺はさらに奥へ寄った。左肩が壁に押され、痛みで声が出かけた。
右手で口を押さえた。
硬いものが石を擦る音が続いた。
ここにいると、分かっている。
俺は腰の小袋を探った。火打石と、残しておいた苔。
上着の裾へ小刀を入れ、前に裂いたところから内側の布を切り取った。鞘の口が見つからず、指で確かめてから刃を収めた。
窪みの奥へ布と苔を置き、火打石を打つ。火花は散っては消え、その間にも入口で石が鳴った。足を縮めた拍子にこぼれた苔を指で寄せ、もう一度打つと、小さな赤い点が残った。
荒い息のままでは吹き消してしまいそうだった。口を近づけて細く吹くと、煙が上がり、布の端へ火が移って小さな炎になった。
入口の縁が見えた。
その向こうに、太く毛に覆われた脚が見えた。
爪が石に掛かっている。
俺は布の燃えていない端をつまみ、入口へ差し出した。
脚が引いた。
擦れる音が遠ざかった。
今だ。
燃える布を外へ放り、俺は窪みから這い出した。
火のある方とは反対へ、壁を伝って走った。
背後の明かりは、すぐになくなった。
すぐ近くで、また床を抉る音がした。
*
最初に触れられたのは、背中だった。
上着が引かれた。
首元が締まり、次の瞬間、布が裂けた。
体が前へ投げ出された。右手を突き、そのまま這って角を曲がった。
二度目は、右腕だった。
壁へ伸ばしていた腕に、熱いものを感じた。
手を引き寄せると、袖の内側が濡れていた。
指を動かした。
動いた。
それだけ確かめて、また壁を探した。
止まると追いつかれる。
走ると足元が分からない。
どちらも分かっているのに、足が勝手に速くなった。
右手に、角張った石が触れた。
壁だと思って曲がると、すぐ向こうにも角があった。
柱のようだ。
それを回り込んだところで、横から音がした。
避ける方へ足を出すより先に、脇腹を打たれた。
熱かった。
息が抜けた。
床に倒れ、腕を伸ばした。指は何も掴めなかった。
体が滑り、低い段差の下へ落ちた。
*
顔のすぐ前に石があった。
背中にも、石が触れていた。
俺は膝を腹へ寄せた。そのとき、右腕と脇腹が鋭く痛んだ。
上で爪が鳴った。
何かが隙間へ差し込まれ、服に触れた。
俺は踵で床を押し、さらに奥へ体をずらした。
また、爪が入ってきた。
今度は届かなかった。
息を止めようとしたが、止められなかった。
口から短い息が漏れる。
向こうも、息をしていた。
しばらく石を砕いてから、その音は離れた。
いなくなったのか。
耳を澄ました。
少し遠くで、爪が一度だけ鳴った。
俺は顔を伏せた。
*
脇腹に手を当てた。
濡れていた。
裂けた上着の下から、温かいものが指へ移った。
傷は見えない。どのくらい切れているのかも分からない。
押さえている手を離したくなかった。
けれど、片手では上着の内側をうまく探れなかった。
少し体を起こし、左手を差し込む。肩が痛んで、肘が上がらない。
右手を一度だけ脇腹から離し、内ポケットへ入れた。
布包みがあった。
落としていなかった。
膝に挟み、包みを開いた。
指が滑る。紐を引くつもりで、巻いた布の方を引いてしまった。
少しずつほどいた。
王都を出る前の日に買った包帯だ。
ひと巻きだけ、ボックスへ入れずに持っていた。
俺はその端を折り重ね、脇腹へ当てた。傷が痛んで思わず手が緩み、布を落としそうになったが、何とか押さえた。
また近くで、石を砕く音がした。
俺は慌てて動きを止めた。
音が離れるまで、布を押さえていた。
そのあと、残りを体へ回した。
背中へ手を回すと、左肩が痛んだ。布の端を取り落とし、腰の下から引き出した。
何度も止まった。
巻き終えても、これで足りるのかは分からなかった。
結び目を右手で押さえ、壁へ頭を預けた。
包帯がなかったら、また上着を裂いていた。
その上着も、もう背中が破れている。
内ポケットの空いたところへ触れた。
ここに包帯をひと巻きだけ分けておいて、よかった。
*
またルームを開こうとしたが、入口は現れなかった。
エルフの文字がある部屋からは離れたはずだ。
それでも、集めた魔力は形にならずに散った。
もう一度試したが、駄目だった。
同じように、ボックスも開かない。
薬草は持っている。
水も、食べ物も、替えの服もある。
