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捨てられた転生者、金色の竜と旅に出る〜時空間チートで巡る、帰る場所のある旅路〜  作者: mizu
第四章 北の森

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落ちた先と、開かない部屋

落ちているあいだのことは、あまり覚えていない。


 足の下がなくなった。伸ばした手が岩を滑り、土の匂いが顔を塞いだ。


 左肩が何かにぶつかった。


 次に背中を打ったとき、口から息が漏れた。


 しばらく、吸い直せなかった。


 開けた口に土が入る。吐き出そうとして咳き込み、そのたびに肩の奥が痛んだ。


 右手の下には、濡れた葉があった。指を沈めると、崩れた土の下から黒い葉が何枚も出てきた。落ち葉が厚く積もっていたらしい。


 顔を横へ向け、少しずつ息を吸った。


 ついさっきまで、岩陰に座っていた。


 霧が晴れるのを待っていた。足が冷えて、座り直そうとした。それだけだった。


 耳を澄ますと、ぱらぱらと土の落ちる音がした。


 俺は右肘をつき、落ちてくる土から顔を背けた。


 指は動いた。左手も、握って開くことはできる。ただ、肘を持ち上げようとすると肩が痛んだ。それ以上は動かさず、足を片方ずつ曲げた。


 膝が擦れている。右の脛も痛い。


 それでも、両足は動いた。


 急に立つのは怖かった。しばらく座ったまま息を整えてから、上を見た。


 白かった。


 落ちてきた穴が、ずっと高いところにある。縁から垂れた根の向こうを、霧が流れていた。


 穴の真下だけが明るい。周囲は土と岩の壁で、見上げても、手を掛けて登れそうな道筋は見つからなかった。


 あそこへ戻るのか。


 壁を見ているうちに、左肩がまた痛んだ。


*


 水を飲もうと、俺はいつものようにボックスの口を開こうとした。


 何も起きなかった。


 右手を見た。


 指を一度閉じ、もう一度やり直した。


 開かない。


 顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。


 ルーチェ。そうだ、ルームにいるルーチェは——


 水のことは頭から消えた。


 俺は目の前の空間へ手を伸ばし、ルームの入口を思い描いた。床の高さ。扉の向こうの食卓。奥にある、あの子の寝床。


 何度も開いてきた部屋だ。


 つい昼にも、開けた。


 何も現れなかった。


「ルーチェ」


 声が壁に返ってきた。


 魔力が空になったわけではなかった。体の中にあるのは分かる。動かそうとすれば、動く。


 けれど、入口を作ろうと魔力を集めても、まとまる前に散ってしまう。


 もう少しで形になる。


 そう思った瞬間には、なくなっている。


 俺は右手を突き出したまま、何度も繰り返した。


「開けよ! 開いてくれ」


 左手も上げかけて、肩の痛みに息が詰まった。


 そのまま前へ屈んだ。汗が鼻の先から落ち、土に小さな跡を作った。


 落ち着かないと。


 そう思うほど、息が短くなった。


 俺は屈めていた体を起こし、ゆっくり息を吐いた。落ち着くために、今日あったことを順に思い返してみる。


*


 昼には、普通に開いていた。


 パンを食べ終えたルーチェが、入口から外を見た。


 風が吹き込んできて、まだ中にいると言った。俺もそこで食事をして、また休むときに声をかけるつもりで扉を閉じた。


 最後に見た顔を思い出そうとした。


 何もおかしなところはなかった。


 それから薬草を採って、霧が出て、岩陰で待っていた。


 割れ目に巻き込まれて落ちるまで、変わったことはなかったはずだ。


 ここに落ちたせいか。


 どこか、気づいていないところを打ったのか。


 俺は壁に背を預け、手を膝へ下ろした。息が少し戻るまで待ってから、ボックスを開こうとした。


 やはり、集めた魔力が形になる前に散った。


 ルームも同じだった。


 痛くて集中できないだけなのかもしれない。けれど、意識を向けたところまで魔力は動く。その先で、どうしてもまとまらない。


 この場所に、何かあるのか。


 上を見ても、白い穴しか見えなかった。


