橋の落ちた村と、ルーチェのパン
王都へ向かう道は、ふたつあった。
ひとつは東回りの新道。宿場が整っていて、隊商も旅人もみんなこちらを通る。もうひとつが旧道で、こちらの方が二日近い。ただし、去年の春の増水で大橋が落ちたきり直っておらず、人はほとんど通らないという。
ミューレの食堂でそれを聞いていた俺たちは、分かれ道で顔を見合わせて、旧道を選んだ。
人が通らない道は、俺たちにとっては悪い話じゃない。決めごとの一番目——飛ぶのは、人のいない区間だけ。橋が落ちているなら、川はルーチェの翼で渡ればいい。
旧道は、静かだった。轍の跡に草が伸びて、道の真ん中で野鳥が餌をついばんでいた。人の絶えた道は、たった一年で、森に返り始めるらしい。
*
旧道に入って二日目の昼、村があった。
地図で言えば、例の大橋のすぐ手前。川のこちら側の、最後の村ということになる。
街道地図には名前も載っていない、川沿いの小さな村。畑はあって、家々の煙突から煙も上がっている。でも、歩いて近づくにつれて、俺の中の物差しが、嫌な音を立て始めた。
畑の作物が、痩せている。柵が、壊れたまま放ってある。そして、道端からこちらを見ている子供たちは、痩せ細って見える。
ミューレの子供たちと、逆だった。
走り方に、力がない。俺は、この見分け方を一生忘れられないんだろうと思う。子供が飯を食えている町か、どうか。それだけが、俺の物差しなのだ。
*
井戸で水を分けてもらいながら、白髪の老人に話を聞いた。あとで知ったが、この人が村長だった。
事情は、単純だった。橋が落ちた。それだけだった。
「行商が、来なくなってなあ」
村長は、皺だらけの手で川の方を指した。
「うちの村はもともと、旧道を行く人らに、野菜だの卵だの売って暮らしとった。橋が落ちて、道が死んで、売る相手がおらんくなった。作物はあるんだ。塩と、薬が、買えんのよ」
「……ミューレから、来られるのでは」
「来られるさ。来る理由が、ないんじゃ。行商というのは、通り道だから寄ってくれる。この先へ抜けられん行き止まりの村ひとつのために、往復四日かけてくれる物好きは、おらんよ」
「なら、ミューレへ買いに出るのは」
「歩いて丸二日。野菜を担いで行って、帰りには半分傷む。若いもんは、もう何人もミューレへ働きに出た。……悪いことなんぞ、誰もしとらんのだがなあ」
悪いことを、誰もしていない。
その言葉が、胸のいちばん奥に、静かに刺さった。
ガルド子爵のときは、敵がいた。悪意があって、不正があった。だから戦えた。嘘を見つけて、証拠を並べて、押し返すことができた。
この村には、敵がいない。
天災で橋が落ちただけだ。誰も悪くない貧しさには、押し返す相手が出てこない。
*
井戸の脇で、ルーチェが立ち止まっていた。
視線の先に、女の子がいた。ニナより小さいくらいの子で、母親の後ろに半分隠れて、こちらを見ている。正確には——ルーチェが手に持っていた、食べかけの丸パンを、見ている。
ミューレで買った、最後のひとつだった。かよわい妹の設定を盾に、ルーチェが夕飯の後の分までせしめた、あのパンだ。
ルーチェは自分のパンを見て、女の子を見て、それからすっと歩み寄って、差し出した。
「たべる?」
女の子が、母親を見上げた。母親が何か言いかけて、俺と目が合って、口を閉じて、それから深く頭を下げた。
女の子は、パンを両手で受け取って、小さな声でお礼を言ってから、齧りついた。
ルーチェは、空になった自分の手のひらをしばらく眺めて、それから、なぜだかとても満足そうに、その手をぐーぱーと閉じたり開いたりした。
*
立ち去る前に、俺は行商人と換えた塩をひと袋と、薬草の束をいくつか出して、村長の野菜と換えてもらった。人の絶えた旧道は、薬草にとっては楽園らしく、歩きながら摘んだ束が鞄の仕切りにいくつも溜まっていた。熱冷ましと、腹下しの定番どころ。オスカルさんの店に通ううちに、選び方は体が覚えていた。
この村で、塩と薬は、金を出しても買えない品だ。もらいすぎだと村長は何度も俺にいってきたが、俺は首を振った。
「正当な取引だから」
ベックさんの受け売りだった。施しは受け取りにくいが、正当な取引なら胸を張って受け取れる。七年前、四歳の俺に銅貨を数えさせた人の、あれが優しさの形だったと、いまならわかる。
それに、この村の困りごとは「売る相手がいない」ことだと、聞いたばかりだ。なら、まず俺が、買い手になればいい。
別れ際——になるはずだった。村長は川の方を見て、独り言みたいに言った。
「橋さえ、ありゃあなあ」
俺は、落ちた橋の跡を見た。
石の橋脚が二本、川の中に残っている。アイテムボックスには、石も木材も入る。俺の魔力なら、資材を運ぶだけならできる。でも、橋は運べば架かるものじゃない。設計があって、職人がいて、俺がいなくなった後も百年残るように組まれて、初めて橋になる。