物はあるのに、取り出せない。
ルーチェへ繋がる感触を探した。
まだ残っていた。
けれど、今は自分の痛みと恐怖でいっぱいで、向こうの様子まで考えられなかった。
「ルーチェ」
それだけ言った。
続けようとして、喉が詰まった。
まずは落ち着かないといけない。そう思ったのに、体が震えてきた。
*
寒くなってきた。
背中の裂け目から、冷たい空気が入る。
動かずにいると、脇腹に当てた布まで冷たくなった。
俺は水袋を探し、少しだけ飲んだ。
栓を閉めるのに、両手が要った。
どれくらい待てば、あれはいなくなる。
耳を澄ましても、しばらく音はしなかった。
そのあと、すぐ上で石が鳴った。
俺は膝を引いた。
爪がまた差し込まれた。
入口の縁を砕き、欠片を落としていく。
さっきより、奥へ来ている気がした。
俺は右手を体の横へ伸ばした。
段差の下の隙間は、横へ続いていた。
どこまで続くかは分からない。
腹を庇いながら、少しずつ体をずらした。
布が床に擦れた。
止まって、音を聞く。
爪はまだ、元の場所を抉っていた。
もう少し進んだところで、背中を塞いでいた石が途切れた。
そこから、外へ出た。
*
最初の数歩は、ゆっくり歩けた。
右手で壁を探り、左の肘で脇腹を押さえた。
その次の角へ着く前に、足音が近づいてきた。
俺はまた走った。
走るたびに、巻いた布が傷に触って痛みが走り、足がもつれた。
右手を壁へ突くと、腕の傷が痛んだ。左手で支えようとすれば、肩が動かなかった。
それでも、止まれなかった。
曲がって、壁を探し、音が近づけばまた動く。
どこへ向かっているのか、もう考えられなかった。
途中で、小刀の柄に手が触れた。
あの太い脚を思い出した。
刃を届かせるには、こっちから近づかなければならない。
俺は柄から手を離し、壁へ戻した。
次の一歩で、膝が折れた。
*
立とうとして、右手を床へ突いた。腕が震え、肘が伸びかけては、また曲がった。
もう一度やって、膝を立てるところまではいけた。そこで止まった。
息を吸っても吐いても脇腹が痛み、どこへ体を預けても痛かった。
もう、いいか。そう思った。
しばらく座って、追いつかれることも、ルームが開かないことも、少しだけ考えるのをやめたかった。
ここまでやった。もう立てない。それなら仕方がないと、誰かに言ってほしかった。
俺は壁へ額をつけた。
ルームは、どうなる。
扉を閉じたとき、ルーチェは中にいると言った。
次の休憩で、また声をかけるはずだった。
俺がここでやめたら、あの子はいつまでも出られない。
俺は壁に右手をつき、指を広げた。
一度では立てなかった。
足の位置を変え、背中を壁に押しつけた。膝が震えながら伸びた。
何とか立つと、頭がふらつき、しばらく動けなかった。
それから、一歩踏み出した。そしてもう一歩。
後ろで、爪が鳴った。
*
衝撃で足が床を離れ、何に打たれたのかも分からないまま、体が落ちた。背中を擦りながら滑り、止まった。
口を開けても、息が入らなかった。もう一度開けると、少しだけ入った。
仰向けになっていた。天井は見えない。
右手を動かそうとしたが、動いたのかどうかもよく分からなかった。脇腹を押さえなければと思っても、手はそこまで届かなかった。
石を砕く音がした。遠いのか近いのか、もう分からなくなった。
*
皿の音がして、誰かが椅子を引いていた。ミコが人数を数えている。途中でテオとルカの声が重なり、何を取り合っているのかは分からないまま、ハナが叱った。いつもの声だった。
俺はそちらを向こうとしたが、首が動かなかった。
豆を煮る匂いがした。根菜と、少しの肉も入っている。台所と食堂の間から、湯気が流れてくる。
アリア姉が鍋の蓋を開けると、みんなが黙った。その短い静けさを、俺は知っていた。
「レイ。手を洗った?」
返事をしようとしたが、声が出なかった。
手を洗ってから座るから。俺の分も、残しておいて。
そう思って、まだ帰っていないことを思い出した。
港町で買った魚を持っている。一匹だけじゃない。
みんなで食べられるように、買い足した。
ルーチェと、持って帰ると決めた。
誰かが椅子を引いた。
俺もそこへ行こうとしたが、体は動かなかった。
鍋の蓋が置かれる音を最後に、何も聞こえなくなった。




