落ちた先と、開かない部屋
落ちているあいだのことは、あまり覚えていない。
足の下がなくなった。伸ばした手が岩を滑り、土の匂いが顔を塞いだ。
左肩が何かにぶつかった。
次に背中を打ったとき、口から息が漏れた。
しばらく、吸い直せなかった。
開けた口に土が入る。吐き出そうとして咳き込み、そのたびに肩の奥が痛んだ。
右手の下には、濡れた葉があった。指を沈めると、崩れた土の下から黒い葉が何枚も出てきた。落ち葉が厚く積もっていたらしい。
顔を横へ向け、少しずつ息を吸った。
ついさっきまで、岩陰に座っていた。
霧が晴れるのを待っていた。足が冷えて、座り直そうとした。それだけだった。
耳を澄ますと、ぱらぱらと土の落ちる音がした。
俺は右肘をつき、落ちてくる土から顔を背けた。
指は動いた。左手も、握って開くことはできる。ただ、肘を持ち上げようとすると肩が痛んだ。それ以上は動かさず、足を片方ずつ曲げた。
膝が擦れている。右の脛も痛い。
それでも、両足は動いた。
急に立つのは怖かった。しばらく座ったまま息を整えてから、上を見た。
白かった。
落ちてきた穴が、ずっと高いところにある。縁から垂れた根の向こうを、霧が流れていた。
穴の真下だけが明るい。周囲は土と岩の壁で、見上げても、手を掛けて登れそうな道筋は見つからなかった。
あそこへ戻るのか。
壁を見ているうちに、左肩がまた痛んだ。
*
水を飲もうと、俺はいつものようにボックスの口を開こうとした。
何も起きなかった。
右手を見た。
指を一度閉じ、もう一度やり直した。
開かない。
顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
ルーチェ。そうだ、ルームにいるルーチェは——
水のことは頭から消えた。
俺は目の前の空間へ手を伸ばし、ルームの入口を思い描いた。床の高さ。扉の向こうの食卓。奥にある、あの子の寝床。
何度も開いてきた部屋だ。
つい昼にも、開けた。
何も現れなかった。
「ルーチェ」
声が壁に返ってきた。
魔力が空になったわけではなかった。体の中にあるのは分かる。動かそうとすれば、動く。
けれど、入口を作ろうと魔力を集めても、まとまる前に散ってしまう。
もう少しで形になる。
そう思った瞬間には、なくなっている。
俺は右手を突き出したまま、何度も繰り返した。
「開けよ! 開いてくれ」
左手も上げかけて、肩の痛みに息が詰まった。
そのまま前へ屈んだ。汗が鼻の先から落ち、土に小さな跡を作った。
落ち着かないと。
そう思うほど、息が短くなった。
俺は屈めていた体を起こし、ゆっくり息を吐いた。落ち着くために、今日あったことを順に思い返してみる。
*
昼には、普通に開いていた。
パンを食べ終えたルーチェが、入口から外を見た。
風が吹き込んできて、まだ中にいると言った。俺もそこで食事をして、また休むときに声をかけるつもりで扉を閉じた。
最後に見た顔を思い出そうとした。
何もおかしなところはなかった。
それから薬草を採って、霧が出て、岩陰で待っていた。
割れ目に巻き込まれて落ちるまで、変わったことはなかったはずだ。
ここに落ちたせいか。
どこか、気づいていないところを打ったのか。
俺は壁に背を預け、手を膝へ下ろした。息が少し戻るまで待ってから、ボックスを開こうとした。
やはり、集めた魔力が形になる前に散った。
ルームも同じだった。
痛くて集中できないだけなのかもしれない。けれど、意識を向けたところまで魔力は動く。その先で、どうしてもまとまらない。
この場所に、何かあるのか。
上を見ても、白い穴しか見えなかった。
確かめる方法は思いつかなかった。
俺は目を閉じた。
入口ではなく、その向こうにいるはずのルーチェを探した。
いた。
入口は開かない。それでも、あの子へ繋がっている魔力の感触だけは、はっきりと残っていた。
普段は気に留めない、腹の底の方にあるもの。そこへ意識を向けると、細いものが張り詰めているような感じがした。
「ルーチェ。聞こえるか?」
返事はなかった。
竜の姿で話しかけてくるときの声も、聞こえない。
ただ、胸の内側が落ち着かなかった。
俺自身が怖いのとは、少し違った。こっちが息を止めていても、小さな震えだけが向こうから続いてくるようだった。
ルーチェも、怖がっているのか。
そう思うと、さっきよりはっきり感じられた。
けれど、何をしているのかは分からない。俺を呼んでいるのか、入口のあった場所で待っているのか。
分からないまま、俺はもう一度名前を呼んだ。
*
あの部屋を開けられるのは、俺だけだ。
ルーチェが出たいと言ったら、俺が開けていた。
朝になったら開ける。休憩になったら開ける。寒ければ中に入れて、人目のない場所でまた出す。
今日も、そうするはずだった。
入口を開けないとき、あの子がどうやって外へ出るのか。
その方法を、俺たちは持っていなかった。
食卓には水と食べ物を置いてある。寝床もある。昼に見たときは、いつも通りの部屋だった。
だから大丈夫だと、口にしかけた。
今も同じかどうか、分からないのに。
俺は唇を噛んだ。
向こうから来るような心細さが、消えなかった。
何も感じなければ、開けることだけを考えていられたかもしれない。
そう思った途端、残っている繋がりまでなくなるのが怖くなった。
右手で上着の胸元を掴んだ。
「いるんだな」
返事はない。