 確かめる方法は思いつかなかった。


 俺は目を閉じた。


 入口ではなく、その向こうにいるはずのルーチェを探した。


 いた。


 入口は開かない。それでも、あの子へ繋がっている魔力の感触だけは、はっきりと残っていた。


 普段は気に留めない、腹の底の方にあるもの。そこへ意識を向けると、細いものが張り詰めているような感じがした。


「ルーチェ。聞こえるか?」


 返事はなかった。


 竜の姿で話しかけてくるときの声も、聞こえない。


 ただ、胸の内側が落ち着かなかった。


 俺自身が怖いのとは、少し違った。こっちが息を止めていても、小さな震えだけが向こうから続いてくるようだった。


 ルーチェも、怖がっているのか。


 そう思うと、さっきよりはっきり感じられた。


 けれど、何をしているのかは分からない。俺を呼んでいるのか、入口のあった場所で待っているのか。


 分からないまま、俺はもう一度名前を呼んだ。


*


 あの部屋を開けられるのは、俺だけだ。


 ルーチェが出たいと言ったら、俺が開けていた。


 朝になったら開ける。休憩になったら開ける。寒ければ中に入れて、人目のない場所でまた出す。


 今日も、そうするはずだった。


 入口を開けないとき、あの子がどうやって外へ出るのか。


 その方法を、俺たちは持っていなかった。


 食卓には水と食べ物を置いてある。寝床もある。昼に見たときは、いつも通りの部屋だった。


 だから大丈夫だと、口にしかけた。


 今も同じかどうか、分からないのに。


 俺は唇を噛んだ。


 向こうから来るような心細さが、消えなかった。


 何も感じなければ、開けることだけを考えていられたかもしれない。


 そう思った途端、残っている繋がりまでなくなるのが怖くなった。


 右手で上着の胸元を掴んだ。


「いるんだな」


 返事はない。


 それでも、そこから意識を離せなかった。


*


 いつまでも、ここに座ってはいられない。


 頭上の穴にはまだ光があった。けれど、落ちた直後より明るいのか暗いのかも、もうよく分からなかった。


「考えろ」


 声に出すと、喉が乾いていた。


 食べ物と水は、ルームに置いた。


 ルーチェの気配もある。


 今の俺に分かるのは、そこまでだ。


 俺がここで動けなくなったら、誰があの子を出す。


 そう考えて、また息が速くなりかけた。


 右手を胸元から離した。膝に置き、ゆっくり息を吐いた。


 もし、こっちにもあの子の怖さが伝わっているなら。


 俺の怖さも、向こうへ届いているかもしれない。


 息を整えたところで扉が開くわけではなかった。それでも、震えたまま名前を呼び続けるより、できることがあるはずだった。


「まずは、出口を探す」


 聞こえるか分からないまま、言った。


 返事を待ってから、俺は周りを見た。


 落ちた場所は、縦穴の底だけではなかった。片側の壁が奥へ続き、その上に低い天井が伸びている。


 横穴だ。


 入口に近いところなら、立って歩けそうだった。その先は暗く、床も見えない。


 頬に、かすかに空気が触れた。


 しばらくじっとしていると、また同じところが冷えた。


 奥から流れてきているらしい。


 外に繋がっているのかもしれない。


 人が通れない細い隙間から来ているだけかもしれないが、今見つけられる手がかりは、それしかなかった。


*


 まず、持っているものを確かめた。


 鞄の口を開けた。


 中にあったのは、道順を書いた紙と、空の布袋だけだった。


 予備の食料も、薬袋も、縄も、ボックスの中だ。


 俺は鞄を膝に広げ、身につけていたものを並べた。


 小刀が一本。


 腰の鞘に収まっていた。抜くと刃に土がついていたが、欠けたところは見当たらない。ベックさんに教わって、自分で研いでいた刃だ。


 火打石と、火をつけるときに使う、乾かした苔の小袋。


 袋の外側は汚れていた。紐を緩め、内側を指で触る。苔はまだ乾いていた。こぼさないうちに口を閉じた。


 財布。銅貨が十枚ほど。


 それも戻した。


 肩から提げていた水袋は、体の脇に挟まっていた。手ぶらで歩いて怪しまれないよう、人に見せるために持っていたものだ。持ち上げると、半分ほどの水が動いた。栓を抜き、ひと口だけ飲んだ。


