暗がりを歩く道具と、四角い部屋
横穴へ足を踏み入れてからしばらく経った。振り返っても、落ちてきた穴は見えなくなっていた。
割れ目に落ちたときに痛めた左肩では、斧を持ち続けるのは難しい。右手は壁に手をやるので、横穴に入る前に、鞄に斧の柄を差し込んでおいた。それでも歩くと揺れるので、自然と歩幅も小さくなった。
横穴は真っ暗で、壁は曲がりながら、少しずつ下っているようだった。
試しに、右手を顔の前へ持ってきた。指を動かしても、見えなかった。
俺は右手を壁へ戻し、慎重に進んでいった。
何も見えないので、靴の先をゆっくり滑らせるように歩く。何か異変を感じたら、その向こうを探る。足を置いてから、少しずつ体重を移していく。
右の指先には、ざらついた壁が触れている。
一度、窪みに沿って手を伸ばしたら、指が届かなくなった。
足を止めた。
少し戻すと、また岩に触れた。そこから上下を探り、窪みの縁を確かめてから進んだ。
壁を伝えば外へ出られるのかは分からない。
ただ、右手を離してしまったら、今どちらを向いているのかも分からなくなりそうだった。
*
灯りのことは、何度も考えた。
火打石と、乾いた苔はある。上着の布を裂けば、少しは燃やせるかもしれない。
けれど、それを燃やし続けるものがなかった。斧の柄に布を巻いて松明にしても、染み込ませる油がなければ、すぐに燃え尽きてしまう。
落ちた場所で見つけた葉は濡れていた。ここまで歩いてきても、靴に当たるのは石ばかりだ。
上着を少しずつ燃やして、どこまで行ける。
水袋を取り出したとき、袖口に頬が触れた。そこもまだ湿っていた。
ひと口飲み、栓をした。
いずれ、どうしても先を見なければ進めない場所に出るかもしれない。
苔は、それまで残したかった。
袋の位置を指で確かめ、また壁へ手を戻した。
何歩か進んだところで、額に岩が当たった。
「っ……」
強くぶつけたわけではない。それでも、後ろへ引いた体の動きで左肩が痛んだ。
しゃがみ、右手で頭の上を探った。
天井が低くなっていた。
その先は、腰を屈めて進んだ。頭の上を確かめ、足元を探り、壁に触れ直す。
少し進むだけで、何度も止まった。
*
水の音がした。
最初は、自分の水袋が揺れたのかと思った。
止まっても、音は続いた。
右の壁を伝っていくと、指先が濡れた。細い流れが、岩の割れ目から落ちていた。
水だ。
手を差し入れると、冷たさが指の間を抜けた。
飲めるか。
いつものように、鑑定しようとした。
何も分からなかった。
手に触れているのに、名前も、性質も出てこない。
もう一度だけ試して、やめた。
俺は濡れた指を鼻へ近づけた。目立つ匂いはしない。だが、暗くて色も濁りも見えなかった。
水袋を揺らした。
何度も少しずつ飲んでいるうちに、残りはわずかになっていた。
この先にも水があるとは限らない。
ここを通り過ぎてから引き返すとしても、同じ場所まで戻れるか分からなかった。
俺は残っていた水を飲み、空になった袋を膝に置いた。
流れからすくった水を、少し口に含む。
冷たい。
かすかに鉄のような味がした。
それで安全だと分かるわけではなかった。しばらく口の中に残った味を確かめてから、飲み込んだ。
もう少し飲み、水袋の口を流れの下へ持っていった。
うまく入らず、最初は手首と袖を濡らした。位置をずらすと、水が袋の底を打つ音がした。
膨らんでいく袋を支えていると、重さで左肩が鈍く痛んだ。
途中で床に置き、右手だけで口を開いた。
栓をするまで、思ったより時間がかかった。
いっぱいになった水袋は重かった。
提げ直すと、その重みが体の脇へ戻ってきた。
*
どれくらい歩いたのか、分からなくなっていた。
最後に食べたのは、尾根へ登る途中の昼だった。
初めて腹が鳴ったときは、夕方になったのかと思った。