それでも、そこから意識を離せなかった。
*
いつまでも、ここに座ってはいられない。
頭上の穴にはまだ光があった。けれど、落ちた直後より明るいのか暗いのかも、もうよく分からなかった。
「考えろ」
声に出すと、喉が乾いていた。
食べ物と水は、ルームに置いた。
ルーチェの気配もある。
今の俺に分かるのは、そこまでだ。
俺がここで動けなくなったら、誰があの子を出す。
そう考えて、また息が速くなりかけた。
右手を胸元から離した。膝に置き、ゆっくり息を吐いた。
もし、こっちにもあの子の怖さが伝わっているなら。
俺の怖さも、向こうへ届いているかもしれない。
息を整えたところで扉が開くわけではなかった。それでも、震えたまま名前を呼び続けるより、できることがあるはずだった。
「まずは、出口を探す」
聞こえるか分からないまま、言った。
返事を待ってから、俺は周りを見た。
落ちた場所は、縦穴の底だけではなかった。片側の壁が奥へ続き、その上に低い天井が伸びている。
横穴だ。
入口に近いところなら、立って歩けそうだった。その先は暗く、床も見えない。
頬に、かすかに空気が触れた。
しばらくじっとしていると、また同じところが冷えた。
奥から流れてきているらしい。
外に繋がっているのかもしれない。
人が通れない細い隙間から来ているだけかもしれないが、今見つけられる手がかりは、それしかなかった。
*
まず、持っているものを確かめた。
鞄の口を開けた。
中にあったのは、道順を書いた紙と、空の布袋だけだった。
予備の食料も、薬袋も、縄も、ボックスの中だ。
俺は鞄を膝に広げ、身につけていたものを並べた。
小刀が一本。
腰の鞘に収まっていた。抜くと刃に土がついていたが、欠けたところは見当たらない。ベックさんに教わって、自分で研いでいた刃だ。
火打石と、火をつけるときに使う、乾かした苔の小袋。
袋の外側は汚れていた。紐を緩め、内側を指で触る。苔はまだ乾いていた。こぼさないうちに口を閉じた。
財布。銅貨が十枚ほど。
それも戻した。
肩から提げていた水袋は、体の脇に挟まっていた。手ぶらで歩いて怪しまれないよう、人に見せるために持っていたものだ。持ち上げると、半分ほどの水が動いた。栓を抜き、ひと口だけ飲んだ。
水が喉を通るあいだ、そこがひどく乾いていたことを思い知った。
もっと飲みたかったが、栓をした。
ヨルクさんに借りた斧は、少し離れた落ち葉の上にあった。
腰に留めていた紐が切れている。
右手を壁について立ち、数歩の距離をゆっくり歩いた。足に体重をかけると、脛が痛んだ。それでも、膝が崩れることはなかった。
斧を拾うと、柄にひびが入っていた。
刃のついた頭は、すぐにはぐらつかなかった。けれど、強く振ったらどうなるかは分からない。
ひびを親指でなぞった。
昨日、ヨルクさんが渡してくれたときには、なかった傷だ。
返さないと。
そう思ってから、借り物の心配をしている自分に気づいた。
俺は斧を持って、鞄のところへ戻った。
最後に、上着の内側を探った。
平たい布包みが、内ポケットの奥に残っていた。
包帯だった。
王都を出る前の日に買って、切って巻いておいたものだ。全部をボックスへ入れず、ひと巻きだけ、すぐ手の届くところに分けていた。
旅の途中で必要になるなら、たぶん急ぐときだと思った。
それなのに、今まで忘れていた。
包みを開くと、土のついていない布が出てきた。
マルタさんの店で薬草を量ったときの、秤の皿を思い出した。包帯も旅に要るものも、あそこでは手を伸ばせば棚にあった。
俺は広げかけた布を巻き直した。
今は、これだけだ。
汚さないように包み直すころには、指の震えが少し収まっていた。
*
小刀。火打石。乾いた苔。
包帯と、水が半分。
柄の傷んだ斧。
並べたものを、ひとつずつ戻した。
火をつけるものはあっても、そのまま持って歩ける灯りはなかった。足元の葉は濡れている。明るいうちに見える範囲を探したが、乾いた枝も見つからなかった。
苔の袋を、もう一度しっかり結んだ。
暗くなってから落としたら、拾える気がしなかった。
小刀は右手で抜ける位置に。水袋は肩に負担の少ないように掛け直す。包帯は内ポケットへ戻し、口元を押さえた。
左腕の痛みは、無理に上げなければ我慢できた。
右手に斧を持ち、横穴の手前まで進んだ。
ここなら変わるかもしれないと、もう一度だけルームを開こうとした。
魔力が集まりかけて、散った。
俺は手を下ろした。
繋がりは、まだあった。
さっきより静かな気もしたが、俺がそう感じたいだけなのかもしれなかった。
「少し、歩くから」
言ってから、横穴の床を見た。
光の届くところには、崩れた土と石がある。その先で天井が低くなり、暗がりに続いていた。
集落では、明後日には帰ると言ってある。
今夜戻らなくても、おかしくはない。探しに来てくれるとしても、まだ先だ。霧の中で崩れたこの穴を、見つけてもらえるかも分からない。
入口の脇に斧を置き、壁へ右手をついた。
少し体重をかけてから、一歩進んでみた。足元は崩れなかった。
振り返ると、落ちてきた穴が見えた。
白い光の向こうに、帰り道がある。ハンナ婆さんの薬棚と、ヨルクさんが直してくれた小屋がある。
ルーチェは帰った翌日の水汲みを引き受けていた。
俺は目を閉じ、あの細い繋がりをもう一度確かめた。
それから斧を拾い、横穴へ足を踏み入れた。