 水が喉を通るあいだ、そこがひどく乾いていたことを思い知った。


 もっと飲みたかったが、栓をした。


 ヨルクさんに借りた斧は、少し離れた落ち葉の上にあった。


 腰に留めていた紐が切れている。


 右手を壁について立ち、数歩の距離をゆっくり歩いた。足に体重をかけると、脛が痛んだ。それでも、膝が崩れることはなかった。


 斧を拾うと、柄にひびが入っていた。


 刃のついた頭は、すぐにはぐらつかなかった。けれど、強く振ったらどうなるかは分からない。


 ひびを親指でなぞった。


 昨日、ヨルクさんが渡してくれたときには、なかった傷だ。


 返さないと。


 そう思ってから、借り物の心配をしている自分に気づいた。


 俺は斧を持って、鞄のところへ戻った。


 最後に、上着の内側を探った。


 平たい布包みが、内ポケットの奥に残っていた。


 包帯だった。


 王都を出る前の日に買って、切って巻いておいたものだ。全部をボックスへ入れず、ひと巻きだけ、すぐ手の届くところに分けていた。


 旅の途中で必要になるなら、たぶん急ぐときだと思った。


 それなのに、今まで忘れていた。


 包みを開くと、土のついていない布が出てきた。


 マルタさんの店で薬草を量ったときの、秤の皿を思い出した。包帯も旅に要るものも、あそこでは手を伸ばせば棚にあった。


 俺は広げかけた布を巻き直した。


 今は、これだけだ。


 汚さないように包み直すころには、指の震えが少し収まっていた。


*


 小刀。火打石。乾いた苔。


 包帯と、水が半分。


 柄の傷んだ斧。


 並べたものを、ひとつずつ戻した。


 火をつけるものはあっても、そのまま持って歩ける灯りはなかった。足元の葉は濡れている。明るいうちに見える範囲を探したが、乾いた枝も見つからなかった。


 苔の袋を、もう一度しっかり結んだ。


 暗くなってから落としたら、拾える気がしなかった。


 小刀は右手で抜ける位置に。水袋は肩に負担の少ないように掛け直す。包帯は内ポケットへ戻し、口元を押さえた。


 左腕の痛みは、無理に上げなければ我慢できた。


 右手に斧を持ち、横穴の手前まで進んだ。


 ここなら変わるかもしれないと、もう一度だけルームを開こうとした。


 魔力が集まりかけて、散った。


 俺は手を下ろした。


 繋がりは、まだあった。


 さっきより静かな気もしたが、俺がそう感じたいだけなのかもしれなかった。


「少し、歩くから」


 言ってから、横穴の床を見た。


 光の届くところには、崩れた土と石がある。その先で天井が低くなり、暗がりに続いていた。


 集落では、明後日には帰ると言ってある。


 今夜戻らなくても、おかしくはない。探しに来てくれるとしても、まだ先だ。霧の中で崩れたこの穴を、見つけてもらえるかも分からない。


 入口の脇に斧を置き、壁へ右手をついた。


 少し体重をかけてから、一歩進んでみた。足元は崩れなかった。


 振り返ると、落ちてきた穴が見えた。


 白い光の向こうに、帰り道がある。ハンナ婆さんの薬棚と、ヨルクさんが直してくれた小屋がある。


 ルーチェは帰った翌日の水汲みを引き受けていた。


 俺は目を閉じ、あの細い繋がりをもう一度確かめた。


 それから斧を拾い、横穴へ足を踏み入れた。


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