けれど、そのあとも腹は鳴った。鳴らなくなっても、空腹は続いた。
何度目が夜で、何度目が朝なのか。
そんな数え方はできなかった。
右の指先がひりつき始めると、手のひらや指の背に替えた。壁に触れる場所を少しずつ変え、それでも痛くなれば止まった。
座る場所も、手で探した。
床がひどく濡れていないところ。背中を預けられるところ。
見つけると斧を鞄から抜き、すぐ横へ置いた。立ち上がるときに忘れないよう、柄を右足に触れさせておいた。
左肩は、じっとしていても痛むようになっていた。
楽な角度を探して腕を抱え、壁にもたれた。
眠るつもりがなくても、気づいたときには、目を閉じて頭が下がっていた。
どれくらい眠ったのかは分からない。
目を開けても、何も変わらなかった。
*
休むたびに、ルームを開こうとした。
場所が変われば、今度はできるかもしれない。
集めた魔力は、そのたびに散っていった。
入口を思い描くと、食卓や置いてきた食べ物と水、それに、昼に顔を見せたルーチェまで浮かんでしまう。
もう、次の食事を待っているだろうか。
帰るのが遅いと思っているだろうか。
俺は目を閉じ、あの繋がりへ意識を向けた。
まだ、ある。
落ちた直後の、張り詰めたような感じは弱くなっていた。
落ち着いたのかもしれない。眠っているのかもしれない。
それとも、俺が疲れて、感じ取りにくくなっているだけなのか。
「水は、見つかった」
小さく言った。
声は、近くの岩に返ってきた。
「まだここから出られてないが、諦めずに出口を探す」
返事はなかった。
話しかけても届いていないのかもしれない。それでも、何も言わずにまた歩き始める気にはなれなかった。
俺はしばらく息を整えた。
水袋に触れ、苔の袋に触れ、小刀の鞘を確かめる。
最後に、足元の斧を拾った。
*
何度か休息をとりつつ、少しずつ進んでいった。そのうち床の感じが変わった。
靴の下で転がる石が減った。
何歩か進んでも、足の裏が同じ高さに収まる。
俺はしゃがみ、右手で床を触った。
冷たい石だった。
表面を撫でていくと、指の腹が細い溝に触れた。
溝をたどる。
まっすぐ続いていた。
別の溝にぶつかり、そこで直角に曲がった。
四角い。
手を広げ、隣を探った。そこにも平らな面と、まっすぐな継ぎ目があった。
石を並べてある。
顔を上げた。何も見えない。
それでも、目の前の暗がりが、それまでとは違うものに思えた。
誰かが、ここに床を作った。
俺は立ち上がり、右の壁に触れた。
岩の出っ張りがなくなっていた。壁にも継ぎ目がある。
そこを伝っていくと、指が角に当たった。
角を回った先へ、壁が続いている。
入口なのか。
俺はその場に斧を置き、足で位置を確かめた。
ここで、灯りを使おうと思った。
*
上着の内側を探った。
外側ほど濡れていないところを選び、裾に小刀で切れ目を入れた。布を引き裂くと、思ったより大きな音が響いた。
手を止めて、耳を澄ました。
何も聞こえなかった。
小刀をしまい、裂いた布と少しの苔を床に置いた。残りの苔は先に袋へ戻した。
火打石を打つと、火花が一瞬だけ見えた。もう一度打って、苔の端に残った赤い点へ息を送る。煙の匂いがして、ほぐした布の端へ移すと、小さな炎が立った。
指と、膝と、床の石が見えた。
俺は布の燃えていない端を持ち、顔から離した。
明るいのは、すぐ近くだけだった。
まっすぐな壁がある。床と同じように、切った石が積まれている。
炎を少し上げた。
壁に、線があった。
縦に長い線。その脇から出た短い線。曲がって、隣の形へ続く線。
傷ではなかった。
文字だ。文字が彫ってある。
俺は近づきかけて、足を止めた。斧を跨ぎ、その位置を確かめてから、壁へ寄った。
炎が揺れた。
見覚えのある形が、浮かんだ。
大書庫で写した文字。
リーナの母さんが遺した一行にあった、あの形だ。