今の俺には、それがない。
アシェンでやったことは、ここでもできるはずだ——七年かけたなら。でも旅の途中の俺には、七年がない。通り過ぎることしか、できない。
黙り込んだ俺を見て、村長は、納屋の方を顎で指した。
「じきに日が落ちる。今夜は泊まっていきなされ。野菜をあれだけ換えてもろうた、礼だ」
*
夕飯は、村長の家の土間で振る舞われた。
俺の塩と、村の野菜の、それだけの汁物だった。それが、囲炉裏を囲んだ人数の分だけ、湯気を立てていた。ルーチェは例の女の子の隣に座って、汁椀を両手で持つ持ち方を、逆に教わっていた。
薄い汁だった。アシェンの、あの粥を思い出す味がした。うまかった。
*
夜半、眠れなかった。
納屋を抜け出して、川原に立った。月明かりの下で、二本の橋脚は、墓標みたいに見えた。
通り過ぎることしかできない。夕方、自分にそう言い聞かせた言葉を、もう一度なぞってみた。なぞるほどに、腹の底で何かが軋んだ。
橋脚に、手を触れた。
冷たい石の感触の向こうから、鑑定が拾い上げてくる。【石橋の橋脚/基部に亀裂・上部欠損。落橋時の石材は川底に散乱】——散乱。流されたんじゃない。沈んでいるだけだ。ここに、まだ、あるのだ。
戻れ、と思った。
理屈より先に、それは形になった。
手のひらの下で、光が走った。川面が割れて、石が浮かんだ。ひとつじゃない。何十という石が、月明かりに濡れて光りながら、あるべき場所へ、静かに還っていく。亀裂が閉じる。欠けた角が埋まる。二本の橋脚が、みるみる背筋を伸ばしていく——
そこで、途切れた。
膝が、砕けるように落ちた。視界が明滅して、体中から魔力が抜けていた。七年かけて育てた魔力が、たった今の一瞬で、底が見えるほど減っていた。
顔を上げる。橋脚は二本とも、落ちる前の姿で立っていた。でも、その上に渡すはずの桁と板は、影も形もない。木の部材は、とうに流れて、朽ちて、この世のどこにも残っていないからだ。
残っているものしか、戻せない。
視界の隅で、ステータスが開いた。ずっと【※詳細不明】のままだった時空間素質の行の下に、見慣れない一行が、灯っていた。
【復元】
それだけだった。説明も、何もない。俺の魔法は、いつもそうだ。
「……こりゃあ」
背後で、声がした。
村長が、提灯も持たずに立っていた。眠れないのは、俺だけじゃなかったらしい。村長は、川の中で月光を弾く二本の橋脚を長いこと見て、それから、俺を見た。
「わしは、何も見とらん」
オスカルさんと、同じ言い方だった。大人というのは、どこの世界でも、こういうときに同じ顔をするらしい。
「橋脚と、沈んでいた石だけです。……上に渡すものは、材料が、もう残っていなくて」
言い訳みたいに言った。できなかったことの方を、先に。
村長は、ゆっくりと首を振った。
「簡単な橋なら、架けられる」
「え」
「橋脚さえ生きとりゃあ、丸太を渡して板を打つくらい、村の男衆でできる。できるんだ。じゃが、川ん中の石積みだけは、わしらにはどうにもならんかった。……それが、な」
村長の声が、そこで少し揺れた。
「荷車は、まだ無理じゃろう。だが、人と背負い荷なら渡れる。……行商が、戻ってこられる」
*
朝、旅立つ俺たちの背中に、川の方から音が届いた。
槌の音だった。アシェンの、あの修繕の音と、同じ音だった。振り返ると、村の男衆が丸太を担いで川原へ下りていくのが見えた。あの女の子が、その後ろを、昨日より速く走っていた。
*
夜、川上の岩場で、火を熾した。
橋にはまだ、人ひとり分の丸太も渡っていない。俺たちは村を出て川沿いに上流へ歩き、人目の絶えた岩場で日暮れを待った。明日の早朝、薄明かりのうちに、ルーチェの翼で対岸へ渡る。——決めごとの、通りに。
ルーチェは竜の姿で丸くなり、俺はその腹に背中を預けて、リーナへの最初の手紙の続きを書いた。カザハナ草の実物に会ったこと。ミューレのパンがうまかったこと。それから、今日の村のことを書いた。
——かりかり、と書く音の合間に、ルーチェが言った。
——ねえ、レイ。
「ん」
——あのこ、あした、ごはん、ある?
「橋が架かれば、な」
嘘はつかないことにしている。ルーチェは、少し考えて、それから言った。
——はしって、ごはんの、みちなんだね。
言い方が変だぞ、と言いかけて、やめた。
変なのに、正しかったからだ。世界がどれだけ広くても、ひとりの子供の飯は、その子の手が届く鍋ひとつ分しかない。だから道は、鍋まで繋がっていないといけない。俺にできたのは、川底の石を積み直すことだけだ。その先を架けるのは、村の人たちの手で——それで、いいのだと思う。
俺は手紙の端に、村の名前を書き足した。
地図に載らない、小さな村の名前だ。
次に来るときは、橋を渡って来よう。できれば、荷車も通れるやつを、誰かと一緒に。