火が指の方へ近づいてきた。
俺は布を床へ置いた。
残った炎が小さくなり、消えた。
しばらくは、目の奥に明るい形だけが残っていた。
*
エルフの文字だった。
少なくとも、さっき見えた中には、写した覚えのある形があった。
俺は右手を伸ばし、文字のあったところを探した。
指先が溝に触れる。
石に彫り込まれていた。上から下へなぞると、途中から別の線が分かれている。
もう一度、上へ戻った。
紙が欲しかった。
写しは持っている。森の入口で預けた二枚とは別に、その場で書き写して手元へ残した。
けれど、それもボックスの中だ。
目の前の文字と並べて比べることすらできなかった。
星。還る。待っている。
あの一行から拾えた意味を、順に思い出した。
今触っている文字が、そのどれに当たるのかは分からない。似た形を見つけただけで、読めるようになるわけではなかった。
これはなぜ、こんな場所にあるんだろう。
森の入口で会ったエルフは、ここを知っているのだろうか。
俺は文字から手を離し、もう一度、ルームを開こうとした。
魔力が散った。
思わず、手を握った。
今のは、早すぎた。
これまでは、少しは集められた。入口の形になりかけてから崩れていた。
ここでは、その手前で散る。
疲れたせいか。
俺は壁に沿って戻った。靴が斧の柄に触れた。その先の角を探し、入ってきた通路へ数歩出た。
そこで、もう一度試した。
開かなかった。
けれど、さっきよりは集まる。
壁を伝って中へ戻り、文字がある壁の前で同じことをした。
また、早く散った。
俺は手を下ろした。
息を整え、しばらく待ってから、入口の外でもう一度確かめた。
違う。
開けないことに変わりはない。それでも、どこで試すかによって、魔力の散り方が違った。
落ちたときに、俺がおかしくなっただけではないのかもしれない。
壁の向こうを見ようとしても、何も見えなかった。
*
俺は斧を拾い、壁を伝って部屋を調べた。
角があった。
そこを曲がって進むと、また角に触れた。
途中で休みながらたどるうちに、四角い部屋の形が少しずつ分かってきた。少なくとも、壁際を通る範囲には家具も荷物もなかった。
入ってきた側と向かい合う壁に、もう一つ口が開いていた。
先にも石の床が続いている。
顔を向けると、かすかに空気が動いた。
続きがある。
すぐに進みたかった。
この部屋から離れれば、魔力を集めやすくなるかもしれない。
けれど、俺はもう一度だけ文字がある壁のところへ戻った。
誰が作ったのかも、何のための部屋なのかも分からない。文字と、力が使えないことに関係があるかも分からない。
それでも、何も持ち帰らずに離れたくなかった。
指で、同じ線を何度もたどった。
長い線。そこから曲がる線。その下にある短い線。
隣へ移る。
しばらく探ると、さっき触れたのと似た並びがあった。
四つの形が、ひとまとまりになって繰り返されているようだった。
全部は覚えられない。
この四つだけ。
右の指で溝をなぞり、そのあと自分の膝に同じ形を描いた。
二つ目で迷った。壁へ戻って、確かめた。
リーナに見せるなら、ここを間違えたら意味がない。
もう一度、最初からなぞった。
*
通路の口へ戻るときには、足が重くなっていた。
立ち止まっているあいだは忘れていた空腹が、また腹の中へ戻ってきた。
水を飲んだ。
栓を閉め、鞄に差した斧を直した。
あの繋がりは、まだ残っていた。
「文字があった」
小さく言った。
「リーナが調べてるのと、似たやつだ」
返事はなかった。
俺は文字の形を、右手の指で一つずつ空になぞった。
まだ覚えていた。
通路へ向き直り、壁に手をついた。
数歩進んだところで、立ち止まる。
ルームを開こうとすると、魔力はまた散った。
それでも、文字の前よりは集められた。
俺は右手を壁へ戻し、また慎重に進んでいった。




